【REFERENCE LABEL:Δ.H∞.pre】
【OBSERVATION LAYER:NONE】
【RECORD STATUS:UNFILED RESIDUAL】
かすかに。
風が吹いた。
もう。
観測ではない。
記録でもない。
閉じられた記録のあとに。
残ったもの。
⸻
焼けた空気の中。
一人の男が歩いていた。
リク・ロクジョウ。
全盛期を再現していた肉体は。
もうない。
白髪。
深く刻まれた皺。
落ちた肩。
足を運ぶたび。
疲労がそのまま身体へ出ている。
次の一歩を出すまでに短い間があった。
左義手は。
肩口から繋がったまま。
ほとんど力を返さない。
指先が。
時折。
わずかに動く程度。
左義眼も。
青白い発光を失っている。
戦場で。
すべてを見抜いていた眼ではない。
今は。
ただ。
男の顔に残された。
古い義眼だった。
ジャンが近づく。
「歩けますか?」
「見りゃ分かるだろ」
「歩けることと、歩いていいことは別です」
「面倒くせえ奴だな」
リクが。
腰へ右手を伸ばす。
大型リボルバー。
長い年月。
彼と共にあった。
銃口を下へ向け。
グリップをジャンへ差し出す。
ジャンが。
一度。
リボルバーを見る。
「……ボクに?」
「ああ」
「ですが、これは――」
「持ってろ」
ジャンは。
言葉を止めた。
両手で受け取る。
重い。
片手が。
わずかに沈む。
ジャンは片方の手を銃身の下へ添え直した。
ようやく重さが両手へ均等にかかる。
リクは。
もう見ていない。
次。
尻ポケットから。
傷だらけの金属製スキットルを抜く。
指先で。
リョウへ投げる。
「うおっ」
リョウが。
両手で受け止める。
表面。
長年ついた傷。
凹み。
そして。
小さな刻印。
C.C.
リョウの口が。
少しだけ開く。
いつもの軽口は。
出なかった。
「……これ」
「お前が持っとけ」
「オレ?」
「嫌なら捨てろ」
「捨てるわけねえだろ」
「じゃあ決まりだ」
リョウが。
スキットルを握る。
リクは。
そのまま歩き出そうとした。
「待って」
アビゲイル。
リクの足が止まる。
振り向かない。
アビゲイルが歩み寄り、横からその顔を見た。
アビゲイルの胸元。
古びたクロス型ペンダント。
風を受け。
わずかに揺れる。
リクの視線が。
そこへ落ちる。
一瞬。
止まった。
「……それ」
アビゲイルが。
ペンダントへ触れる。
「ケイトのものだった」
「ああ」
短い返事。
「あなたは知っていたの?」
「全部じゃねえ」
「私のことも?」
「知らなかった」
アビゲイルは。
黙る。
リクも。
言葉を探さない。
「ケイトが残したものを」
リクが言う。
「どう受け取るかは、お前が決めろ」
「……あなたは?」
「俺が決めることじゃねえ」
アビゲイルの指が。
ペンダントを握る。
「私は」
一拍。
「まだ、あなたを父親とは呼べない」
「ああ」
リクは。
それだけ答えた。
「エドワードは私の父よ」
「ああ」
「エリノアは私の母」
「ああ」
同じ答え。
否定しない。
奪わない。
アビゲイルはペンダントから手を離さずに聞いていた。
アビゲイルが。
リクを見る。
「でも」
声が。
少し止まる。
「確認したいことはある」
「好きにしろ」
リクが。
ようやく。
少しだけ振り返る。
「お前の人生だ」

