トーキョー・シティ地下保守線。
廃止された駅ホームへ三人が降りた。
錆びた線路には濁った水が溜まり、天井を走る配管から一定間隔で水滴が落ちている。
非常灯だけが生きていた。
白い光がひび割れたコンクリート柱を照らしている。
三人は[統律特命局]所属の[ガンマチーム]。
アビゲイル・エイミー・アームストロング。
ジャン=ジャック・ジャカール。
リョウ。
全員が黒いスーツ、白いシャツ、黒いネクタイを着用している。
見た目は統律特命局の制服。
だが内部には戦術支援システム〈T.A.S.S.〉が組み込まれていた。
通信。
情報処理。
生命管理。
防御補助。
短時間神経活性。
エージェントの行動を支援するための統合装備だった。
ホーム後方には黒いSUVが停車している。
ガンマチーム専用車両〈レイヴン〉。
ジャンが名づけた水素駆動の高静音車両。
防弾、EMP耐性、AI同期機能を持ち、移動中は車内全体が観測と分析の拠点になる。
アビゲイルは周囲を確認した。
都市側から送られてくる地図情報には欠落と矛盾が多い。
実際の地形と一致しない区画もある。
「ジャン。ここから先は徒歩。〈レイヴン〉を予備ルート3へ退避」
「了解、リーダー」
ジャンが端末を操作する。
「帰路を確保するには最低でも3ブロック分の安全確認が必要です」
「構わない」
アビゲイルが頷く。
「まず現場を見る」
〈レイヴン〉が静かに後退を始めた。
リョウが後部ドアを開ける。
「ちょっと待て」
座席から高カロリーのスナック菓子を二袋取り出した。
ジャンが横目を向ける。
「持ちすぎです」
「《クロガネ》使ったら減るんだよ!」
「一袋で十分でしょう」
「君にオレの燃費は分からん!」
「かなり把握しています」
リョウは数秒考えた。
一袋を車内へ戻す。
「……これで妥協してやる」
「誰と交渉してるんですか」
「行くぞ」
アビゲイルの一言で会話が終わった。
〈レイヴン〉が暗いトンネルの奥へ消えていく。
三人は線路へ降りた。
⸻
先頭はアビゲイル。
その後ろにジャン。
最後尾をリョウが歩く。
壁面の案内表示はほとんど消えている。
所々に残された避難誘導灯だけが現在地を示していた。
アビゲイルの指先が胸元の古びたクロス型ペンダントへ触れる。
考えて行った動作ではない。
緊張が高まるといつの間にか触れている。
「東第9街区を抜ける」
アビゲイルが足を止めずに指示する。
「散開しない。三人で行動を維持」
「了解、リーダー」
「了解!」
ジャンが携行端末を確認する。
「この路線は20年前の再設計で廃止されています」
過去に見た都市設計資料を《エイドメモリア》から検索する。
「旧南東保守線が、この先で第41街区地下へ接続していたはずです」
「現状は?」
「端末上では一部崩落」
ジャンが現在のセンサー情報と照合する。
「ただ、完全閉塞ではありません。徒歩なら通れます」
「そこを使う」
アビゲイルが決定した。
数十メートル進んだところでジャンの端末が振動する。
「熱源」
三人が止まった。
「複数です」
リョウがスナック袋をポケットへ押し込む。
「人間か?」
「それだけじゃありません」
ジャンが表示範囲を拡大する。
「機械反応もあります」
アビゲイルが柱の陰から先を見る。
暗いホームの向こう。
銀色の小型球体が浮遊していた。
〈センチレット〉。
一機。
その後ろに二機。
赤いセンサー光を床へ走らせながら一定の速度で移動している。
「こっちには気づいてない?」
リョウが低い声で尋ねる。
「まだだ」
アビゲイルはさらに奥を見る。
別の動き。
人影だった。
四つ足に近い姿勢で床を這っている。
