最後の固定座標は、まだ消えていなかった。
スプロケットは旧搬送通路の角から顔を出し、正面の広い保守区画を見た。
天井灯の半分は落ちている。
床には長く使われていない搬送レールが残り、その先に低い円形設備が埋め込まれていた。
人影はない。
銃口もない。
飛行音も聞こえない。
「……あそこ」
スプロケットが指す。
アイリーが隣から覗く。
「本当に何もいないね」
「うん」
「それが怖い?」
「ちょっと」
明が先に床を見る。
壁際。
天井。
隔壁。
配管。
視線を順番に動かした。
「最近動いた跡はあります」
マッハラインが身を乗り出す。
「[ネクス・ハウンズ]?」
「分かりません」
「でも誰か来てる?」
「たぶん」
クロニアスは何も言わず、手帳を開いた。
スプロケットはもう一度だけ周囲へ意識を広げる。
近くの〈センチレット〉は生きている。
応答もある。
だが、上位系統へ繋がらない。
【LOCAL 〈CENTILLET〉:AVAILABLE】
【〈CENTRIO〉 LINK:LOST】
【SECURITY RESPONSE:NONE】
【FIXED COORDINATE:LOCKED】
表示内容は直前の確認時から変わっていなかった。
「行く」
アイリーが先に出る。
スプロケットも続いた。
「待って」
マッハラインが一歩だけ前へ出て止まる。
四人が見る。
「……いや、今じゃない」
そのままスプロケットの横へ戻った。
五人は距離を保ったまま保守区画へ入る。
何も起きない。
固定座標まで20メートル。
15メートル。
10メートル。
スプロケットの視界に警告は出なかった。
最後の5メートルを歩き、円形設備の前へ膝をつく。
表面へ手を置く。
弱い信号が指先から腕へ上がった。
拒絶はない。

「どう?」
アイリーが聞く。
「固定されてる」
「じゃあ帰れる?」
「まだ」
マッハラインが肩を落とす。
「またそれか」
「[ヘヴン]と繋がってない」
スプロケットは目を閉じる。
〈センチレット〉へ触れる時より深く意識を沈めた。
都市側の情報は追わない。
最後の座標だけを残す。
位置。
係留。
外部参照。
その先。
何もない場所へ《サイバー・リゾナンス》を伸ばす。
【FIXED COORDINATE:LOCKED】
【MOORING RESPONSE:STABLE】
【EXTERNAL ANCHOR:AVAILABLE】
【HEAVEN LINK:SEARCHING】
最初の反応は返らなかった。
スプロケットは接続を切らない。
「スプロケット?」
アイリーの声が近い。
「大丈夫」
「顔、ちょっと白いよ」
「まだいける」
指先の感覚が薄くなる。
代わりに円形設備の奥にある信号だけが強くなった。
都市網を経由していない。
自分の中を通っている。
ノイズが耳の奥へ溜まる。
知らない声にはならない。
映像にもならない。
ただ、遠くに一つだけ応答がある。
スプロケットはそこへ接続を重ねた。
【HEAVEN LINK:SEARCHING】
【HEAVEN RESPONSE:――】
表示が一度途切れる。
次の瞬間、最後の行が変わった。
【HEAVEN RESPONSE:DETECTED】
「来た」
自分の声が少し遅れて聞こえた。
「何?」
アイリーがしゃがむ。
「ヘヴン」
マッハラインがゴーグルを上げる。
「繋がった!?」
「まだ反応だけ」
「あと何すればいい?」
「係留を合わせる」
スプロケットは呼吸を整え、接続位置をずらした。
ヘヴン側から返る反応は細い。
掴もうとすると逃げる。
追わずに待つ。
近づいてきた時だけ触れる。
外部アンカーの数値が少しずつ上がる。
【EXTERNAL ANCHOR:SYNCING】
【22%】
【31%】
【46%】
「半分いきそう」
明が表示を見る。
「周り、見てます」
