トーキョー・シティ外界――旧東京圏。
崩壊した工業地帯の一角に、古い廃工場が残っていた。
煤けた鉄骨が軋むたび、薄暗い室内へ赤錆の粉が落ちる。
湿気を含んだ冷気にオイルと鉄の臭いが混じっている。
崩れた梁の隙間では、外から吹き込む風が低く鳴っていた。
シャッターの隙間から差し込む灰色の光が工場の奥まで細く伸びていた。
その光の下でリク・ロクジョウは粗末な椅子へ腰を下ろしている。
58歳の顔には無精髭が伸び、髪には黒と白が混じっていた。
油汚れの作業着の下から黒いTシャツが覗いている。
左腕は古びたアームホルダーへ収められている。
左眼の義眼だけが弱い青白い光を灯していた。
右手の金属製スキットルは傷と凹みだらけだった。
表面には擦れかけた文字が残っている。
C.C.
中身は安酒だった。
リクは飲まずに指先でスキットルを転がしている。
蓋が小さく鳴った。
「遠すぎるんだよ、ここ」
聞き慣れない声だった。
リクは顔を上げずに入口へ目だけを向けた。
泥の付いた靴が工場の床を踏んでいる。
入ってきた青年は漆黒の強化戦闘服を着ていた。
赤い神経状のラインが身体に沿って走っている。
後方へ流した赤い髪の下に青白い顔と赤い瞳が見えた。
「散歩くらいのつもりで来たんだけどね。途中で歩いた距離を見るのもやめたよ」
リクは何も答えない。
「まあ、無視されるのは想定内さ」
青年は気にした様子もなく歩み寄り、リクの前で止まった。
靴先が灰色の光を遮る。
その視線がリクの右手へ落ちた。
「それがケイト・クロスの?」

リクの指が止まった。
それだけだった。
「いいね」
青年が笑う。
「20年以上経っても捨てられない。記録媒体としてはかなり優秀だ」
リクはようやく顔を上げた。
「……誰だ、お前」
「やっと喋ってくれた」
青年は楽しそうに両手を広げる。
「ラズ。今のところは、それで十分」
「用件は」
「せっかちだなぁ」
ラズが手首の装置を操作した。
小さなホログラム画面が二人の間に展開された。
[統制防衛局]の過去の映像だった。
戦場や破壊された施設を背景に若い頃のリクが映っている。
リクはそれ以上画面を追わずに目を下げた。
「エージェント・ゼロ」
ラズは画面を横へ送る。
「世界政府の広報記録じゃ、ずいぶん便利な英雄だったみたいだね」
【AGENT ZERO】
【MISSION SUCCESS RATE:CLASSIFIED】
【CASUALTY MINIMIZATION:HIGH PRIORITY】
「君がいれば被害は減る」
ラズの指が動き、映像が切り替わった。
「君が行けば現場は収まる」
画面の光が再び変わる。
「君が判断すれば間違いは少ない」
ラズが肩をすくめた。
「いやあ、大変だ。人間一人へ背負わせる量じゃないよ」
リクは画面を見なかった。
「……昔の話だ」
「そうだね」
ラズがホログラムを消す。
「今は外界の修理屋」
ラズの視線が廃工場の中を巡った。
「壊れた機械を直して、安酒を飲んで、誰にも頼まれなければ何もしない」
リクはスキットルの蓋を開けた。
一口だけ飲む。
酒が喉を焼く。
記憶は消えない。
消えないまま、いつもの場所へ残る。
リクは蓋を回し切るとスキットルを握った手を膝へ戻した。
「帰れ」
「まだ本題に入ってないよ」
ラズは近くの作業台へ腰を預けた。
退く気配のない相手へリクは目を向ける。
「ヘンリック・ホフマンを覚えてる?」
リクの表情は変わらない。
「有能だった」
「それだけ?」
「面倒な男だった」
「なるほど。本人が聞いたら傷つきそうだ」
ラズは笑った。
「ホフマンは、君が嫌いだった」
リクの義眼がわずかに動く。
「正確には、嫌いきれなかったんだろうね」
ラズは指を一本ずつ立てる。
「肉体」
二本目。
「行動力」
三本目。
「仲間からの信頼」
四本目。
「人間としての求心力」
最後に、一本。
「そして、ケイトとの距離」