アビゲイルは。
何も返さなかった。
リクも。
待たない。
歩き出す。
老人の足取り。
遅い。
それでも。
止まらない。
「リク・ロクジョウ」
アビゲイルが呼ぶ。
男は。
振り返らない。
右手だけを。
少し上げた。
そのまま。
崩れた通路の向こうへ。
歩いていった。
転移ではない。
消失でもない。
ただ。
一人の男が。
自分の足で。
戦場から離れていった。
ジャンの手には。
大型リボルバー。
リョウの手には。
C.C.の刻まれたスキットル。
アビゲイルの胸には。
クロス型ペンダント。
それぞれ。
違うものが残った。
⸻
別の場所。
崩れた壁際。
スプロケットは。
自分の足で立っていた。
【CONSCIOUSNESS:CONFIRMED】
【IDENTITY COHERENCE:PARTIAL】
【ACTIVE CONNECTION:NONE】
身体は。
まだ少し揺れる。
ポイゾナスは。
隣にいる。
抱えてはいない。
倒れそうになれば。
手を出せる距離。
ただそれだけ。
フェイズは。
少し離れた場所。
退路を確認したあと。
戻ってきている。
三人。
違う形の獣骨。
ポイゾナスの首元。
フェイズの首元。
それぞれ。
タウロスが。
仲間へ作ったもの。
スプロケットの手には。
別の首飾り。
中央の骨飾り。
深く割れている。
欠けている。
タウロス自身が。
身につけていたもの。
スプロケットが。
指で。
割れた部分をなぞる。
「……タウロス」
返事はない。
もう一度。
呼ばない。
ポイゾナスの手が。
スプロケットの肩へ触れる。
スプロケットは。
振り払わない。
肩に置かれた手がそのまま残る。
フェイズも。
何も言わない。
三人の間。
風だけが通る。
名を呼ぶには。
重すぎたのではない。
名前は。
そこにある。
タウロス。
ただ。
その名前を呼んでも。
もう。
返事をする男がいない。
スプロケットは。
首飾りを握る。
「……忘れない」
小さな声。
それだけ。

⸻
地下研究施設。
一室。
誰もいない。
仮設解析端末。
画面には。
最後の表示だけが残っている。
【M-07:CLOSED】
【OBSERVATION LAYER:Δ.H3】
【REFLOG SERIES:END】
入力待機欄はない。
追加解析も。
再観測要求も。
開かれていない。
椅子も。
空いている。
ミーラ・マリクは。
もう。
そこにはいなかった。
記録だけが。
閉じられたまま残っていた。
⸻
さらに。
記録へ残らない場所。
古い紙の匂い。
金属が擦れる音。
小さな炎。
Zippoの火が。
一瞬。
暗がりを照らす。
煙草へ。
火が移る。
炎は閉じられた。
薄い煙が開かれたページの上を通る。
革装丁の紙手帳。
万年筆。
新しいページが開かれる。
そこへ。
いくつかの名前が書き加えられた。

何の一覧なのか。
誰を意味するのか。
この断片には。
残っていない。
書き終える。
紙が閉じられる。
煙だけが。
天井へ上がっていった。
⸻
また。
別の場所。
古いコインが。
親指で弾かれる。
銀色の円。
空中で一度。
回る。
掌へ戻る。
男は。
結果を見ない。
指の間で。
もう一度。
ゆっくり回した。

