トーキョー・シティ中核ドーム地下。
旧医療施設の一室。
〈レイヴン〉との合流へ向かう途中でジャンがマナイアの出血量増加を確認した。
ガンマチームは最寄りの旧医療区画へ一時退避している。
非常電源だけが残っている。
赤い誘導灯が壁際の医療機器を照らしていた。
空調の音は弱く、送られてくる風も途切れがちだった。
アビゲイルは使われなくなった機器の間を抜け、中央の簡易ベッドへ寄った。
横たわるマナイア・ケアの右脇腹には新しい止血材が当てられている。
胸の上下は浅かった。
それでも意識は保っていた。
「教官。痛みは?」
「撃たれた腹が痛くねぇ方が怖ぇよ」
「それだけ喋れるなら安心しました」
「誰に口利いてやがる、小僧」
アビゲイルは返さなかった。
ベッドの横へ目を向けると陽名が椅子へ座っていた。
膝の上に両手を置き、マナイアを見ている。
肉眼では何の異常もない。
小柄な少女。
白いシャツには埃がついている。
少し疲れているようにも見えた。
ただし、アビゲイルの〈T.A.S.S.〉は別の反応を返している。
【PERSON DETECTED】
【ID:UNRESOLVED】
【TRACKING……】
人物識別枠が陽名へ重なる。
すぐに外れた。
もう一度。
【TRACKING……】
【FAILED】
「まだ駄目か」
アビゲイルが尋ねる。
「ええ」
ジャンが携行端末を見る。
「通信も位置情報も生きています」
「異常は陽名だけ?」
「正確には、陽名さんに付随する識別処理です」
ジャンが画面を拡大する。
「映像には残っています」
「熱源も?」
「あります」
「音声は?」
「取れています」
ジャンは陽名を見る。
「それなのに、人物IDと追跡情報だけが安定しない」
壁際にいたリョウが端末を覗こうと身を寄せた。
「つまり?」
「見えているのに、システム上では同じ人物として固定できないんです」
「……幽霊とかじゃねーよな?」
陽名がリョウを見る。
リョウも見る。
数秒。
「試してみるか」
ポケットから小さな袋を取り出した。
ポテトチップス。
「リョウ」
「一枚だけだって!」
アビゲイルが止めるより先に、リョウが一枚差し出した。
「食う?」
陽名は差し出されたポテトチップスとリョウの顔を交互に見た。
膝から片手を上げ、指先でつまんで口へ運ぶ。
パリッ。
小さな咀嚼音が室内に響いた。
リョウがジャンを見る。
「ほら」
「何がです?」
「いるじゃん」

「それは最初から否定してません」
「でもデータは変なんだろ?」
「変です」
「じゃあ、データの方が変なんじゃねーの?」
ジャンが黙った。
端末を見る。
陽名を見る。
「……単純ですが、否定できませんね」
陽名がもう一枚欲しそうに袋を見る。
「一枚って言っただろ」
「……もう一枚」
「喋った!」
「そこに驚くな」
アビゲイルが低く言った。
マナイアがベッドの上で笑う。
「ヒナはヒナだ」
陽名が振り向く。
「うん」
それだけで会話は終わった。
⸻
【REFLOG:Δ.H1】
【TARGET:Δ.H0】
【VISUAL:CONFIRMED】
【AUDIO:CONFIRMED】
【THERMAL RESPONSE:CONFIRMED】
【PHYSICAL INTERACTION:CONFIRMED】
【PERSON ID:UNRESOLVED】
【TRACKING:UNSTABLE】
【TRACE:CONTINUED】
⸻
ジャンの端末が突然切り替わった。
【AUTHORITY OVERRIDE】
【UPPER AUTHENTICATION:VERIFIED】
「リーダー」
「見えてる」
通常の[統律特命局]通信ではない。
アビゲイルの〈T.A.S.S.〉にも同じ認証表示が出ている。
通信を拒否する項目がない。
画面が開いた。
映ったのは薄暗い部屋だった。
灰色の三つ揃いのスーツを着た痩せた男が椅子へ座っている。
帽子を低く被り、指先に火のついた紙巻き煙草を挟んでいた。
顔の上半分は影に隠れていた。

『ガンマチーム』
