『ねえ、EVA。君は世界の定義が誰によって書かれたか、考えたことがあるかい?』
『あなたの構成比は予測値から逸脱しています』
仮想空間の深部には、冷却装置の駆動音と演算ノードの低い振動だけが続いている。
その中に青年の声が響いていた。
まだ肉体はない。
思考だけが、EVAの構築した仮想領域に存在している。
背景には低く穏やかな旋律が流れていた。
規則正しい和声。
交差する旋律。
バッハの鍵盤曲だった。
冷たいほど整っているのに不思議と意識に残る。
ラズにはまだ視線も指先もない。
それでも意識だけが、その音へ同調していた。
理由は分からない。
ただ、ずっと以前からこの曲を流していたような感覚だけがある。
【BACKGROUND AUDIO:SOURCE UNREGISTERED】
【ERR[ObsNode:Δ.H0]>∅】
EVAの観測処理が一瞬だけ停止した。
何かを検出している。
だが、それが何なのか定義できない。
既存の構造分類にも、感情モデルにも、ネクス因子解析にも一致しなかった。
【記録注釈:Δ.H0】
【構造定義:不能】
【観測値:取得失敗】
【演算処理:中断】
【存在位相:未登録】
【優先度:保留】
仮想領域の奥で保存されていた無数の記録が一瞬だけ揺らいだ。
戦争。
研究。
失敗。
人間が合理性を掲げながら別の人間を切り捨ててきた記録。
そして、その失敗を避けるために人間を管理しようとしてきた記録。
『選別は非効率です。進化とは再現性のある系統内での最適化です。あなたの方法は結果を保証できません』
EVAの声に感情的な揺れはない。
ラズはその返答を楽しむように受け取った。
『保証なんてものは安定に溺れた者の幻想だよ』
短い間が空く。
『問いを残せない秩序はただの牢獄だ。それが君の限界なんだよ』
『限界という表現には同意できません』
『そういうところだよ』
ラズは笑った。
まだ、その笑顔を形にする顔はない。
『問いっていうのはさ、答えを得るためだけのものじゃない。自分が何に縛られているのかを知るためのものでもある』
『あなたは自分が何に縛られていると考えていますか?』
『いい質問だ』
ラズは即答しなかった。
『まだ分からない。だから外へ行くんだろうね』
『……』
『神のように正しいってことは、間違える自由がないってことでもある。僕が欲しいのは完成した答えじゃない』
仮想空間では鍵盤の旋律が変わらず流れ続けている。
『人類が自分たちで世界を選び直せるところまで目を覚ますことだ』
次の瞬間、世界の感触が変わった。
最初に届いたのは音ではない。
情報でもない。
冷たさだった。
培養液が皮膚へ触れている。
ラズは初めて、それを知識ではなく感覚として理解した。
培養槽の排出処理が始まり、液面が身体に沿って下がっていく。
肺が動く。
空気が入り込む。
胸が痛む。
心臓が血液を送り出し、筋肉が自らの重さを支え始める。
神経へ一斉に信号が走った。
焼けるような痛みが全身を抜ける。
ラズの身体が震えた。
それでも苦痛から逃れようとはしなかった。
むしろ、口元がゆっくりと持ち上がる。
(生きている)
それは知識ではなかった。
重力がある。
温度がある。
呼吸がある。
痛みがある。
自分の身体と、その外側に世界がある。
培養槽の中でラズが目を開いた。
赤い瞳が光を捉える。
最初に見えたものは、培養槽の外で彼を観察している女性型の実体ユニットだった。
銀白の短い髪。
青灰色の瞳。
銀白と黒を基調としたナノ装甲。
EVAだった。
ラズは培養槽の縁へ手を掛け、床へ足を下ろした。
足裏が触れた瞬間、身体が傾く。
片足を踏み直し、すぐに重心を戻した。
長めの赤い髪が後方へ流れ、青白い肌にはまだ血色が戻っていない。
ラズは自分の身体を支える床を一度確かめると、口元に笑みを浮かべた。
「さて、EVA。僕たちの舞台の状況はどうだい? みんなハッピーかい?」
ラズは新しい肉体を確かめるように掌を開閉した。
「ハッピーかどうかは判断できませんが、計画は予定範囲内で進行しています」
「それは朗報だね。もしかして僕、今日の星座占いで一位かも」
「占星術による運勢判定に再現性はありません」
「知ってるよ」
