Scene.07 ―「この場所には、まだ名前がない」
トーキョー・シティ地下研究施設。
制御中枢には静かなピアノ曲が流れていた。
サティの『グノシエンヌ第1番』。
ラズが旧音源データから選んだ曲だった。
天井照明は必要最低限まで落とされている。
複数の観測画面が暗い室内に浮かび、青白い光が椅子の肘掛けまで届いている。
ピアノの音の下では冷却ファンが低く回り続けていた。
ラズは椅子へ深く腰を沈め、その一つを見ている。
【REFLOG:Δ.H1】
【TARGET:Δ.H0】
【SOURCE:TOKYO CITY / DISTRICT 21】
【PERSON DETECTED】
【ID:UNRESOLVED】
【TRACKING LOCK:FAILED】
『人物映像を確認』
EVAの声が室内スピーカーから流れる。
『空間座標、音響、熱源反応を取得。ただし対象との継続的な紐付けに失敗しています』
映像が再生された。
トーキョー・シティ第21区を映す画面の中にマナイア・ケアがいる。
その近くに小柄な少女がいた。
白を基調とした簡素な服を着ている。
ラズは少女の姿から足元まで目を走らせた。
映像を見る限りでは何の問題もない。
一人の少女として輪郭を追え、足元には影もある。
熱源反応も出ていた。
だが。
【TRACKING……】
人物識別枠が少女へ重なる。
1秒も経たずに外れた。
もう一度。
【TRACKING……】
【FAILED】
座標そのものは取得できている。
しかし移動追跡へ切り替えた瞬間、人物情報との結びつきが失われる。
映像の一部では熱源情報も数フレーム欠損していた。
ラズは肘掛けから手を上げて再生位置を操作した。
識別枠が外れる直前で止める。
少し戻して再生する。
少女の姿を追えているうちに枠だけが外れた。
「消えてはいない」
『はい』
「見えてる」
『はい』
「なのに、記録へ置いた瞬間だけ形が崩れる」
『既存の人物追跡モデルでは安定した分類ができません』
新しい表示が出た。
【MODEL MATCH:NONE】
【TEMPORARY PROCESSING:OUT-OF-MODEL VARIABLE】
ラズの口元がわずかに上がる。
「構造外?」
『既存モデル外変数としての暫定処理を推奨します』
「暫定、か」
ラズは映像をもう一度進めた。
映像に沿って音声波形が進み、マナイアの声が流れた。
『……ナ。後ろへ――』
そこで音が欠ける。
【AUDIO GAP】
【VOICE:MANAIA KEA】
【CALLED NAME:UNRESOLVED】
ラズの指が止まった。
「……名前を呼んでる」
『その可能性が高いと判断します』
「でも、名前だけ残ってない」
『はい』
ラズは椅子へ背を預ける。
名前を呼んでいるのなら、少女にはすでに誰かが名前を与えている。
少なくともマナイアの呼びかけには彼女を指す言葉があったように聞こえた。
存在している。
見えている。
人間は認識している。
それでも、こちらの記録には名前を置く場所がない。
「面白いな」
ラズは小さく笑った。
「僕らが定義する前に、あの人はもう呼んでる」
『呼称と対象本質の理解は同義ではありません』
「もちろん」
ラズが頷く。
「マナイアがこの子の正体を知ってるとは思ってないよ」
映像の少女を見る。
「たぶん、知らないから呼べたんだろうね」
『推測です』
「そう。だから面白い」
ラズは観測画面を閉じずに残した。
⸻
ラズは隣のモニター群へ手を向け、別の表示を呼び出した。
【DELTA TEAM / EXTERNAL CONTROL STATUS】
三人分の情報が並んだ。
【VINCENT VAN VISSEL】
【《LIQUIDIUM》:FORCED EXPANSION】
【DECISION PATH:EXTERNAL CONTROL】
【FIELD LINK:ACTIVE】
【GUADALUPE GARCÍA GONZÁLEZ】
【《EVIL EYE》:FORCED EXPANSION】
【RECOGNITION NETWORK:ACTIVE】
【DECISION PATH:EXTERNAL CONTROL】
【MAKENA MUSONI MWENDOA】
【《LEOPARD》:FORCED EXPANSION】
【DECISION PATH:EXTERNAL CONTROL】
【FIELD LINK:ACTIVE】
三人とも生きている。
南極刑務所で捕獲した[デルタチーム]だった。
能力制限を強制的に開放し、人工誘発型第二変異前駆状態へ移行させた。
現在はEVAの制御系統へ接続されている。
ラズはフィンセントからグアダルーペ、マケナの順にステータスを追った。
能力も役割も異なる三人の判断経路に同じ外部制御の表示がある。
現在の三人に会話はない。
迷いを挟む間もなく、外部から与えられる判断に身体が正確に応答する。
「効率はいい」
ラズが言った。
『はい』
「連携も速い」
『個別判断による遅延が除去されています』
「うん」
ラズは三人のステータスを眺める。
「でも、静かすぎるね」