腕が不自然に長い。
背中の筋肉が異常に発達し、片脚は外側へ歪んでいた。
それでも顔には人間だった痕跡が残っている。
変異市民。
〈センチレット〉はその個体を攻撃しなかった。
一定距離を維持したまま側面へ回り込む。
別方向から二機目が近づく。
変異市民が進路を変えた。
「……誘導してる?」
リョウが呟く。
ジャンが端末を見る。
「少なくとも排除はしていません」
アビゲイルは三機の移動を見る。
「変異市民を同じ方向へ集めてる」

その時。
遠くで銃声が響いた。
地下全体へ反響する。
続いて鈍い爆発音。
三人が同時に顔を上げた。
「南東上方!」
ジャンが音源を割り出す。
「第41街区地上区画!」
「移動する!」
アビゲイルが走り出した。
〈T.A.S.S.〉の短時間神経活性を一段だけ上げる。
崩れたレールを飛び越えた。
ジャンとリョウが続く。
「現在ルート、前方崩落!」
ジャンが走りながら端末を見る。
過去の地図と現在の地形情報を重ねる。
「右の保守トンネル!」
三人が曲がる。
「その先に地上連絡階段があります!」
銃声が近づいてくる。
叫び。
金属が倒れる音。
アビゲイルが最後の階段を駆け上がった。
地上へ出る。
人工空は一部の投影を失っていた。
黒い帯が空を横切り、星は一つも映っていない。
その下で戦闘が続いていた。
「……教官」
アビゲイルの声が低くなる。
数十メートル先。
マナイア・ケアがいた。
黒い戦闘服は各所が破れ、全身に煤と血が付着している。
アサルトライフルは背へ回されていた。
弾倉は空。
左手には拳銃。
スライドは後退したまま止まっている。
弾切れ。
右手には祖父から受け継いだナイフ。
そしてその背後。
小柄な少女がいる。
陽名だった。
マナイアは彼女の前から退かなかった。
周囲には十数人の変異市民。
姿は一様ではない。
身体能力だけが異常に強化された者。
腕の一部が硬質化した者。
理性をほぼ失い、光と動きへ反応している者。
倒れたまま同じ言葉を繰り返している者。
全員が生きている。
だからこそマナイアは致命部位を狙っていなかった。
接近した一人の腕を受け流す。
足を払う。
ナイフの柄で側頭部を打ち、地面へ転がした。
「チッ……キリがねぇ……!」
別方向から二人。
マナイアが陽名の前へ戻る。
呼吸は乱れていた。
それでも背中を向けない。
アビゲイルは〈高周波刀〉へ手を伸ばした。
「リョウ!」
「待ってました!」
リョウがアビゲイルを追い越す。
「ヒーロー見参ッ!」
両腕から肩へ黒銀の生体金属が走る。
《クロガネ》。
重量級の身体がそのまま変異市民の群れへ突っ込んだ。
先頭の一人を肩で受け止める。
持ち上げず進行方向だけを横へずらす。
二人目を腕で抱え、地面へ押さえ込む。
「おいおい! こんだけ集まってんのかよ!」
「リョウ、右を開けろ!」
「了解!」
アビゲイルが〈高周波刀〉を抜く。
淡い振動音。
《ミライメージ》が起動する。
現在から数秒先の分岐が広がった。
正面へ出る未来。
右へ抜ける未来。
左から回り込まれる未来。
変異市民が倒れる位置。
リョウの立ち位置。
ジャンの射線。
アビゲイルはその中から一つを選ぶ。
「ジャン、右後方!」
「見えています!」
ジャンが指紋認証式拳銃を構える。
狙ったのは変異市民ではない。
頭上の腐食した標識固定具を撃つ。
金属板が落下した。
接近していた三人が反射的に足を止める。
「今です!」
アビゲイルが開いた隙間へ入る。
硬質化した腕へ巻きついていた金属片だけを〈高周波刀〉で切断した。
身体を捻る。
次の攻撃を流す。
足を掛けて地面へ倒した。
「教官!」
