Scene.23 -「観測断片:Δ.H∞.pre」

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▼オリジナル小説

【REFERENCE LABEL:Δ.H∞.pre】

【OBSERVATION LAYER:NONE】

【RECORD STATUS:UNFILED RESIDUAL】

 かすかに。

 風が吹いた。

 もう。

 観測ではない。

 記録でもない。

 閉じられた記録のあとに。

 残ったもの。

⸻

 焼けた空気の中。

 一人の男が歩いていた。

 リク・ロクジョウ。

 全盛期を再現していた肉体は。

 もうない。

 白髪。

 深く刻まれた皺。

 落ちた肩。

 足を運ぶたび。

 疲労がそのまま身体へ出ている。

 次の一歩を出すまでに短い間があった。

 左義手は。

 肩口から繋がったまま。

 ほとんど力を返さない。

 指先が。

 時折。

 わずかに動く程度。

 左義眼も。

 青白い発光を失っている。

 戦場で。

 すべてを見抜いていた眼ではない。

 今は。

 ただ。

 男の顔に残された。

 古い義眼だった。

 ジャンが近づく。

「歩けますか?」

「見りゃ分かるだろ」

「歩けることと、歩いていいことは別です」

「面倒くせえ奴だな」

 リクが。

 腰へ右手を伸ばす。

 大型リボルバー。

 長い年月。

 彼と共にあった。

 銃口を下へ向け。

 グリップをジャンへ差し出す。

 ジャンが。

 一度。

 リボルバーを見る。

「……ボクに?」

「ああ」

「ですが、これは――」

「持ってろ」

 ジャンは。

 言葉を止めた。

 両手で受け取る。

 重い。

 片手が。

 わずかに沈む。

 ジャンは片方の手を銃身の下へ添え直した。

 ようやく重さが両手へ均等にかかる。

 リクは。

 もう見ていない。

 次。

 尻ポケットから。

 傷だらけの金属製スキットルを抜く。

 指先で。

 リョウへ投げる。

「うおっ」

 リョウが。

 両手で受け止める。

 表面。

 長年ついた傷。

 凹み。

 そして。

 小さな刻印。

 C.C.