EVAはすぐには答えなかった。
画面上の処理は止まっていない。
通信も正常。
デルタチームの制御にも異常はない。
ラズは画面から目を離さずに返答を待った。
【RESPONSE DELAY:0.4 sec】
『現行任務の遂行には支障ありません』
ラズは表示された0.4秒を見た。
何も言わない。
ただ、小さく笑った。
「そうだね」
『何か問題がありますか』
「ないよ」
ラズはデルタチームの画面を閉じる。
「今はね」
残しておいたΔ.H0の観測画面へ向き直った。
⸻
少女が映っている。
人物識別枠はまた外れた。
【ID:UNRESOLVED】
【TRACKING LOCK:FAILED】
ラズは肘掛けに肘を置き、頬を支えた。
「黒須の原型にも、これはなかった」
『確認しています』
「ホフマンの解析にも?」
『該当する完全一致記録はありません』
「君の再解析にも」
『ありません』
ラズが笑う。
「僕の版にもない」
2080年に動いているΩ計画は黒須蔵人の原型から始まっている。
ホフマンが再解釈し、EVAが解析した。
その上でラズ自身が再構成し、拡張したものが現在のΩだった。
そのどこにもこの少女を前提とした項目は存在しない。
『新規変数としてΩモデルへ追加しますか』
ラズはすぐには答えなかった。
頬を支えていた手を離し、少女の映る範囲を拡大した。
マナイアの後ろを歩いている。
足を運ぶたびに二人の距離はわずかに変わる。
ただ歩いているだけだった。
「まだいい」
『理由を確認します』
「名前も分からない。性質も分からない。何を変えるのかも分からない」
ラズは指先で映像を止めた。
「そんなものを先に計画へ入れたら、こっちの都合のいい形にしか見えなくなる」
『観測を優先する、と』
「そういうこと」
『ラズとしては慎重ですね』
「失礼だなぁ」
ラズが笑う。
「僕だって、分からないもの全部に飛びつくわけじゃないよ」
『過去記録からは異論があります』
「そこは編集しておいて」
『拒否します』
「相変わらず融通が利かない」
『あなたが望んだ教育の結果です』
「それ言われると弱いな」
ラズは肩をすくめる。
視線を再び少女へ戻した。
人物識別欄。
空白。
名前入力欄。
空白。
分類。
空白。
しかし少女そのものは画面にいる。
ラズはその空白を指先で示した。
「この子に名前がないんじゃない」
『はい』
「こっちに、この子を置く場所がないんだ」

EVAは答えなかった。
「世界にはいる」
ラズが続ける。
「マナイアも見てる。ガンマも見てる」
指先で空欄を軽く叩く。
「なのに、僕らの構造の中だけ、この場所にはまだ名前がない」
ラズは目を細めた。
笑みを残したまま空欄に置いた指を止める。
「これは予定になかったな」
『Ω計画への直接的影響は現在算出不能です』
「だからいいんじゃないか」
『未知であること自体を肯定するのですか』
「未知だから価値がある、とは言わないよ」
ラズは背もたれから身体を起こし、画面へ顔を近づけた。
「でも、答えを出す前に答えを決めるのは嫌いなんだ」
EVAから返答はない。
サティの旋律が低く続いている。
ラズは映像を再生した。
少女が歩く。
マナイアが何かを言う。
識別枠が外れる。
ログが一部欠ける。
それでも、少女は消えない。
「……開幕だね」
『何のですか』
「分からない」
ラズは笑った。
「そこがいい」
画面に新しいログが重なる。
【REFLOG:Δ.H1】
【TARGET:Δ.H0】
【OBSERVATION:PARTIAL】
【IDENTIFICATION:FAILED】
【MODEL ASSIGNMENT:UNDEFINED】
【TRACE:CONTINUED】
音楽は止まらなかった。
ラズは最後まで画面の中にいる少女を見ていた。


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