「お願い」
スプロケットは接続から意識を外さない。
50%。
61%。
そこで左側の照明が消えた。
スプロケットが目を開ける。
一列だけ。
それ以外は点いたまま。
「停電?」
アイリーが立つ。
「違う」
明が左を見る。
暗くなった通路の奥で隔壁がゆっくり下がっていた。
「閉じてます」
金属音が広い区画へ響く。
マッハラインがそちらへ身体を向ける。
「止める?」
「まだ」
スプロケットは接続へ戻る。
固定座標そのものには何も起きていない。
【EXTERNAL ANCHOR:64%】
【FIXED COORDINATE:LOCKED】
今度は右奥から機械音がした。
古い保守扉が閉じる。
その隣の通路は開いたまま。
正面もまだ通れる。
「……来たね」
アイリーが言う。
「うん」
「ハウンズ?」
「たぶん」
攻撃は来ない。
五人へ近づく反応もない。
ただ、使える場所だけが減っていく。
スプロケットは周辺の〈センチレット〉へ浅く触れる。
【SECURITY RESPONSE:NONE】
【REMOTE CONTROL SOURCE:UNRESOLVED】
【LOCAL ROUTE C:CLOSED】
【LOCAL ROUTE D:CLOSED】
「……同じ」
「何が?」
アイリーが聞く。
「帰る場所だけじゃない」
スプロケットは閉じた通路を見る。
もう一つ隔壁が動いた。
「帰れなかった後の道も減らしてる」
明が残った三本の経路を確認する。
「最後に残す道まで決めてるんですね」
スプロケットは答えなかった。
アンカー同期が続いている。
【EXTERNAL ANCHOR:72%】
正面遠方で重い足音が一度だけ響いた。
アイリーがそちらを見る。
黄色い識別灯。
巨大な装甲。
黄色い重装型のハウンドが通路の中央へ入ってきた。
走らない。
銃口も上げない。
ただ止まる。
左右には通れる幅が残っていた。
「アイリーさん」
明が先に言う。
「うん」
「一人なら行けます?」
アイリーは黄色い重装型を見る。
床。
天井。
左右の柱。
装甲。
「たぶん」
「全員だと?」
アイリーは一度だけクロニアスを見る。
「無理」
マッハラインがゴーグルを下ろす。
「俺なら抜けられる」
「うん」
「行く?」
アイリーは首を横へ振った。
「行かない」
「了解」
マッハラインは動かなかった。
黄色い重装型も動かない。
互いの距離だけが残る。
スプロケットは接続へ戻る。
【EXTERNAL ANCHOR:81%】
ヘヴン側の反応が近くなった。
今度は遠い信号ではない。
面として広がり始めている。
「もう少し」
右側で警告音が鳴る。
明が振り返った。
「隔壁、また来ます!」
天井から二枚の防火隔壁が降り始める。
固定座標から最も広い退避路を切る位置だった。
アイリーがそちらへ向く。
「止める?」
「壊したら天井も来ます!」
明が壁面を見る。
視線が途中で止まる。
隔壁ではない。
その横にある小型駆動箱。
「これなら」
床へ落ちていたボルトを拾う。
手の中で握る。
ボルトに光が短く走った。
明はボルトを駆動箱の手前へ投げる。
小さな爆発。
箱の外装が歪む。
隔壁が途中で引っかかった。
完全には止まらない。
「5秒!」
明が叫ぶ。
マッハラインが前を見る。
一瞬だけゴーグル越しに何かを追う。
「今だ!」
走った。
「マッハライン!」
アイリーの声が遅れる。
彼の姿はもう隔壁の向こうにいた。
閉じかけた通路。
壁際。
手動解除盤。
マッハラインが操作部へ手を伸ばす。
一度押す。
反応しない。
「こいつ!」
もう一度。
解除表示が点く。

【EMERGENCY HOLD:ACTIVE】
隔壁が止まった。
「戻って!」
アイリーが叫ぶ。
「分かってる!」
マッハラインがその場から消える。
数秒後にはスプロケットの横へ戻っていた。