 リョウの口が。

 少しだけ開く。

 いつもの軽口は。

 出なかった。

「……これ」

「お前が持っとけ」

「オレ?」

「嫌なら捨てろ」

「捨てるわけねえだろ」

「じゃあ決まりだ」

 リョウが。

 スキットルを握る。

 リクは。

 そのまま歩き出そうとした。

「待って」

 アビゲイル。

 リクの足が止まる。

 振り向かない。

 アビゲイルが歩み寄り、横からその顔を見た。

 アビゲイルの胸元。

 古びたクロス型ペンダント。

 風を受け。

 わずかに揺れる。

 リクの視線が。

 そこへ落ちる。

 一瞬。

 止まった。

「……それ」

 アビゲイルが。

 ペンダントへ触れる。

「ケイトのものだった」

「ああ」

 短い返事。

「あなたは知っていたの?」

「全部じゃねえ」

「私のことも?」

「知らなかった」

 アビゲイルは。

 黙る。

 リクも。

 言葉を探さない。

「ケイトが残したものを」

 リクが言う。

「どう受け取るかは、お前が決めろ」

「……あなたは?」

「俺が決めることじゃねえ」

 アビゲイルの指が。

 ペンダントを握る。

「私は」

 一拍。

「まだ、あなたを父親とは呼べない」

「ああ」

 リクは。

 それだけ答えた。

「エドワードは私の父よ」

「ああ」

「エリノアは私の母」

「ああ」

 同じ答え。

 否定しない。

 奪わない。

 アビゲイルはペンダントから手を離さずに聞いていた。

 アビゲイルが。

 リクを見る。

「でも」

 声が。

 少し止まる。

「確認したいことはある」

「好きにしろ」

 リクが。

 ようやく。

 少しだけ振り返る。

「お前の人生だ」

 アビゲイルは。

 何も返さなかった。

 リクも。

 待たない。

 歩き出す。

 老人の足取り。

 遅い。

 それでも。

 止まらない。

「リク・ロクジョウ」

 アビゲイルが呼ぶ。

 男は。

 振り返らない。

 右手だけを。

 少し上げた。

 そのまま。

 崩れた通路の向こうへ。

 歩いていった。

 転移ではない。

 消失でもない。

 ただ。

 一人の男が。

 自分の足で。

 戦場から離れていった。

 ジャンの手には。

 大型リボルバー。

 リョウの手には。

 C.C.の刻まれたスキットル。

 アビゲイルの胸には。

 クロス型ペンダント。

 それぞれ。

 違うものが残った。

⸻

 別の場所。

 崩れた壁際。

 スプロケットは。

 自分の足で立っていた。

【CONSCIOUSNESS:CONFIRMED】

【IDENTITY COHERENCE:PARTIAL】

【ACTIVE CONNECTION:NONE】

 身体は。

 まだ少し揺れる。

 ポイゾナスは。

 隣にいる。

 抱えてはいない。

 倒れそうになれば。

 手を出せる距離。

 ただそれだけ。

 フェイズは。

 少し離れた場所。

 退路を確認したあと。

 戻ってきている。

 三人。

 違う形の獣骨。

 ポイゾナスの首元。

 フェイズの首元。

 それぞれ。

 タウロスが。

 仲間へ作ったもの。

 スプロケットの手には。

 別の首飾り。

 中央の骨飾り。

 深く割れている。

 欠けている。

 タウロス自身が。

 身につけていたもの。

 スプロケットが。

 指で。

 割れた部分をなぞる。

「……タウロス」

 返事はない。

 もう一度。

 呼ばない。

 ポイゾナスの手が。

 スプロケットの肩へ触れる。

 スプロケットは。

 振り払わない。

 肩に置かれた手がそのまま残る。

 フェイズも。

 何も言わない。

 三人の間。

 風だけが通る。

 名を呼ぶには。

 重すぎたのではない。

 名前は。

 そこにある。

 タウロス。

 ただ。

 その名前を呼んでも。

 もう。

 返事をする男がいない。

 スプロケットは。

 首飾りを握る。

「……忘れない」

 小さな声。

 それだけ。

⸻

 地下研究施設。

 一室。

 誰もいない。

 仮設解析端末。

 画面には。

 最後の表示だけが残っている。

【M-07:CLOSED】

【OBSERVATION LAYER:Δ.H3】

【REFLOG SERIES:END】

 入力待機欄はない。

 追加解析も。

 再観測要求も。

 開かれていない。

 椅子も。

 空いている。

 ミーラ・マリクは。

 もう。

 そこにはいなかった。

 記録だけが。

 閉じられたまま残っていた。

⸻

 さらに。

 記録へ残らない場所。

 古い紙の匂い。

 金属が擦れる音。

 小さな炎。

 Zippoの火が。

 一瞬。

 暗がりを照らす。

 煙草へ。

 火が移る。

 炎は閉じられた。

 薄い煙が開かれたページの上を通る。

 革装丁の紙手帳。

 万年筆。

 新しいページが開かれる。

 そこへ。

 いくつかの名前が書き加えられた。

 何の一覧なのか。

 誰を意味するのか。

 この断片には。

 残っていない。

 書き終える。

 紙が閉じられる。

 煙だけが。

 天井へ上がっていった。

⸻

 また。

 別の場所。

 古いコインが。

 親指で弾かれる。

 銀色の円。

 空中で一度。

 回る。

 掌へ戻る。

 男は。

 結果を見ない。

 指の間で。

 もう一度。

 ゆっくり回した。

 机上の端末。

 トーキョー・シティ。

 損害報告。

 未確定記録。

 複数の項目。

 男は。

 そのどれにも。

 すぐには触れなかった。

 コインだけが。

 指の間を。

 行き来する。

 世界のすべてを。

 知っているわけではない。

 それでも。

 何かが。

 終わらなかったことだけは。

 理解しているようだった。

⸻

 そして。

 もう一度。

 風が吹いた。

 外へ続く。

 崩れた連絡路。