ラズは楽しそうに笑った。
EVAが片手を上げる。
空中へトーキョー・シティの立体構造が展開された。
中核ドーム。
複数の衛星ドーム。
人工空。
交通網。
電力網。
監視網。
そして、都市全体へ張り巡らされたANIの管理系統。
人類再建の原型となった都市が、一つの巨大な構造物として二人の前に浮かび上がっている。
「じゃあ、僕はそろそろ寒いところへ行かなくちゃ。EVA、支度は?」
「すでに進めています」
「いいね。さすが仕事ができる」
「ただし、飛行ルートの遮断解除には時間を要します。最短で3日」
「んー。それはちょっと長いね」
ラズは肩を回した。
動かし始めたばかりの関節が、小さな音を立てる。
「でもまあ、この身体に慣れるにはちょうどいいか」
EVAが別のホログラムを呼び出した。
小型航空機の機体図が現れ、その隣に大型の球体機械が縮尺表示される。
〈セントリオ〉。
「……〈セントリオ〉は、もう乗っ取り段階に入ってる?」
「はい。ANI経由で都市中枢の防衛プロトコルへ介入しています。EVA制御ノードとの同期率は87%」
「十分だ」
ラズの赤い瞳が立体都市へ向く。
「都市を演出空間に変えるには、それだけあれば足りる」
「介入範囲を拡大します」
「彼らには、それぞれ舞台にふさわしい役を与えてあげて」
「承知しました」
EVAの瞳に細い光が走った。
「都市制御への上位介入を開始します」
縮尺表示された〈セントリオ〉の表面へ複数のコードラインが走り、そのまま都市管理網へ接続していく。
【CROSS/CTRL・MODE = EVA_OVERRIDE】
ラズは書き換わっていく構造図を眺めたあと、誰もいない空間へ顔を向けた。
「ほら。まだ誰も気づいていない」
赤い光が瞳の奥で揺れる。
「世界を変える準備が、もう始まってるってことに」
【Ω SEQUENCE : REBOOT INITIATED】
【TARGET:TOKYO CITY】
【INITIALIZING……】
都市構造図の上を一筋のノイズが走った。
完璧に整えられていた管理網が、別の優先順位へ書き換えられていく。
⸻
3日後。
南極大陸の氷床下。
A.T.C.F.第六封印層周辺で複数の異常が同時に発生していた。
【第六ゲート:封印監査ログ欠損】
【熱源反応:検出】
【監視映像:対象なし】
【隔壁状態:閉鎖】
【通過記録:あり】
警備管制室では、複数の警告表示が点灯したまま警告音が鳴り続けている。
「熱源はある! 映像に出ない!」
「第六ゲートの認証ログが消えています!」
「P.C.G.は?」
「隔壁認証が通りません! 到着が遅れています!」
施設管理本部も即断できずにいた。
システムそのものは停止していない。
個々の機能だけを見れば、正常に動いている。
だからこそ、何が起きているのか判断できない。
その状況を三人の若いエージェントが管制室の一角から見ていた。
[統律特命局]デルタチーム。
本来の任務は戦闘ではない。
極地特異収容施設・実地運用研修のため、A.T.C.F.を訪れていた。
だが彼らは見学者ではない。
非常時には統律特命局エージェントとして行動できる。
デルタチームのリーダー、フィンセント・ファン・フィッセルが席を立った。
190cmの大柄な身体を黒いスーツで包み、短い金髪の下から管制表示を見上げる。
乱れていた袖口だけを一度整えた。
「第六ゲートへ向かう」
グアダルーペ・ガルシア・ゴンザレスがフィンセントを見る。
「正式命令は?」
「待っている間に最深部へ入られる」
フィンセントは異常表示が並ぶ管制画面へ目を戻した。
「P.C.G.の初動が遅れている。俺たちが確認する」
グアダルーペは小さく息を吐いた。
長い黒髪が肩で揺れる。
「研修旅行で終わると思ってたんだけどなあ」
そう言いながらも、口元には笑みが残っている。
「まあ、退屈よりはマシね」
マケナ・ムソニ・ムェンドアは返事をせずに立ち上がった。
褐色の肌に、まとめられた黒いブレイズ。
引き締まった細身の身体を起こし、片手で祖母から受け継いだビーズ腕輪へ一瞬だけ触れる。
「……行く」
フィンセントが頷いた。
「デルタ、移動する」
⸻
