【SPRK-VIS.LOG】
【視界入力:PARTIAL】
【音声入力:FRAGMENTED】
【《CYBER RESONANCE》:RESIDUAL】
【IDENTITY COHERENCE:PARTIAL】
【CONSCIOUSNESS:CONFIRMED】
【PASSIVE RECORD:ACTIVE】
同時刻。
トーキョー・シティ旧研究棟。
〈セントリオ〉中央中枢の停止によって、施設内の照明は局地電源へ切り替わっていた。
廊下の半分は暗い。
残った照明だけが、一定間隔で床を照らしている。
ミーラ・マリクは一人で歩いていた。
手には、先ほど閉じた補助観測端末。
M-05。
最後に自分で入力した名前が、まだ頭に残っている。
PΣではない。
ポイゾナスでもない。
マリカ・マリク。
端末の中へ書くだけなら簡単だった。
実際に本人の前へ立つことはまるで違う。
ミーラは白衣のポケットへ右手を入れた。
指先へ硬い感触。
黒曜石のイヤーカフ。
握らない。
確認するだけで手を離す。
正面。
旧ホールへ続く鉄扉。
内部から複数の生体反応。
[スペリオルズ]。
ミーラは扉の前で止まった。
閉じた端末を左手に持ち替える。
呼吸を一度整える。
認証端末は死んでいる。
手動レバーを下げる。
重い扉が開いた。
⸻
ホールの中央。
スプロケットは床へ敷かれた簡易シートに身体を預けていた。
黒いパーカー。
白髪。
左頬の赤い[スペリオルズ]紋章。
〈VRゴーグル〉は装着したままだが、表示の大半は落とされている。
呼吸は安定している。
意識もある。
ただ。
何度か眉が寄る。
残留したノイズが完全には消えていない。
そのすぐ横。
ポイゾナスが座っていた。
黒紫の髪。
耳には黒曜石のイヤーカフ。
スプロケットの手首を片手で支え、指先を脈へ当てている。
《ヴェネナム》による鎮静濃度を細かく調整し、神経過負荷を抑えていた。
「……まだ聞こえる?」
ポイゾナスが聞く。
「少し」
「増えてる?」
「今は増えてない」
「頭痛は?」
「ある」
「吐き気」
「ない」
「自分の名前は?」
スプロケットが一瞬だけ黙った。
「……スプロケット」
ポイゾナスの肩から僅かに力が抜ける。
「それならいい」
「毎回聞くの?」
「必要なら」
「しつこい」
「知ってる」
少し離れた壁際。
フェイズが腕を組んでいた。
「ドミネーターからは?」
ポイゾナスは首を横に振る。
「まだない」
「ラズも黙ったままか」
「そうね」
フェイズが舌打ちする。
「あいつの情報はもう一個ずつ裏を取る」
「最初からそうしてるでしょう」
「足りなかったって話だ」
声に苛立ちはある。
視線はポイゾナスの返答を待っていた。
タウロスはスプロケットの反対側に座っていた。
大きな身体を小さく折り、いつでも支えられる距離を保っている。
「スプロケ」
「なに?」
「無理なら寝ろ」
「さっきまで寝てた」
「なら、もっと寝ろ」
「タウロス、それしか言わない」
「寝れば治るもんは多い」
「これは?」
タウロスが少し考える。
「……知らん」
「正直」
「知らんもんは知らん」
スプロケットの口元が少し動く。
ホールの奥。
オラトリオは最初からそこにいた。
白いフード。
目隠し。
両手には水晶玉。
何も言わず。
四人を見ている。
その時。
鉄扉の音へフェイズが顔を向けた。
「誰だ」
ポイゾナスも見る。
タウロスが立つ。
ミーラはホールへ入った。
フェイズの右手がナイフへ動く。
「止まれ」
ミーラは敷かれたシートの手前で止まった。
端末を開かずに下げておく。
「名乗れ」
「ミーラ・マリク」
フェイズの目が細くなる。
「世界政府か」
「[世界政府中央科学研究院]特殊解析部門」