「間に合った!」
「勝手に行かないで!」
「今しかなかった!」
アイリーが何か言い返しかける。
やめる。
「……ありがと」
「おう!」
スプロケットの表示が変わった。
【EXTERNAL ANCHOR:100%】
【HEAVEN LINK:ESTABLISHED】
「繋がった」
五人が同時にこちらを見る。
固定座標の中心に薄い光が集まった。
最初は一本。
それが円周へ広がる。
空気が歪む。
【RETURN SURFACE:FORMING】
「やった!」
マッハラインが声を上げる。
「まだ入らないで!」
「分かってる!」
光の向こうに別の空間が重なる。
輪郭だけ。
床。
壁。
白い照明。
見覚えのある構造。
「ヘヴン……」
アイリーの声が小さくなる。
スプロケットは固定座標から手を離せなかった。
接続を維持する。
面が広がる。
一人分。
二人分。
さらに。
クロニアスが突然後ろへ下がった。
「クロニアス?」
スプロケットは接続を維持したまま見る。
彼は帰還面ではなく、床を見ていた。
「どうしたの?」
「……ちょっと待って」
クロニアスの視線が左右へ揺れる。
「何?」
「ここ」
手帳を開こうとして止める。
「前にも見た」
「来たことある?」
「違う」
クロニアスは帰還面を見る。
その向こうではない。
少し左。
何もない床。
「そこに誰かいた」
スプロケットが見る。
誰もいない。
「誰?」
「分からない」
クロニアスの呼吸が浅くなる。
「こっちにも」
別の場所を見る。
「壁が壊れてた」
現在の壁は残っている。
「こっちは、光がない」
帰還面は形成されている。
クロニアスが目を閉じる。
「全部違う」
「……いつもの残響じゃない」
スプロケットは接続を切らない。
「何が?」
「過去を見てる感じじゃない」
「じゃあ何?」
「失敗の仕方」
その言葉と同時に帰還面が揺れた。
【RETURN SURFACE:67%】
【LOCAL STABILITY:DECLINING】
「何!?」
マッハラインが表示を見る。
「座標は?」
アイリーが聞く。
「まだ固定されてる!」
スプロケットは接続を深くする。
【FIXED COORDINATE:LOCKED】
【HEAVEN LINK:ESTABLISHED】
帰還経路は消えていない。
ヘヴン側も切れていない。
その下に新しい警告が出る。
【SAFE TRANSFER CONDITION:FAILED】
「何で?」
アイリーが近づく。
「現地側」
スプロケットは周辺状態を開く。
床面振動。
電力。
避難幅。
係留設備。
外部圧力。
複数の値が許容範囲を外れ始めている。
「帰る道はある」
「じゃあ行こう!」
マッハラインが帰還面を見る。
「待って」
「何?」
スプロケットは転送条件を展開する。
【TRANSFER TARGETS:05】
【SIMULTANEOUS STABILITY:UNCONFIRMED】
【PARTIAL TRANSFER RISK:HIGH】
アイリーが表示を見る。
「全員は?」
「分からない」
「一人ずつ?」
「途中で切れたら戻せない」
マッハラインの口が止まる。
明が帰還面から一歩離れた。
「やめた方がいいです」
スプロケットは表示を見たまま動かない。
ヘヴンはそこにある。
手を伸ばせば届きそうな距離に見える。
アイリーが隣へ立つ。
「決めて」
スプロケットは四人を見る。
帰還面へ戻る。
指先を動かした。
【TRANSFER EXECUTION:STANDBY】
実行欄が残る。
押さない。
「……やめる」
マッハラインが帰還面を見る。
「本当に?」
「うん」
「もうできてるぞ」
「全員じゃない」
スプロケットは実行要求を閉じた。
【TRANSFER EXECUTION:CANCELLED】
