外界、旧東京圏。
廃工場の管理棟。
夕方の弱い光が、割れた窓から差し込んでいる。
数時間前の争いで倒れた棚は、そのままになっていた。
床には乾き始めた血と、踏み荒らされた埃が残っている。
リク・ロクジョウは古い椅子へ座っていた。
左義手の青白いラインは弱い。
左義眼も、必要最低限の光しか出していない。
机代わりのコンテナには大型リボルバーの部品が並んでいた。
シリンダーとトリガー機構を古びたフレームの脇へ寄せてある。
その横に油を含ませたクロスを置いていた。
リクは生身の右手で、一つずつ汚れを落としていく。
(考えるな。ただ、手を動かせ)
何度も使ってきた方法だった。
考えたくない時。
昔を思い出したくない時。
手を動かしていれば、余計なことを考えずに済む。
コンテナの上でフレームを支え、最後の部品を戻す。
右手で握り直してシリンダーを閉じた。
乾いた金属音がした。
弾は入れない。
リクは大型リボルバーを腰のホルスターへ戻した。
コンテナの上には傷の増えたスキットルが残っている。
表面の刻印。
C.C.
指先が、その二文字をなぞった。
傷は増えた。
刻印は消えていない。
リクは蓋を開ける。
一口。
喉が熱くなる。
蓋を閉じた。
視線を上げる。
向かいのコンテナ。
そこに、漆黒の球体が置かれていた。
〈ラズの招待状〉。
管理棟へ運んでから何度も見た。
触れたのは一度だけ。
すぐに手を離した。
理由は分かっている。
あの球体の中には、ただの電力では説明できない量のエネルギーがある。
左義眼が最初に測定を試みた時、推定値は途中で打ち切られた。
《ゼロポイント》も反応した。
吸収できる。
そのことだけは分かった。
問題は、その先だった。
(あいつは、俺が何をするか分かってて置いていった)
ラズの顔が浮かぶ。
腹の立つ笑顔。
リクは舌打ちした。
スキットルをコンテナへ戻した。
リクは椅子の前へ身体を寄せ、向かいの球体へ右手を伸ばす。
指の腹が冷たい外殻に触れた。
次の瞬間。
「……っ」
左義手が震えた。
青白いラインが、一瞬だけ強く光る。
《ゼロポイント》が反応している。
球体内部のエネルギーへ。
だが、それだけではなかった。
義手のさらに奥。
長い間、そこにあり続けたもの。
記律の石。
その一部が、別の反応を返した。
痛みではない。
熱でもない。
音でもない。
ただ。
どこかで、何かが触れた。
そう感じた。
リクの呼吸が止まる。
視界が暗くなった。
⸻
2059年。
旧パース・シティ。
警報音。
崩れた壁。
人工空の一部が消え、天井の構造材が露出している。
『リク、前方!』
ジェフリーの声。
若かった。
今よりずっと荒い。
リクは身体を低くする。
直後。
巨大な影が突っ込んできた。
マストドン。
灰白色へ変化した巨体。
鉄骨を両手で持ち、正面から振り下ろす。
リクは左義手を上げて鉄骨を受けた。