ミーラは続ける。
「クロス・レガシー解析室の管理責任者」
「つまり政府だろ」
「そうね」
フェイズはナイフから手を離さない。
「何しに来た」
ミーラは答えようとした。
だが。
先に見る。
フェイズ。
タウロス。
スプロケット。
オラトリオ。
最後。
ポイゾナス。
何十年も。
直接呼んでいない名前。
「……マリカ」
ポイゾナスの顔から表情が消えた。
スプロケットの手首を支える指はそのままだった。
数秒。
「その名前」
声は低い。
「まだ覚えてたのね」
「忘れてない」
「今の私はポイゾナスよ」
「分かってる」
ミーラは即答した。
「勝手に昔へ戻すつもりはない」
フェイズが二人を見る。
「……知り合いか?」
ポイゾナスが答える。
「姉よ」
フェイズの眉が上がった。
タウロスもミーラを見る。
「姉?」
「ええ」
ミーラが言う。
「4歳上」
「マジか」
「フェイズ」
「なんだよ。驚くだろ普通」
ポイゾナスの指が耳へ触れる。
黒曜石。
ミーラもポケットへ手を入れる。
同じ素材のイヤーカフを掌へ出した。
差し出しはせず、相手から見える高さに留める。
フェイズが二つを見比べる。

「それも?」
「昔、二人で持っていた一対の片方」
ミーラが答える。
ポイゾナスの視線がイヤーカフへ落ちる。
「まだ持ってたのね」
「捨てられなかった」
「意外」
「私もそう思う」
ミーラはイヤーカフをポケットへ戻した。
証明のためではない。
もう必要なかった。
マリカ本人が、姉だと認めた。
⸻
「それで」
フェイズが二人の間へ声を入れる。
「家族の話なら後でやれ」
ナイフから手を離す。
「今はスプロケットだ」
「同意するわ」
ミーラがスプロケットを見る。
「接触ログを解析した」
ポイゾナスの目が変わる。
「何が分かったの?」
「事実から言う」
ミーラは携行端末を開いた。
スプロケットの側へ表示を傾ける。
【TARGET:HINA】
【ASSOCIATED SUBJECT:SPROCKET】
【PHYSICAL CONTACT:CONFIRMED】
【《CYBER RESONANCE》:ABNORMAL EXPANSION】
【IDENTITY COHERENCE:PARTIAL】
【RESIDUAL DATA:DETECTED】
「陽名側から、攻撃と断定できる反応は出ていない」
フェイズが聞く。
「じゃあ、こいつがこうなったのは?」
「まだ原因を一つには絞れない」
ミーラは画面を切り替える。
「接触時に大きく変化したのはスプロケット側」
「《サイバー・リゾナンス》?」
ポイゾナスが聞く。
「そう」
「電子信号だけじゃなかった」
スプロケット自身が言った。
ミーラが彼女を見る。
「何を拾った?」
「分かんない」
スプロケットの指が僅かに動く。
「声」
「記憶」
「気持ち」
「場所」
「ぼくが知らないのに、知ってるみたいなもの」
「現在も?」
「少し」
ミーラは記録する。
指が止まるたびにスプロケットの顔へ目を戻した。
「自分と他人の区別は?」
「今はできる」
「完全に?」
スプロケットが少し考える。
「……たぶん」
ミーラは端末から顔を上げる。
「分からないなら、分からないでいい」
スプロケットが彼女を見る。
「そういう人なの?」
「最近そうすることを覚えた」
フェイズが小さく鼻を鳴らす。
「遅ぇな」
「否定しない」
ポイゾナスが聞く。
「この子は元に戻る?」
ミーラはすぐには答えなかった。
「接触前と完全に同じ状態へ戻る」
一度区切る。
「そういう意味なら、分からない」
「……」
「現在の記録では部分的に回復している」
スプロケットを見る。
「意識もある」
「生命危機を示す記録も、今のところない」