帰還面の光が弱くなる。
アイリーは何も言わなかった。
明も動かない。
クロニアスだけが、まだ存在しない壊れた場所を見ていた。
スプロケットは接続を完全には切らず、再係留を試す。
「もう一回」
その瞬間、床が大きく震えた。
固定座標の外周で金属音が続く。
攻撃ではない。
遠くの支持設備が順番に停止している。
【LOCAL STABILITY:42%】
【MOORING ENVIRONMENT:DEGRADED】
「何してるの?」
アイリーが周囲を見る。
「座標じゃない」
スプロケットは表示を切り替える。
「周りを落としてる」
左側。
閉鎖。
右側。
閉鎖。
黄色い重装型のいる正面は残る。
後方には、さっきまでと同じように一本の経路だけが開いている。
「逃げ道、一個」
明が言う。
スプロケットは後方を見る。
明るい。
障害物も少ない。
五人で通れる。
都合がよすぎる。
「行かない?」
マッハラインが聞く。
固定座標がもう一度揺れた。
【FIXED COORDINATE:LOCKED】
【SAFE TRANSFER CONDITION:FAILED】
スプロケットは再係留を送る。
返らない。
【MOORING RESPONSE:LOST】
「待って」
もう一度。
【MOORING RESPONSE:LOST】
「スプロケット」
アイリーが呼ぶ。
「まだ」
検索。
固定可能地点。
現在区画。
旧保守層。
近隣設備。
何も返らない。
【RETURN COORDINATE SEARCH:RUNNING】
スプロケットは画面を見続ける。
結果が出た。
【CURRENT RETURN CANDIDATES:00】
指が止まった。
アイリーが表示を見る。
「……ゼロ?」
「うん」
「別の場所は?」
「ない」
マッハラインが帰還面を見る。
光はもうほとんど消えている。
「ヘヴンは?」
「反応はある」
「じゃあまた座標を」
「場所がない」
最後の光が閉じた。
円形設備だけが床へ残る。
固定座標としての登録は残っている。
だが、帰還には使えない。
スプロケットは手を離した。
指先の感覚が戻らない。
「離れる」
アイリーが後方を見る。
「開いてる道?」
「他がない」
「罠でも?」
スプロケットは一度だけ黄色い重装型を見る。
黄色い装甲は動いていない。
追ってこない。
「ここにいたら閉じる」
「分かった」
明が先へ出る。
「僕、前見ます」
クロニアスが手帳をしまう。
「僕も行ける」
マッハラインはゴーグルを下ろしたまま待っている。
スプロケットが最後に動く。
「行こう」
五人は残された通路へ入った。
最初の角を曲がる。
攻撃はない。
次の隔壁も開いている。
さらに奥。
通れる。
スプロケットは足を速めながら周辺信号を拾う。
一つ。
右上。
二つ目。
後方。
三つ目。
地上側。
四つ目。
旧通路の先。
最後の一つが少し離れた位置にある。
全部、五人の後ろにはいない。
前にもいない。
周囲にいる。
スプロケットの足が一瞬だけ遅くなる。
「どうした?」
アイリーが振り返る。
スプロケットは五つの反応を重ねる。
自分たちが今入った通路。
その先の区域。
外側を囲う配置。
【HOUND SIGNATURES:05】
【DIRECT PURSUIT:NONE】
もう一つだけ表示が出た。
【CURRENT AREA:ENCLOSED】
「……追ってない」
「何?」
「ハウンズ」
スプロケットは前を見る。
道はまだ続いている。
「……ここまで含めて、待ってた」
後ろで隔壁が閉まり始めた。
五人は止まらない。
最後の帰還地点からは、もう戻れない。
前に残っているのは、ハウンズが閉じなかった道だけだった。



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