マナイアが顔を上げた。
アビゲイルを見る。
「……へっ」
疲れ切った顔に笑みが浮かぶ。
「遅ぇぞ、小僧」
「助けに来ました」
「見りゃ分かる」
リョウが二人の間へ入る。
「感動の再会はあとにしてくれ!」
「ジャン!」
アビゲイルが叫ぶ。
「撤退路!」
「右後方、約30メートル!」
ジャンが指示する。
「地下搬入口まで抜けられます!」
「そこまで押す!」

アビゲイルは陽名を視界へ入れた。
少女はマナイアの背後に立っている。
表情は静かだった。
片手はマナイアの戦闘服を掴んでいる。
それでもその場から逃げてはいない。
「教官、この子は?」
アビゲイルが変異市民の攻撃を受け流しながら尋ねる。
「生存者だ!」
マナイアが一人を押し返す。
「ヒナを頼む!」
「ヒナ?」
「あとで話す!」
「了解!」
アビゲイルは陽名の前へ位置を変えた。
その瞬間。
〈T.A.S.S.〉の人物識別枠が少女へ重なる。
【PERSON DETECTED】
一瞬。
【ID:UNRESOLVED】
枠が消えた。
再び表示される。
【TRACKING……】
また外れる。
アビゲイルの目には少女がはっきり見えている。
距離も分かる。
位置も分かる。
それなのにシステムだけが固定できない。
「ジャン」
「確認しています」
ジャンの端末にも同じ異常が出ていた。
「市民登録照合、該当なし」
「アクセス障害か?」
「可能性はあります」
ジャンは陽名を見る。
「でも、この子自身は普通に見えています」
その言葉の途中。
アビゲイルの《ミライメージ》に新しい分岐が走った。
赤。
マナイア。
血。
「教官、伏せ――」
銃声。
マナイアの身体が揺れた。
「ぐっ……!」
「教官!」
弾丸は戦闘服の装甲継ぎ目を抜き、右脇腹へ入っていた。
マナイアが片膝をつく。
陽名が彼へ手を伸ばした。
「おじさん!」
アビゲイルは射線の先を見る。
崩れた建物の二階。
黒いスーツを着た大柄な人影。
銃器を構えている。
「射手!」
リョウが振り向く。
アビゲイルの未来視に二発目の射線が現れる。
「ジャン、教官を!」
「了解!」
アビゲイルが陽名の前へ出る。
二発目。
来る。
だが。
射手の銃口が少し逸れた。
ジャンの端末に一瞬だけ警告が走る。
【UNKNOWN CONTROL WAVEFORM】
【SIGNAL DROP:0.4 sec】
「……信号が落ちた?」
射手自身も動きを止めたように見えた。
陽名がその人物を見ている。
何かをした様子はない。
手も動かしていない。
ただ見ているだけだった。
射手の照準が再び動く。
アビゲイルが踏み込もうとした。
その前に人影が後退する。
黒いスーツの右腕。
輪郭が崩れた。
黒青色の液体のような形へ変わる。
「……何?」
アビゲイルの足が一瞬止まる。
肩。
脇腹。
身体の一部が次々と形を失っていく。
手にしていた銃器が床へ落ちた。
金属音。
人影は壁際の狭い保守隙間へ身体を滑らせる。
人間では通れない幅。
それでも液体化した輪郭だけが奥へ消えていった。

「逃げた!」
リョウが追おうとする。
「追うな!」
アビゲイルが止める。
「教官が先だ!」
直後。
街路の奥で〈センチレット〉の警告音が連続した。
赤い誘導光が別の通路へ向けられる。
変異市民たちの一部が反応した。
一人。
二人。
群れがゆっくりと方向を変える。
「……また誘導してる」
リョウが呟く。
変異市民はガンマチームから離れ、〈センチレット〉の示す方向へ移動を始めた。
偶然ではない。
だが今追う余裕はなかった。
「リョウ、後方警戒!」
「了解!」
「ジャン、教官を診ろ!」
「はい!」