「ただし」
「接触時に流入した情報は残っている」
「消せる?」
「少なくとも、私が持っている解析技術で簡単に削除できるものではない」
ミーラは明確に言った。
「解除コードもない」
ポイゾナスが目を細める。
「なら、何のために来たの?」
「二つある」
「一つは?」
「何が起きたかを分かる範囲だけ伝えるため」
「もう一つ」
ミーラの指が端末の縁で止まる。
ポイゾナスを見る。
「あなたに会うため」
フェイズが目を逸らす。
「……昔話になるなら外すぞ」
「ならない」
ミーラは言った。
「長くは」
⸻
ポイゾナスはスプロケットの手首をシートへ戻して立ち上がった。
シートのそばで姉妹が向かい合う。
身長差。
髪。
服装。
立場。
名前。
ミーラは目の前の姿を見た。
昔の妹を呼んだ時と同じ距離では話せなかった。
「何を言いに来たの?」
ポイゾナスが聞く。
「謝罪?」
「それだけで済むとは思っていない」
「じゃあ何?」
ミーラは答える。
「14歳の私は報告するのが正しいと思った」
ポイゾナスの目が動かない。
「あなたの《ヴェネナム》を世界政府へ報告する」
「管理できる施設へ移す」
「専門家へ任せる」
「それが安全で」
「社会のためで」
「あなたのためでもあると思った」
「……」
「私は制度を信じた」
ミーラの声は変わらない。
「あなたの隣に立つより」
「報告する方が正しいと思った」
ポイゾナスの拳が僅かに閉じる。
「それで私は研究施設へ送られた」
「ええ」
「10歳で」
「ええ」
「姉さんはその後も研究を続けた」
「続けた」
「私は7年かけて逃げた」
「知ってる」
「知ってる?」
初めて。
ポイゾナスの声へ怒りが混じった。
「知ってるだけ?」
ミーラは反論しなかった。
手元の端末へ目を逃がさずに聞いていた。
「そうね」
短く答える。
「私は知っていただけ」
「……」
「何十年も」
「自分の判断が正しかった理由を探していた」
ポイゾナスの目が細くなる。
「今は?」
「正しかったとは言えない」
「間違っていた?」
ミーラが止まる。
端末を持つ指へ力が入る。
また一つの言葉で過去を分類しようとしている。
「結果として」
ミーラは言う。
「私はあなたの人生をあなたより先に決めた」
ポイゾナスは何も言わない。
「それは事実」
「今さら姉だと言えば許されるとも思っていない」
「許してほしいとも?」
「思っていない」
「嘘ね」
ミーラの目が僅かに動く。
「……そうかもしれない」
ポイゾナスが息を吐く。
「そこは認めるのね」
「今は」
一拍。
「でも」
ミーラは続ける。
「今度はあなたの選択を私が決めない」
ポイゾナスが姉を見る。
「それを言うために来た?」
「それもある」
「遅いわ」
「知ってる」
「本当に遅い」
「知ってる」
沈黙。
和解ではない。
許しでもない。
それでも。
ポイゾナスは姉から視線を逸らさなかった。
⸻
「昔の話は終わったか?」
フェイズ。
ポイゾナスが振り返る。
「あなたね……」
「スプロケット優先って言ったのお前だろ」
「そうだったわね」
タウロスがスプロケットの前へしゃがむ。
「スプロケ」
「なに?」
「どうする」
スプロケットが瞬きをする。
「何を?」
「次だ」
「ここにいるか」
「動くか」
「また繋ぐか」
「切るか」
「お前が決めろ」
スプロケットの視線がタウロスからポイゾナスへ移る。
フェイズ。
オラトリオ。
最後。
ミーラ。
誰も答えを言わない。
差し出される言葉を待つうちにスプロケットはゴーグルへ手を上げた。
「ぼくは……」
〈VRゴーグル〉の縁へ指先を添える。
まだ。
小さなノイズがある。
知らない声も。
知らない記憶も。