リクの右手がスキットルを握り込んだ。
凹んだ金属の縁が指に食い込む。
ラズの目はその手元に留まっていた。
「自分にないものを持っていた相手だ。羨ましくもなるし、腹も立つ」
「……死人の話をしに来たのか」
「半分はね」
ラズは笑みを残したまま、手首の次元圧縮装置へ触れた。
空間がわずかに歪む。
歪みの中から掌ほどの黒い球体が現れた。
表面を赤い光がゆっくりと脈打っている。
リクの義眼が自動的に焦点を合わせた。
「これは?」
「〈招待状〉」
「趣味が悪いな」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
ラズは球体を軽く持ち上げる。
「外殻の中に、凝縮エネルギーが入ってる」
リクが無言で見る。
「量だけなら、小型融合炉一基分に近い」
リクの目が初めて明確に細くなった。
「……こんなもん持ち歩いてきたのか」
「だから遠かったんだよ」
「関係ねぇだろ」
「細かいね」
ラズは身をかがめ、二人の間の床へ〈招待状〉を置いた。
手が離れた後も赤い光は一定間隔で明滅している。
「安心して。普通に置いてあるだけなら爆発しない」
「信用できるか」
「それは君が決めればいい」
ラズは一歩下がった。
「君なら、中身を扱える」
リクの視線が球体へ向く。
「使うか」
ラズが続ける。
「捨てるか」
もう一歩。
「ここで酒を飲み続けるか」
笑みは消えていない。
「全部、君が選べる」
リクは何も言わない。
「僕は結構親切だと思うんだけどな」
「自分で言う奴は信用されねぇ」
「おっ」
ラズが嬉しそうに笑った。
「少し調子が戻ってきたね」
リクの顔から反応が消える。
「帰れ」
「はいはい」
ラズは両手を上げた。
そのまま出口へ向かう。
数歩進んでから、足を止めた。
「そうそう」
振り返らない。
「トーキョー・シティのパン屋は、もう朝の匂いを出してない」
スキットルの蓋に掛けていたリクの指が止まる。
「登校案内のホログラムは動いてる。自動音声も『いってらっしゃい』って言ってる」
ラズは少しだけ顔を横へ向けた。
「でも、そこを通る子供はいない」
リクは答えない。
「君たちが守ってきた街の今だよ」
ラズは出口の手前に立ったままリクを見ていた。
「寂しいと思わない?」
リクはスキットルへ目を落とした。
C.C.の刻印だけを親指で一度なぞる。
「……知るか」
「そう」
ラズは笑った。
「じゃあ、僕は忙しいから行くよ。旧時代で言うなら、ブラック企業の社員みたいなものかな」
「知らん」
「だよね」
ラズは廃工場の出口へ向かった。
「次に呼ぶ時は、もっと近い場所にしてよ」
「呼んでねぇ」
「それもそうだ」
ラズは手を振る。
「じゃあね、エージェント・ゼロ」
返事はなかった。
足音が遠ざかる。
やがて外の風へ紛れた。
工場内には再び静けさが戻る。
床には〈招待状〉だけが残されていた。
赤い光が脈打っている。
リクはそれを見ない。
スキットルを持ったまま、椅子へ深く座り直した。
⸻
しばらくしてシャッターの向こうで小さな金属音がした。
リクは顔を伏せたまま音のした方を見た。
隙間から小柄な少年が覗き込んでいる。
ぼろぼろの上着から痩せた腕が伸びていた。
少年は身体を外に残し、目だけで工場の奥を探っている。
少年はリクを見る。
次に、床の〈招待状〉を見た。
その後ろから、複数の足音が近づいてくる。
「ここか?」
若い男の声。
数人の男女がシャッターを押し上げ、工場へ入ってきた。
外界を流れている略奪者の一団だった。
擦り切れた防護服を着込み、補修だらけの靴で奥へ進んでくる。
腰には空の水筒が下がっている。
手にしているのは即席の武器だった。
先頭の男が少年の肩を軽く押した。
「案内は合ってたな」
少年は目を伏せる。
男は椅子の前まで来るとリクを見下ろした。
「修理屋の爺さんって、あんたか」
リクは返事をしない。