ジャンがマナイアの横へ膝をつく。
携行応急処置キットを展開した。
止血材。
圧迫帯。
簡易生体センサー。
「弾は貫通していません」
ジャンが傷口を確認する。
「出血を抑えます。ここでは完全処置できません」
「3分で治るって言えねぇのか?」
マナイアが息を切らしながら言う。
「残念ながら、ボクは魔法使いじゃありません」
「そりゃ残念だ」
ジャンが圧迫を強める。
「喋る余裕があるなら、まだ大丈夫そうですね」
「言うようになったな」
アビゲイルは周囲を警戒したまま陽名を見る。
少女はマナイアのそばへしゃがんでいた。
両手を膝の上へ置き、彼を見ている。
アビゲイルが尋ねる。
「あなたの名前は?」
少女が顔を上げた。
「陽名」
迷いはなかった。
「ひな?」
「うん」
少女は小さく頷く。
「陽って書いて、名って書くの」
マナイアが脇から口を挟む。
「俺が決めた」
「教官が?」
「ああ」
陽名がマナイアを見る。
「おじさんが、書いてくれた」
アビゲイルは一度だけ頷く。
「陽名」
名前を口にする。
少女がアビゲイルを見る。
肉眼では何の問題もない。
そこに一人の少女がいる。
ジャンが端末を操作した。
「アクセス可能な市民登録、避難者名簿、行方不明者記録には該当なし」
リョウが振り向く。
「じゃあ何なんだ?」
「分かりません」
ジャンは即答した。
陽名を見る。
「でも、ボクは今この子を見ています」
もう一度端末を見る。
「顔も、声も、名前も記憶できる」
画面上では人物追跡枠だけが何度も外れていた。
「問題はこっちです」
ジャンが端末を示す。
「外部記録が、この子を正常に保持できていない」
アビゲイルは端末を見る。
【PERSON ID:UNRESOLVED】
【TRACKING LOCK:FAILED】
「原因は?」
「分かりません」
「なら、今はそれでいい」
アビゲイルが答えた。
陽名を見る。
「本人がここにいる。それで十分だ」

ジャンが一拍置いて頷く。
「了解です」
アビゲイルは立ち上がった。
「任務を変更する」
リョウがこちらを見る。
「マナイア・ケアを回収」
次に陽名を見る。
「陽名を保護対象へ追加する」
「了解!」
「了解です、リーダー」
「予備ルート3まで撤退。そこから〈レイヴン〉を呼び戻す」
ジャンが端末を確認する。
「接続を試します」
「教官、歩けますか?」
マナイアが立ち上がろうとする。
脇腹へ痛みが走り、顔が歪んだ。
それでも立った。
「誰に聞いてやがる」
「負傷者です」
「口が悪くなったな、小僧」
「教官に教わりました」
マナイアがアビゲイルを見る。
少しだけ笑う。
「……立派になったな、小僧」
アビゲイルは一拍だけ黙った。
「教官がしぶとくて助かりました」
「へっ」
リョウがマナイアの反対側へ回る。
「教官、肩貸すぜ」
「要らん」
「撃たれた直後に強がんな!」
「うるせぇ!」
「元気じゃねぇか!」
ジャンが止血材を固定しながら顔を上げる。
「二人とも、移動しながらお願いします」
アビゲイルが先頭へ立つ。
その後ろを陽名が歩いた。
陽名が一度だけ振り返る。
頭上の人工空。
投影はまだ戻っていない。
黒い空には星が一つもなかった。
アビゲイルのHUDには陽名を示す識別名が最後まで表示されなかった。
それでも。
アビゲイルはもう名前を知っている。
陽名。
その名前だけははっきりと覚えていた。
⸻
【REFLOG / Δ.H0】
【PERSON-ID:UNRESOLVED】
【TRACKING LOCK:FAILED】
【VIDEO FRAME LOSS:1】
【TRACE:CONTINUED】


コメント