消えていない。
「今は繋がない」
タウロスが頷く。
「うん」
「でも」
スプロケットは続ける。
「消さない」
ポイゾナスが聞く。
「残った記録を?」
「うん」
「危険かもしれない」
「分かってる」
「また同じことになる可能性もある」
「それも分かってる」
「それでも?」
スプロケットの手がゴーグルから離れる。
シートへ置いた指で自分の身体を支え直した。
「何が入ったのか」
「ぼくは知りたい」
「でも」
一度息を吸う。
「次に繋ぐかどうかは」
自分の胸を指す。
「ぼくが決める」

タウロスが笑った。
「それでいい」
フェイズも壁から背を離す。
「なら、今は繋ぐな」
「命令?」
「忠告」
「どっちも似てる」
「細けぇな」
ポイゾナスがスプロケットの肩へ手を置く。
「少なくとも今日は休んで」
「それは命令?」
「医療判断」
「ずるい」
「便利でしょう」
スプロケットが少し笑った。
⸻
部屋の奥。
オラトリオが水晶玉へ指を添えた。
ここまで。
ほとんど何も言っていない。
「切らないことと」
静かな声。
「繋がないことは」
スプロケットが見る。
「同じではない」
「……うん」
「選べるなら」
オラトリオは水晶の中を見る。
「まだ、道は一つではない」
それ以上は言わなかった。
予言でも。
答えでもない。
オラトリオ自身の見方。
ミーラはその言葉を記録しなかった。
今は必要ないと思った。
⸻
「この建物も長くは使えない」
フェイズが外部マップを見る。
「〈セントリオ〉が落ちて局地ノードがバラバラだ」
「退路は?」
ポイゾナスが聞く。
「見る」
フェイズが周囲の座標を確認する。
「先に行ってくる」
「一人で?」
「その方が楽だ」
青白い歪み。
フェイズの姿が消えた。
タウロスがスプロケットへ手を差し出す。
「立てるか」
「歩ける」
「本当に?」
「本当に」
「なら歩け」
スプロケットがその手を取る。
立ち上がる。
少しふらついた。
タウロスの腕がすぐ支える。
スプロケットは支えを借りたまま足を踏み直した。
「ほら」
「今のは床が悪い」
「そういうことにしとく」
ポイゾナスが荷物をまとめる。
その横。
ミーラは立ったまま動かなかった。
「姉さん」
不意に呼ばれた。
ミーラが顔を上げる。
ポイゾナス。
マリカではない。
今の彼女。
「何?」
「解析データ」
「ええ」
「全部渡して」
「分かった」
「仮説と事実は分けて」
ミーラの目が僅かに開く。
「……分かってる」
「昔から、そこ混ぜるでしょう」
「否定できない」
「なら今回はやめて」
「努力する」
「努力じゃなくて、やって」
ミーラは少しだけ間を置く。
「了解」
ポイゾナスが視線を外す。
それだけだった。
許されたわけではない。
昔へ戻ったわけでもない。
それでも。
会話は続いた。
ミーラはポケットの中のイヤーカフへ触れる。
今度は。
すぐには手を離さなかった。
⸻
【SPRK-VIS.LOG】
【《CYBER RESONANCE》:RESIDUAL】
【IDENTITY COHERENCE:PARTIAL】
【CONSCIOUSNESS:CONFIRMED】
【ACTIVE CONNECTION:NONE】
【RESIDUAL DATA:PRESERVED】
【RECORD:CONTINUED】
スプロケットは自分の足で歩き始めた。
タウロスが横につく。
ポイゾナスが反対側。
オラトリオは少し後ろ。
ミーラも続く。
誰かが正しいからではない。
同じ答えを選んだからでもない。
ただ。
今は同じ方向へ歩いていた。



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