低い声。
『識別不能対象を確認した』
アビゲイルは陽名を一度見る。
『対象を指定回収地点へ移送せよ』
「理由を確認します」
『既存登録へ存在しない人物が、現在進行中の都市異常と同時に確認されている』
男の声に抑揚はない。
『分類と分析が必要だ』
「対象は生存者です」
『現場分類は任せる』
一拍。
『明確な敵対行動が確認された場合のみ制圧を許可する』
「記録は?」
『保持しろ』
ジャンの目がわずかに動いた。
『欠損そのものも記録対象だ』
煙草の先端が赤く光る。
『以上』
通信が切れた。
【AUTHORITY OVERRIDE:TERMINATED】
数秒、誰も話さなかった。
ジャンが端末を見ている。
「……どうした?」
リョウが尋ねる。
「この認証階層」
ジャンの声が低くなる。
「昔、ボクが世界政府内部で追っていた“空白権限”とよく似ています」
「知ってる奴か?」
「いいえ」
ジャンは首を横へ振る。
「そこまで辿り着く前に捕まりました」
「じゃあ偉い奴?」
「少なくとも、ボクたちが拒否できる階層ではありません」
アビゲイルは返事をせずに陽名へ向き直った。
少女は椅子に座ったままこちらを見上げていた。
「……連れてかれるの?」
少女が尋ねた。
アビゲイルはすぐには答えなかった。
マナイアがベッドから声を出す。
「小僧」
「はい」
「命令は聞け」
アビゲイルがマナイアを見る。
「だが、目の前を見ずに従うな」
マナイアはそれだけ言って目を閉じた。
アビゲイルは陽名へ視線を戻す。
少女が立ち上がった。
ゆっくり近づいてくる。
怖がっているようには見えない。
だが、いつもより歩幅が小さい。
アビゲイルの前で止まった。
陽名が片手を差し出した。
「……陽名?」
返事はない。
ただ手だけが前へ出ている。
アビゲイルはその手を見る。
小さい。
普通の人間の手だった。
アビゲイルも手を伸ばした。
指先が触れる。
陽名の手は温かかった。
しっかりと体温がある。
アビゲイルはその手を包んだ。
陽名の指がわずかに動く。
握り返してきた。
それだけだった。
何も見えない。
声も聞こえない。
《ミライメージ》にも特別な答えは出ない。
それでも、手の中には一人分の体温がある。
「陽名」
「うん」
「あなたは保護対象として扱う」
陽名がアビゲイルを見る。
「物じゃない」
アビゲイルは続けた。
「一人の人間として移動する」
陽名は少しだけ笑った。
「うん」
⸻
【REFLOG:Δ.H1】
【TARGET:Δ.H0】
【PHYSICAL CONTACT:CONFIRMED】
【CONTACT SUBJECT:ABIGAIL A. ARMSTRONG】
【PERSON ID:UNRESOLVED】
【TRACKING:UNSTABLE】
【TRACE:CONTINUED】
⸻
電子ロックが解除された。
全員が扉を見る。
アビゲイルは陽名の手を離し、〈高周波刀〉へ手を伸ばした。
扉が開く。
白衣を着た女性が戸口に立っていた。
中に着ているものは誘導灯の下では黒にも濃紺にも見える。
褐色の肌と短い黒髪が照らされ、髪にはわずかに紫が混じっていた。
アビゲイルは女性の手元を確かめた。
武器は持っていない。
「待って」
先にジャンが声を出した。
端末へ人物情報が表示される。
【MEERA MALIK】
【WORLD GOVERNMENT CENTRAL SCIENCE INSTITUTE】
【CROSS LEGACY ANALYSIS DIVISION】
「……ミーラ・マリク」
アビゲイルが名前を呼ぶ。
女性――ミーラは室内を見回した。
「遅かったかしら?」
「あなたを捜していました」
「そうでしょうね」
ジャンが驚いたまま聞く。
「生体信号は消失していました」
「端末上ではね」
「どういう意味です?」
「その説明は後でいいわ」
ミーラは平然と答えた。
「今は移動した方がいい」
アビゲイルが一歩前へ出る。
「あなたを保護します」
「異論はないわ」
「目的地まで同行してください」
「分かった」
