【補助観測ログ M-04】
【所属:世界政府中央科学研究院/特殊解析部門】
【記録方式:自動送信】
【対象:Δ.H0該当区間】
【再現率:0.02%】
【信頼値:算出不能】
【映像・音声・熱源データ:部分欠損】
衛星通信は安定していた。
──少なくとも、数分前までは。
観測室の空調は正常。
冷却ファンも規定値内。
端末との接続にも異常はない。
それでも、再生できない記録が一つある。
複数の映像ログがモニターへ並んでいる。
その中の一つだけ再生処理が途中で停止する。
【PERSON DETECTED】
【ID:UNRESOLVED】
【TRACKING LOCK:FAILED】
映像そのものは存在している。
データ容量も異常なし。
チェックサムも一致。
それなのに、人物追跡だけが成立しない。
私は再生位置を数秒戻した。
トーキョー・シティの変異区域。
複数の変異市民が路上を移動している。
その中に少女が一人立っていた。
映像では見える。
輪郭もある。
服装も確認できる。
だが、識別枠が重ならない。
一度固定しても、次のフレームで外れる。
熱源追跡も同じだった。
反応は存在する。
しかし数フレームだけ、少女に対応する値が欠ける。
周囲の変異市民にも不自然な挙動があった。
少女の近くまで来た個体が、視線を別方向へ滑らせる。
別の個体はその位置を避けるように進路を変えた。
全個体ではない。
完全な再現性もない。
それでも偶然として切り捨てるには、同じ傾向が多すぎる。
──Δ.H0。
旧封鎖記録の中で、分類不能ログへ暫定的に付与されていた識別記号。
対象の名称ではない。
能力名でもない。
観測側が説明できなかった現象へ置いたラベル。
それが再び画面へ現れている。
私は三つの仮説を並べた。
──A:複数センサー間の時刻同期不良。
──B:人物識別・追跡処理の競合。
──C:意図的な記録消去、または対象に付随する記録処理異常。
どれも単独なら成立する。
だが、すべての欠損を同時には説明できない。
映像。
人物識別。
熱源。
移動予測。
異なる系統が、同じ対象付近だけで不安定になる。
「……興味深いわね」
声に出してから、自分で気づいた。
恐怖より先に、探究心が動いていた。
私はこの感覚を知っている。
既存理論だけでは処理できない記録。
欠損しているのに、欠損そのものが情報を持っている状態。
若い頃にも似たものを見た。
私はかつてケイト・クロスの助手だった。
『あなたは何のために研究するの?』
あの人はそんなことを聞いた。
当時の私はうまく答えられなかった。
研究する理由など、結果を出すためで十分だと思っていた。
2059年。
ケイトは死んだ。
その後も研究は続いた。
2065年。
ヘンリック・ホフマンが消えた。
そこからクロス・レガシーの実務解析は私の仕事になった。
現在の肩書きは、クロス・レガシー解析室長。
管理責任者。
観測官ではない。
それでも、やっていることは変わらない。
残された断片を読む。
欠けた記録を繋ぐ。
そこに何があったのかを考える。
進化の果てを語る者は多い。
だが、実際にそこへ到達した者を私は知らない。
黒須蔵人は何かを見た。
ホフマンは何かへ届こうとした。
ケイトは問いを残した。
私はその痕跡を読んでいる。
まだ答えには届いていない。
だから、分析を続ける。
端末上へ私的な暫定ラベルを展開した。
【PRIVATE ANALYSIS / TEMPORARY LABEL】
【RΩ/ラズ】
高変動。
トーキョー・シティ異常との関連性が高い。
行動目的は未確定。
【EΩ/EVA】
ホフマン関連存在。
自律性、処理範囲、現在の介入規模とも評価保留。
【AΓ/アビゲイル】
現場統率能力、高。
環境変化への適応速度、高。
【JΓ/ジャン】
記録照合、情報解析、戦術支援。
大量情報下でも処理精度を維持。
【RΓ/リョウ】
高出力近接型。
部分変成による前衛制圧。
継戦時の消耗、大。
【MW/マナイア】
負傷。
戦闘継続能力、低下。
現時点で観測優先度を下げる。
【Z/リク】
所在不明。
現行データ不足。
統計対象から除外。
人間をすべて理解する必要はない。
研究上は、行動、能力、結果へ分解できる。
必要な因子だけを抽出すれば、比較は成立する。
[ワイルドカード]もそうだった。
彼らが何を望んでいたかではない。
どこまで到達できるか。
何を突破できるか。
何を残すか。
私はそれを見ていた。
だが。
Δ.H0だけはその方法では整理できない。
該当フレームを演算モデルへ入力する。
予測誤差が増える。
条件を変える。
再計算。
同じ。
入力順序を変える。
再計算。
また誤差が増える。
【Δ.H0】
【市民登録:該当なし】
【現地呼称:取得不能】
【人物追跡:不安定】
【熱源追跡:部分欠損】
【映像欠損:断続】
【危険度:算出不能】
名前がないのではない。
こちらの記録に名前が残っていないだけ。
存在しないのでもない。
映像にはいる。
人間は見ている。
接触した記録もある。
それでも、記録系だけが同じ位置で躓く。
「観測不能……ではない」
私は表示された記号を見る。
「観測はできている」
問題は、その後だ。
固定できない。
分類できない。
既存のデータ構造へ置いた瞬間に、何かが欠ける。
それが対象そのものの性質なのか。
現在のシステム側に原因があるのか。
まだ判断できない。
クロス・レガシーの断片と照合した時だけは違った。
類似する欠損パターンが複数現れる。
偶然。
そう判断することもできる。
だが、私はそれを選ばなかった。
ポケットの中で指先が硬いものへ触れた。
黒曜石。
小さなイヤーカフ。
幼い頃、マリカと対で持っていた片割れ。
何十年も前のものだ。
何の機能もない。
研究資料でもない。
それなのに、捨てていない。
ポケットから取り出し、指先で形を確かめる。