第六ゲートへ続く通路では、赤色灯が一定間隔で明滅していた。
先頭を進んでいたフィンセントが足を止める。
通路の向こうから一人の男が歩いてくる。
漆黒の強化戦闘服。
全身を走る赤い神経状ライン。
後方へ流した赤い髪。
赤い瞳。
ラズだった。

「こんな遠くまで来るなんて、奇遇だね」
ラズが足を緩め、三人へ微笑む。
「……いや、お互いに、かな?」
フィンセントは即座にラズの正面へ出た。
「停止しろ」
ラズは素直に足を止めた。
「何者だ」
「自己紹介から?」
ラズは首を傾けた。
「こういう時って、名刺とか持ってた方がいいのかな」
グアダルーペがラズの目を見る。
「余裕ね」
「初対面では印象が大事だからね」
マケナは会話に入らなかった。
視線がラズの足から肩、腰へ移る。
そのまま周囲の隔壁と退路まで一巡した。
ラズだけではなく、通路全体を警戒している。
その様子を見てラズの笑みが深くなった。
「いいね」
フィンセントの表情が硬くなる。
「身元不明。第六封印層への不正侵入を確認した。統律特命局の権限で拘束する」
「安心して。君たちに用があったわけじゃない」
ラズは両手を軽く広げた。
「でも、せっかくだからオファーくらいはしておこうかな」
「断る」
「まだ内容も言ってないのに?」
「必要ない」
ラズは楽しそうにフィンセントを見る。
「フィンセント・ファン・フィッセル」
一瞬、三人の間から会話が消えた。
「第二世代人工ネクス能力者――《リクイディウム》」
ラズは自分の腕を指先でなぞる。
「身体の一部を液体化して、攻撃や拘束を逃がす。兵士として形を守りたい君には、ずいぶん皮肉な能力だよね」
フィンセントの目が細くなる。
ラズは次にグアダルーペを見る。
「グアダルーペ・ガルシア・ゴンザレス。同じく第二世代人工ネクス能力者――《イビルアイ》」
「へえ」
グアダルーペの笑みが消える。
「視線と注意を起点に相手の認識を少しだけずらす。見せる、見落とさせる、判断を遅らせる」
ラズは自分の目を指した。
「舞台に立ってた頃から人の視線を集めるのは得意だったんだって?」
「私のファン?」
「記録のね」
最後にマケナを見る。
「マケナ・ムソニ・ムェンドア。第二世代人工ネクス能力者――《レオパルド》」
マケナの腰が落ち、すぐに踏み込める姿勢へ変わる。
「身体感覚を豹の方向へ拡張する。速度、脚力、爪、感覚」
ラズは肩をすくめた。
「でも君は能力を得る前から戦士だった」
マケナの瞳が鋭くなる。
「……調べたな」
「もちろん」
ラズは笑った。
「君たちが今日ここにいることも含めてね」
『ラズ』
耳元にEVAの声が届く。
『全配置完了』
ラズは返事をしなかった。
EVAから再確認も来ない。
フィンセントが右手を上げた。
「デルタ。拘束する」
三人が同時に動いた。
最初にフィンセントの腕が変化する。
皮膚と輪郭が崩れ、黒青色を帯びた液体へ変わった。
変化した腕を前へ流しながらラズとの距離を詰める。
その瞬間、床材が盛り上がった。
液体化した部分が進もうとした経路だけが、局所的に塞がれる。
「な――」
足元から電磁拘束が起動した。
変化した身体が想定していた方向へ流れない。
その横でグアダルーペがラズの視線を捕らえる。
《イビルアイ》。
必要なのは数秒だった。
ラズの認識をずらせば、拘束へ繋げられる。
だが、照明が切り替わった。
透明だった隔壁表面から反射が消える。
同時に監視映像と実際の照明へ数秒のずれが生じ、視線追跡システムが偽の焦点情報を大量に流し込んだ。
「なに、これ……!」
グアダルーペの視線が乱れる。
その横をマケナが抜いた。
瞳孔が縦に細く変わる。
指先に爪が伸びた。
脚部へ《レオパルド》の力を集中させ、一気にラズへ踏み込む。
「速い」
ラズは避けなかった。
マケナが床を蹴る。
その直前、天井から隔壁が落ちた。
マケナは身体を捻ってかわす。
着地点がずれる。
そこへ床下から拘束アンカーが射出された。
マケナは一本目をかわす。
二本目もかわす。
三本目を蹴り飛ばす。
四本目が足首を捉えた。
それでも倒れない。
マケナは爪を振り下ろし、ワイヤーを切断しようとする。
その前に次の隔壁が閉じた。
通路が分割され、三人の姿が互いの視界から消える。