 アビゲイル。

 ジャン。

 リョウ。

 そして。

 陽名。

 少し遅れて。

 スプロケットもいた。

 陽名は。

 いつも通り。

 そこに立っている。

 見える。

 声も聞こえる。

 足も。

 地面へついている。

 胸元。

 五枚のドッグタグ。

 歩くたび。

 小さな金属音がする。

 陽名が。

 その音を聞く。

 指で。

 一枚ずつ触れる。

 デルロイ。

 ファイシル。

 キャメロン。

 アレクセイ。

 ジョイ。

 名前。

 陽名は。

 しばらく。

 タグを見ていた。

「ねえ」

 アビゲイルが。

 振り向く。

「何?」

「名前って」

 陽名が言う。

「呼ばれなくなったら、なくなるの?」

 アビゲイルは。

 すぐには答えない。

「なくならない」

 ジャンが。

 先に言った。

 陽名が。

 ジャンを見る。

「記録がなくても?」

「はい」

「証明できなくても?」

「それでもです」

 ジャンは。

 大型リボルバーを。

 両手で持ち直す。

「少なくとも、ボクは覚えています」

 リョウが。

 鼻を鳴らす。

「オレも」

 スキットルを。

 上着の内側へしまう。

「つーか」

 陽名を見る。

「忘れるわけねえだろ」

 陽名が。

 少し笑う。

 次。

 スプロケット。

 彼女の手には。

 割れた獣骨の首飾り。

「ぼくも」

 スプロケットが言う。

「覚えてる」

 陽名は。

 最後に。

 アビゲイルを見る。

「アビゲイルは?」

「忘れない」

 即答。

「絶対?」

「絶対」

「未来を見ても?」

 アビゲイルの目が。

 少しだけ細くなる。

「未来を見ることと」

「覚えていることは別よ」

「そっか」

 陽名は。

 もう一度。

 五枚のドッグタグを見る。

「よかった」

 風。

 髪が。

 少し揺れる。

 陽名は。

 一歩。

 後ろへ下がった。

 アビゲイルの眉が動く。

「陽名?」

「うん」

「どうしたの?」

 陽名は。

 答えるまで。

 少し時間を置いた。

「わたし」

「もう、行くね」

「どこへ?」

 リョウが聞く。

 陽名は。

 首を傾げる。

「わからない」

「分からねえのかよ」

「うん」

「だったら行くなよ」

 陽名が。

 リョウを見る。

 困ったように。

 少しだけ笑う。

「でも」

「わたしが決めたの」

 アビゲイルの表情が止まる。

 ジャンも。

 何も言わない。

 スプロケットの指が。

 獣骨を握る。

「誰かに言われた?」

 アビゲイル。

「ううん」

「何かに決められた?」

「ううん」

「本当に?」

「うん」

 陽名が。

 自分の胸へ。

 手を置く。

「わたしが」

「決めた」

 アビゲイルは。

 陽名を見続ける。

 止める言葉。

 いくつも。

 浮かんだのかもしれない。

 けれど。

 口にはしなかった。

「……そう」

 それだけ。

 陽名が。

 笑う。

 今までより。

 少し。

 普通の少女に近い笑い方。

「ありがとう」

「何に?」

 リョウ。

「いっぱい」

「雑だな」

「いっぱいだから」

「そりゃ仕方ねえな」

 リョウが笑おうとする。

 口元を動かしたまま次の言葉が出なかった。

 ジャンは。

 陽名から視線を外さない。

 スプロケットも。

 同じ。

 誰も。

 見失ってはいない。

 陽名の輪郭が。

 少しずつ。

 薄くなる。

 空気が止まったわけではない。

 時間も。

 止まらない。

 音も。

 聞こえている。

 ただ。

 陽名という少女の身体だけが。

 少しずつ。

 そこから離れていく。

「陽名」

 アビゲイルが。

 名前を呼ぶ。

「うん」

 返事。

 まだ。

 聞こえる。

「陽名」

 今度は。

 リョウ。

「うん」

「陽名」

 ジャン。

「はい」

 陽名が。

 少し笑う。

「それ、わたしの返事じゃない」

「……すみません」

「ジャンらしい」

 最後。

 スプロケット。

「陽名」

 陽名が。

 スプロケットを見る。

「うん」

 それが。

 最後の返事だった。

 輪郭が。

 消える。

 誰の目にも映らなくなったのではない。

 最後まで。

 全員が見ていた。

 見ていたまま。

 陽名は。

 そこからいなくなった。

 五枚のドッグタグ。

 支える手を失い。

 地面へ落ちる。

 カチン。

 小さな。

 金属音。

 アビゲイルが。

 しゃがむ。

 一枚。

 また一枚。

 拾う。

 五枚。

 掌の中。

 確かにある。

 アビゲイルは縁が重なるのを指で押さえた。

 立ち上がるまでに少し時間がかかった。

 リョウが。

 何も言わない。

 ジャンも。

 端末を開かない。

 記録しようとしない。

 スプロケットも。

 接続しない。

 ただ。

 そこにいる。

 風が。

 もう一度。

 通り抜ける。

「……陽名」

 アビゲイルが。

 呼ぶ。

 返事はない。

 それでも。

 名前は消えなかった。

⸻

 大型リボルバーが残った。

 傷だらけのスキットルが残った。

 クロス型ペンダントが残った。

 割れた獣骨の首飾りが残った。

 閉じられたM-07が残った。

 紙の手帳に書かれた名前が残った。

 古いコインが残った。

 五枚のドッグタグが残った。

 そして。

 人の中に。

 陽名という名前が残った。

 記録がなくても。

 分類できなくても。

 観測が終わっても。

 そこにいたことまで。

 消えるわけではない。

 最後に。

 風が吹く。

 もう。

 誰かの姿はない。

 それでも。

 君は知っている。

 そこにいたのは。

 名もない気配ではない。

 陽名。

 一人の少女だった。

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