誰のものだったかは分かっている。
なぜ今も持っているのか。
その問いに答える必要はない。
少なくとも今は。
イヤーカフをポケットへ戻した。
端末に通知が走る。
【外周エリア:変異市民群の移動パターン逸脱】
【複数群:同時刻に進路変更】
【局所制御波形:断続検出】
私は座標ログを拡大した。
三つの群れ。
離れた区画。
別々に移動していた変異市民が、ほぼ同時刻に進路を変えている。
目的地は一致していない。
だが、移動開始のタイミングが近すぎる。
偶発的な徘徊では説明しづらい。
「……誘導されている?」
仮説。
まだ事実ではない。
局所制御波形も断続的で、発信源は追えない。
それでも、都市内部で何かが複数の対象へ同時に作用している可能性は残る。
私はもう一度Δ.H0の記録へ戻った。
記録の欠損も、結果だ。
追跡失敗も結果。
観測系が不安定になるなら、その不安定そのものを記録すればいい。
だが。
それでも足りない。
未来演算モデルは壊れていない。
入力された情報も大部分は正常。
なら。
モデルではなく、前提の方が間違っている可能性がある。
既存分類へ入らないものを、無理に分類しようとしている。
私は椅子から立ち上がった。
観測対象へ近づけば、観測条件は変わる。
当然、観測者自身も系の中へ入る。
それは避けるべき誤差だ。
本来なら。
「……記録だけでは足りない」

口にした瞬間、自分の判断が決まった。
「私自身が観測する」
その時。
端末の音声波形が跳ねた。
【AUDIO INSERT:UNREGISTERED】
【SOURCE:UNKNOWN】
【ANALYSIS:FAILED】
再生していない音声データ。
入力記録にも存在しない。
ノイズの中に、一つだけ人間の声に近い波形がある。
私は再生した。
『……こ、えて……』
途切れた少女の声。
もう一度。
『……こ、えて……』
意味は取れない。
名前なのか。
警告なのか。
単なるノイズの誤認なのか。
解析結果は変わらない。
【SOURCE:UNKNOWN】
【ANALYSIS:FAILED】
私は画面を見たまま動かなかった。
理由は説明できない。
それでも。
この声を以前にも聞いたことがあるような気がした。
【補助観測ログ M-04/終了】


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