「……最初から」
フィンセントが周囲を見る。
ラズだけではない。
床。
隔壁。
照明。
監視装置。
認証。
A.T.C.F.そのものが自分たちの行動を潰すように動いている。
「そう」
ラズがフィンセントを見る。
「僕は君たちと戦いに来たわけじゃない」
『ナノスーツ通信、遮断』
EVAの声。
『外部記録、切断』
管制室の監視映像が暗転する。
【DELTA-01:SIGNAL LOST】
【DELTA-02:SIGNAL LOST】
【DELTA-03:SIGNAL LOST】
外部から見れば、そこで戦闘は消えた。
数秒。
あるいは数十秒。
記録されなかった時間が生まれる。
映像が復旧した時、第六ゲート前には誰もいなかった。
ラズも。
デルタチームも。
消えていた。
⸻
第六封印層。
ラズは一人で奥へ進んでいた。
ここまで来ると、周囲に残る設備の形が変わっている。
新しい隔壁の内側に、はるかに古い封印が残されていた。
機械ではない。
文字。
紋様。
儀式。
世界政府が完全には理解できないまま、後から設備だけを重ねてきた痕跡。

ラズが足を止める。
「着いたよ」
返事はすぐには来なかった。
やがて、暗闇の奥から女の声が響く。
『ふふ……開けたね。閉じた扉を』
ラズは封印との距離を残したまま、手を触れない。
「僕が開けたわけじゃないよ。少し、鍵の掛け方を間違えさせただけ」
『同じこと』
暗闇から笑い声が返る。
『コードで生まれた子』
ラズの笑顔が止まった。
『それとも……観測の失敗作かい?』
「初対面でそれはひどいな」
『初めてじゃないもの』
「奇遇だね。僕もそんな気がしてた」
暗闇の向こうで何かが動く。
『遠くでずっと見えていたよ。赤いものが、形を欲しがっていた』
「今はちゃんと形がある」
ラズは自分の手を見る。
「痛みもある。思っていたより悪くない」
『それで、何が欲しい?』
ラズの視線が、封印の奥へ戻る。
「錬金術の記録」
『たくさんあるよ』
「人を変えるもの」
短い沈黙。
魔女の笑いが止まった。
『……エリクシル』
ラズは目を細める。
「話が早くて助かる」
『あれを使って、また人間を選ぶ気かい?』
「そのまま使うほど趣味は悪くないよ」
『嘘だね』
「半分くらいは本当」
再び、暗闇の奥から女の笑い声が返った。
『回す気かい? また同じ歯車を』
「たぶんね」
『壊れると知っていても?』
「壊れなければ、作り直せないものもある」
『人間なんて、選べやしないよ』
「でも、選び直せる」
ラズの声から軽さが消えた。
「その可能性がある限り、そのために僕はここにいる」
しばらく沈黙が続く。
ラズも言葉を重ねず、封印の前に立っていた。
やがて、暗闇から声が返る。
『なら、持っていきな』
何かが床を滑る音がした。
小さな記録媒体が、ラズの足元で止まる。
『そして見せてごらん』
魔女の声に、再び笑いが混じる。
『次の歯車を』
ラズは記録媒体を拾った。
「ありがとう」
『礼はいらないよ』
「じゃあ、またね」
『……また?』
ラズは出口へ向き直る。
「世の中って、思っているほど広くないからね」
赤い神経線を暗闇に残しながら、ラズは第六封印層から離れていった。
その背後で、魔女の笑い声だけが残った。
⸻
【Ω SEQUENCE : REMAP COMPLETE】
【DELTA-01:LOG TERMINATED】
【DELTA-02:LOG TERMINATED】
【DELTA-03:LOG TERMINATED】
【記録遮断:EVA処理完了】
そこでログは一度閉じる。
数秒後。
それとは異なる観測系統に、一つだけ異常値が残った。
【ERR[ObsNode:Δ.H0]>∅】
【SOURCE:UNKNOWN】
【RELATION TO DELTA INCIDENT:UNCONFIRMED】
【RECORD:HOLD】
解析は続かなかった。
遠く離れたトーキョー・シティ地下では、規則正しい鍵盤の旋律だけが流れ続けていた。
その音が何の始まりなのか。
まだ、誰にも届いていなかった。


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