あまりにも簡単な返答だった。
リョウが眉を上げる。
「もっと揉めると思った」
「救助されること自体を拒否する理由はないもの」
ミーラが言う。
「世界政府にとって、私は重要な研究資料を持つ保護対象」
「クロス・レガシー?」
アビゲイルが確認する。
ミーラの視線がこちらへ向く。
「ええ」
短く頷く。
「黒須蔵人が残した研究データ群」
「あなたが解析責任者」
「そうよ」
ミーラはそれ以上説明しなかった。
「だから世界政府は私を回収したい」
ジャンが尋ねる。
「なら、なぜ通信を切っていたんです?」
「記録だけでは足りないと思ったから」
ミーラの視線がジャンからベッド脇の陽名へ移った。
そこで止まる。
数秒。
ミーラは何も言わない。
陽名も見返している。
アビゲイルは二人を見た。
「陽名」
少女がミーラへ顔を向けた。
「この子の名前です」
ミーラの目が少しだけ細くなる。
「陽名」
「うん」
陽名が自分で答えた。
「陽って書いて、名って書くの」
ミーラは白衣の袖から小型端末を取り出した。
陽名へ向ける。
【PERSON DETECTED】
【ID:UNRESOLVED】
【TRACKING……】
【FAILED】
ミーラが画面を見る。
次に陽名。
もう一度画面。
「なるほど」

声は冷静だった。
だが、白衣のポケットへ入った指先が一度だけ止まった。
何か小さな硬い物へ触れているように見えた。
「何が分かったんです?」
アビゲイルが聞く。
「まだ何も」
ミーラは即答した。
「だから来たの」
陽名が首を傾げる。
「わたし?」
「そう」
「なんで?」
ミーラは少しだけ考えた。
「あなたの周囲で、私が長年追ってきた記録と似た欠損が起きている」
「欠損?」
「分からなくていいわ」
陽名は納得していない顔をしている。
ミーラはその表情を見た。
「私も、まだ分かっていないから」
アビゲイルはミーラを見る。
その言葉だけは、研究者の演技には聞こえなかった。
陽名が視線を外す。
ベッドのマナイアを見る。
その横へ戻った。
ミーラは追わなかった。
ただ陽名を見ている。
答えを見つけた人間の目ではない。
むしろ、答えがあると信じている人間の目だった。
ジャンの端末が警告音を鳴らした。
【LOCAL DEFENSE NODE:RESTART】
【SECURITY UNITS:ACTIVATING】
「リーダー」
ジャンが表示を切り替える。
「局地防衛ノードが再起動しました」
「〈センチレット〉?」
「複数機」
座標が表示される。
「こちらへ接近しています」
「〈レイヴン〉は?」
「予備ルート3から呼び戻せます」
「呼んで」
「了解」
アビゲイルはすぐに指示を出す。
「リョウ、教官を支えて」
「任せろ」
「ジャン、先導と通信」
「了解です」
「ミーラは私たちから離れないで」
「分かったわ」
マナイアが上体を起こしかけた。
腹部をかばうように動きが止まる。
「教官」
「歩ける」
「撃たれた人間は全員そう言います」
「俺は違う」
「何がです?」
「俺だからな」
「意味が分かりません」
リョウはベッド脇へ腰を落とし、マナイアの腕を自分の肩へ回した。
足が床に着くのを待って身体を支え上げる。
「ほら、教官」
「要らねぇって言ってんだろ」
「はいはい」
「聞け!」
「撃たれた奴の強がりは聞かねー!」
マナイアが悪態をつく。
その声を聞いて、陽名がわずかに笑った。
アビゲイルは扉へ向かう。
その前に振り返った。
「陽名」
「うん」
「行くよ」
アビゲイルが手を差し出した。
陽名は迷わなかった。
小さな手が重なる。
指が握られる。
〈T.A.S.S.〉の視界では、最後まで人物識別枠が安定しなかった。
【ID:UNRESOLVED】
【TRACKING:UNSTABLE】
それでも。
手の中の体温だけは消えなかった。
アビゲイルは陽名の手を握ったまま、旧医療施設を出た。


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