「機械と交換できる物があるって聞いた」
別の女がアームホルダーに収まったリクの左腕を見る。
「義手だ」
隣の男が義眼にも気づく。
「そっちも売れる」
「やめとけ」
リクが初めて言った。
男が笑う。
「何を?」
「面倒になる」
「脅しかよ」
「忠告だ」
男がリクの胸元を掴んだ。
作業着が引かれ、背中が椅子からわずかに浮く。
リクは右手を膝に置いたまま抵抗しない。
「だったら大人しく渡せ」
拳が飛び、鈍い音とともにリクの顔が横へ向いた。
唇が切れ、血が落ちた。
それでも動かない。
次の拳が腹部へ入った。
息が詰まり、背中を受けた椅子が軋む。
リクは右手のスキットルだけを離さなかった。
男の脇に少年の姿が見えた。
少年はリクから目を逸らすと床の赤い光へ顔を向けた。
一歩ずつ〈招待状〉へ近づいていく。
リクは顎を引いたままその動きを追った。
少年が身をかがめ、黒い球体へ手を伸ばす。
「触るな」
低い声だった。
少年の指が止まる。
リクは顔を上げ、少年をまっすぐに見た。
義眼の青白い光が少しだけ強くなる。

「それは、お前のもんじゃねぇ」
少年が手を引く。
男がリクを睨む。
「急に元気になったじゃねぇか」
「子供を巻き込むな」
「関係ねぇだろ」
「ある」
リクは椅子の下へ足を引き、ゆっくり立ち上がった。
胸元を掴んでいた男の手が離れる。
膝が一度だけ止まる。
左義手の指が遅れて動いた。
リクは片足をわずかに引いて体重を落ち着かせた。
目の前の男の手から周囲の武器へ視線を移す。
人数と互いの距離を一度で拾い、シャッターまでの位置関係を確かめた。
スキットルを握った右手が腰へ下がった。
リクは親指を伸ばして大型リボルバーのグリップへ触れる。
抜かない。
弾も入っていない。
男の視線がその手元で止まった。
「帰れ」
笑っていた男の表情が止まった。
リクは動かない。
右手を腰に置いたまま男を見ている。
唇の血が顎を伝っても拭わなかった。
「……行くぞ」
一人が先に後退した。
「こんな爺さん相手に、割に合わねぇ」
別の一人も続く。
先頭の男はしばらくリクを睨んでいたが、舌打ちしてシャッターへ向かった。
「次は知らねぇぞ」
「次も来るな」
返事はなかった。
足音が遠ざかる。
最後に少年だけがシャッターの手前に残った。
リクを見て口を開きかけたが、声は出なかった。
そして一団を追って走り去った。
工場にまた静けさが戻った。

⸻
リクは右手を腰から離した。
膝を曲げると殴られた腹が痛み、椅子へゆっくり身体を戻す。
切れた唇を手の甲で拭う。
スキットルは手から離れていない。
少しへこんでいる。
「……ったく」
床の〈招待状〉へ目を落とす。
赤い光は先ほどと同じ間隔で明滅していた。
リクはしばらく動かなかった。
やがてスキットルを膝に置き、前へ身をかがめる。
右手を伸ばして球体を手元へ引き寄せた。
外殻の冷たさが指に伝わる。
ラズの言葉どおりなら、この中に小型融合炉一基分に近いエネルギーが収まっている。
持ち上げても光の間隔は変わらなかった。
義眼の青白い光が一瞬だけ強くなった。
球体を包む指の上で赤と青白の光が重なる。
その時、左義手の奥でごく小さなノイズが走った。
リクが顔を上げる。
『……約束……』
少女の声だった。
遠い。
聞き覚えがあるようで、ない。
リクはシャッターへ目を向け、作業台の方まで視線を巡らせた。
誰もいない。
梁の隙間を抜ける風の音だけが聞こえていた。
「……またかよ」
誰へ言ったのか、自分でも分からない。
視線を〈招待状〉へ戻す。
赤い光が脈打っている。
リクは長く息を吐いた。
「……約束って……重てぇな」
返事はない。
義眼の青白い光と〈招待状〉の赤い光だけが薄暗い廃工場の中で静かに残っていた。


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