机上の端末。
トーキョー・シティ。
損害報告。
未確定記録。
複数の項目。
男は。
そのどれにも。
すぐには触れなかった。
コインだけが。
指の間を。
行き来する。
世界のすべてを。
知っているわけではない。
それでも。
何かが。
終わらなかったことだけは。
理解しているようだった。
⸻
そして。
もう一度。
風が吹いた。
外へ続く。
崩れた連絡路。
アビゲイル。
ジャン。
リョウ。
そして。
陽名。
少し遅れて。
スプロケットもいた。
陽名は。
いつも通り。
そこに立っている。
見える。
声も聞こえる。
足も。
地面へついている。
胸元。
五枚のドッグタグ。
歩くたび。
小さな金属音がする。
陽名が。
その音を聞く。
指で。
一枚ずつ触れる。
デルロイ。
ファイシル。
キャメロン。
アレクセイ。
ジョイ。
名前。
陽名は。
しばらく。
タグを見ていた。
「ねえ」
アビゲイルが。
振り向く。
「何?」
「名前って」
陽名が言う。
「呼ばれなくなったら、なくなるの?」
アビゲイルは。
すぐには答えない。
「なくならない」
ジャンが。
先に言った。
陽名が。
ジャンを見る。
「記録がなくても?」
「はい」
「証明できなくても?」
「それでもです」
ジャンは。
大型リボルバーを。
両手で持ち直す。
「少なくとも、ボクは覚えています」
リョウが。
鼻を鳴らす。
「オレも」
スキットルを。
上着の内側へしまう。
「つーか」
陽名を見る。
「忘れるわけねえだろ」
陽名が。
少し笑う。
次。
スプロケット。
彼女の手には。
割れた獣骨の首飾り。
「ぼくも」
スプロケットが言う。
「覚えてる」
陽名は。
最後に。
アビゲイルを見る。
「アビゲイルは?」
「忘れない」
即答。
「絶対?」
「絶対」
「未来を見ても?」
アビゲイルの目が。
少しだけ細くなる。
「未来を見ることと」
「覚えていることは別よ」
「そっか」
陽名は。
もう一度。
五枚のドッグタグを見る。
「よかった」
風。
髪が。
少し揺れる。
陽名は。
一歩。
後ろへ下がった。
アビゲイルの眉が動く。
「陽名?」
「うん」
「どうしたの?」
陽名は。
答えるまで。
少し時間を置いた。
「わたし」
「もう、行くね」
「どこへ?」
リョウが聞く。
陽名は。
首を傾げる。
「わからない」
「分からねえのかよ」
「うん」
「だったら行くなよ」
陽名が。
リョウを見る。
困ったように。
少しだけ笑う。
「でも」
「わたしが決めたの」
アビゲイルの表情が止まる。
ジャンも。
何も言わない。
スプロケットの指が。
獣骨を握る。
「誰かに言われた?」
アビゲイル。
「ううん」
「何かに決められた?」
「ううん」
「本当に?」
「うん」
陽名が。
自分の胸へ。
手を置く。
「わたしが」
「決めた」
アビゲイルは。
陽名を見続ける。
止める言葉。
いくつも。
浮かんだのかもしれない。
けれど。
口にはしなかった。
「……そう」
それだけ。
陽名が。
笑う。
今までより。
少し。
普通の少女に近い笑い方。
「ありがとう」
「何に?」
リョウ。
「いっぱい」
「雑だな」
「いっぱいだから」
「そりゃ仕方ねえな」
リョウが笑おうとする。
口元を動かしたまま次の言葉が出なかった。
ジャンは。
陽名から視線を外さない。
スプロケットも。
同じ。
誰も。
見失ってはいない。
陽名の輪郭が。
少しずつ。
薄くなる。
空気が止まったわけではない。
時間も。
止まらない。
音も。
聞こえている。
ただ。
陽名という少女の身体だけが。
少しずつ。
そこから離れていく。
「陽名」
アビゲイルが。
名前を呼ぶ。
「うん」
返事。
まだ。
聞こえる。
「陽名」
今度は。
リョウ。
「うん」
「陽名」
ジャン。
「はい」
陽名が。
少し笑う。
「それ、わたしの返事じゃない」
「……すみません」
「ジャンらしい」
最後。
スプロケット。
「陽名」
陽名が。
スプロケットを見る。
「うん」
それが。
最後の返事だった。
輪郭が。
消える。
誰の目にも映らなくなったのではない。
最後まで。
全員が見ていた。
見ていたまま。
陽名は。
そこからいなくなった。
五枚のドッグタグ。
支える手を失い。
地面へ落ちる。
カチン。
小さな。
金属音。
アビゲイルが。
しゃがむ。
一枚。
また一枚。
拾う。
五枚。
掌の中。
確かにある。

アビゲイルは縁が重なるのを指で押さえた。
立ち上がるまでに少し時間がかかった。
リョウが。
何も言わない。
ジャンも。
端末を開かない。
記録しようとしない。
スプロケットも。
接続しない。
ただ。
そこにいる。
風が。
もう一度。
通り抜ける。
「……陽名」
アビゲイルが。
呼ぶ。
返事はない。
それでも。
名前は消えなかった。
⸻
大型リボルバーが残った。
傷だらけのスキットルが残った。
クロス型ペンダントが残った。
割れた獣骨の首飾りが残った。
閉じられたM-07が残った。
紙の手帳に書かれた名前が残った。
古いコインが残った。
五枚のドッグタグが残った。
そして。
人の中に。
陽名という名前が残った。
記録がなくても。
分類できなくても。
観測が終わっても。
そこにいたことまで。
消えるわけではない。
最後に。
風が吹く。
もう。
誰かの姿はない。
それでも。
君は知っている。
そこにいたのは。
名もない気配ではない。
陽名。
一人の少女だった。


コメント