足元の床が沈む。
《ゼロポイント》が衝撃を吸収し、振り下ろされた鉄骨の勢いを止めた。
義手の青白いラインが強く走った。
リクは鉄骨を横へ流した。
両手で握るマストドンの身体が引かれ、片足へ重心が偏る。
リクはその足を払った。
マストドンが横倒しになる。
床が揺れた。
リクはそのまま背後へ回り込み、首筋へ一撃を入れる。
巨体の力が抜けた。
『生命反応あり』
ホフマンの声。
『意識喪失を確認』
『一人目』
ジェフリー。
『次が来るぞ』
黒い煙が通路の奥から広がった。
視界が消える。
スモークブリンガー。
『リク、無理に入らないで』
ケイトの声が通信へ入る。
『煙の中心は右前方。動いてる』
リクは目を閉じた。
左義眼の熱源表示だけを残す。
一つ。
移動している。
低い位置。
近い。
リクは煙の中へ踏み込む。
黒い影が動いた。
リクは動いた影の腕を取り、踏み込んだ足を相手の脚へ掛けた。
引き倒すと煙の放出が途切れた。
リクは相手の身体を押さえ込む。
『二人目、確保』
ジェフリーの声。
その時だった。
何かが聞こえた。
小さい。
遠い。
子供の声に似ていた。
だが。
言葉にはならない。
リクが顔を上げる。
『どうしたの?』
ケイト。
「……いや」
周囲を見る。
誰もいない。
熱源表示にも異常はない。
「何でもない」
リクは立ち上がった。
次の瞬間。
空気が震える。
ハウラー。
咆哮。
衝撃波が通路を走る。
壁面のパネルが割れる。
リクは左腕を前へ出した。
全ては吸収できない。
身体が押される。
足を踏み込む。
一歩。
もう一歩。
音圧の中を進む。
ハウラーが息を吸い直す。
その瞬間。
リクが間合いへ入った。
リクの掌底がハウラーの顎を捉えた。
口が閉じ、次の咆哮が途切れる。
二発目は入れない。
ハウラーが膝をついた。
そのまま倒れる。
『呼吸確認』
ホフマン。
『意識低下。生命反応安定』
『三人目』
ジェフリーが息を吐く。
『あと一人だ』
声が聞こえた。
『贖え……』
低い声。
『贖え……』
チャント。
細い男が、通路の奥に立っている。
指が不規則に動いていた。
『贖え……贖え……』
声が頭の内側へ入り込む。
リクの足が止まった。
呼吸が乱れる。
過去の光景が浮かぶ。
レツ。
リベカ。
黒須。
守れなかった人間。
『贖え』
リクは歯を食いしばった。
《ゼロポイント》では消せない。
これは熱でも、衝撃でも、電力でもない。
声。
言葉。
それなら。
リクは腰から大型リボルバーを抜いた。
銃口はチャントから外して床へ向けた。
一発。
轟音が通路へ響く。
チャントの声が途切れた。
その一瞬で十分だった。
リクは走る。
距離を詰める。
リクはリボルバーをホルスターへ戻しながら相手の腕を払った。
喉は締めずに顎へ手を当て、押し上げる。
身体を回して床へ倒し、相手の腕を固定した。
「喋るな」
チャントの口が動く。
リクは口元を押さえた。
数秒。
抵抗が弱くなる。
『四人目、制圧確認』
ジェフリー。
『全員、生きてる』
ケイトの声が入る。
『リク、ありがとう』
「仕事だ」
『そういうところ、昔から変わらないわね』
リクは答えなかった。
また。
あの感覚がした。
誰かがいる。
見ている。
近くではない。
遠くでもない。
場所が分からない。
今度は声もない。
ただ、一瞬だけ。
知らない誰かの感情が、自分の中を通り抜けたような感覚。
寂しさ。
それとも。
何かを探しているだけなのか。
「……誰だ」
『リク?』
ケイト。
「何でもない」
その直後。
都市全体が揺れた。
警報が変わる。
『構造損傷拡大!』
ホフマンの声。
『中枢区画の維持が落ちてる!』
『全員退避!』
ジェフリーが叫ぶ。
天井材が落下した。
リクは四人の制圧位置を確認する。
「回収班を急がせろ」
『もう向かわせてる! お前も戻れ!』
爆発音。
通路の奥が崩れた。
「ケイト」
返事がない。
「ケイト?」
通信にノイズ。
『……リク……』
遠い。
リクは走った。
崩れた区画を越える。
壁を蹴る。
鉄骨を義手で押し退ける。
「位置を出せ!」
『送る!』
ジェフリー。
左義眼へ座標が出る。
リクは曲がる。
管理区画。
崩れた梁。
その下。
白衣が見えた。
「ケイト!」
リクは駆け寄る。
血が広がっていた。
ケイトはまだ意識を失っていない。
青い瞳がリクを見る。
「動くな」
リクは梁へ手を掛ける。
「リク、待って」
「黙ってろ」
「それを動かしたら、上が落ちる」
「分かってる」
義眼が周囲を解析する。
支点。
荷重。
崩落位置。
悪い。
全部。
「リク」
ケイトがもう一度呼ぶ。
リクの手が止まった。
ケイトは白衣の内側へ手を入れる。
小さなスキットル。
まだ傷の少ない金属。
表面に刻まれた二文字。
C.C.
「何だ、それ」
「あなたに」
「後でいい」
「今じゃないと駄目」
「やめろ」
ケイトが手を伸ばす。
リクは受け取らない。
「リク」
静かな声だった。
「約束だけは、忘れないで」
リクの表情が固まる。
「……」
ケイトはスキットルを押しつけた。
リクの右手が受け止める。
金属は温かかった。
血が刻印へついた。

「ケイト」
返事はすぐには来なかった。
「大丈夫」
「何がだ」
「あなたなら」
「やめろ」
スキットルを右手で握ったままリクは左義手を梁へ掛け直した。
「リク」
「黙れ!」
その瞬間。
また。
何かが触れた。
声ではない。
姿もない。
ただ。
そこに誰かがいるような感覚。
悲しいのか。
怖いのか。
それすら分からない。
リクは振り返った。
誰もいない。
崩れた通路。
警報灯。
煙。
それだけだった。
次の崩落音が響いた。
記憶はそこで途切れた。
⸻
2080年。
廃工場。
リクの目が開いた。
呼吸が荒い。
右手はまだ漆黒の球体へ触れている。
左義手が震えている。
弱かった青白いラインが、さっきより明るい。
「……あれか」
リクが呟いた。
昔から時々あった。
声。
気配。
夢。
誰もいない場所で、誰かが近くにいるような感覚。
ケイトを失った後も、何度かあった。
いつから聞こえなくなったのかは覚えていない。
気にする余裕もなくなっていた。
だが。
今の感覚は同じだった。
リクは球体を見る。
これは記憶を見せたわけではない。
触れた瞬間、《ゼロポイント》が内部のエネルギーへ反応した。
同時に。
義手内部の記律の石が共鳴した。
その刺激で、忘れていた記憶が引きずり出された。
それだけ。
少なくとも、リクにはそう思えた。
机の上。
C.C.のスキットル。
腰には、弾の入っていない大型リボルバー。
目の前には、ラズが残した黒い球体。
リクは長く黙った。
(約束)
何年も避けてきた言葉だった。
何を守れた。
何を守れなかった。
考えれば、答えは決まっている。
守れなかったものの方が多い。
それでも。
右手を離さなかった。
《ゼロポイント》を起動する。
最初は小さく。
外殻に指を置いたまま球体内部のエネルギーへ自分から接続する。
「……好きに使われる気はねぇぞ」
誰に言ったのか。
ラズか。
ケイトか。
それとも。
昔から時々、自分の近くにいた何かなのか。
返事はない。
必要もなかった。
エネルギーが流れ込む。
義眼の光が強くなる。
義手の青白いラインが、肩口まで走った。
止まっていた感覚が戻ってくる。
指。
腕。
背中。
心臓。
身体の奥で熱が広がる。
リクは歯を食いしばり、両足を床へ押しつけた。
まだ何も終わっていない。
何かが始まったわけでもない。
ただ。
今度は自分から選んだ。
リクは、球体から手を離さなかった。



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