TASK_01|未使用保守経路
学校方面へ続く大型隔壁は、二枚の扉が中央で噛み合ったまま停止していた。
表面には何度も開閉を試した跡が残っている。
明が工具を差し込んだ傷と、金属棒で叩いた小さな窪みもあった。
「ここです」
明は左側の駆動部を指した。
「一人では動かせませんでした」
スプロケットは壁面端末へ接続具を差し込んだ。
画面は点灯しない。
内部電源も失われている。
それでも、制御線の一部には微弱な信号が残っていた。
【MAINTENANCE GATE:OFFLINE】
【EMERGENCY LOCK:ACTIVE】
「ロックだけ動いてる」
「開けられる?」
アイリーが隔壁の隙間へ指を入れようとした。
「待って。今動かすと、反対側の固定具まで締まる」
「じゃあ、先に壊せばいい?」
「何を?」
「邪魔してるところ」
アイリーが隔壁全体を見た。
「それが分からないから調べてる」
「分かったら壊していいんだね」
「壊すかは、そのあと決める」
明が二人の会話を翻訳越しに聞き、隔壁の下部へ移動した。
床との境目へ、薄い樹脂片を差し込む。
「ここが固まっています」
「どうして分かるの?」
アイリーが尋ねた。
「前に動かした時、左下だけ音が違いました」
明は隔壁を軽く叩いた。
低い音が返る。
少し上を叩く。
今度は空洞のある響きだった。
「ここを外せば、少し動くと思います」
「爆発させる?」
「小さくなら」
スプロケットは端末の奥に残る制御経路を探った。
学校設備。
防災区画。
地下保守線。
停止しているはずの記録が、触れた順に声を返してくる。
≪児童および生徒は、教職員の指示に従ってください≫
≪保護者引き渡し手順を開始します≫
≪校外避難は中止されました≫
十二日前の放送だった。
同じ命令が、電力を失った端末の内部で繰り返されている。
別の音が混ざった。
紙へ線を引く音。
短く息を吐く男の声。
『隔壁の先は学校区画。南側経路は閉鎖。北西の旧線へ迂回する』
「クロニアス」
スプロケットが呟いた。
「いるの?」
アイリーが端末へ顔を近づける。
「ここにいた。今じゃない」
記録の時刻は二日前だった。
明がこの隔壁を調べた日と近い。
「同じ時に来ていたのかもしれません」
明は隔壁の向こうを見た。
「僕は会っていません」
「クロニアスなら、別の入口を探したと思う」
スプロケットは残っている制御線を一つずつ切り離した。
緊急固定具。
自動再施錠。
閉鎖後の圧力保持。
完全な解除はできない。
扉が開いている間だけ、ロックを誤認させることはできる。
「明、左下をお願い」
「分かりました」
「アイリーは中央。まだ押さないで」
「いつでもいけるよ」
「だから待って」
明が樹脂片へ指を当てた。
内部へ蓄積された力が、細い白光となって広がる。
「今です」
樹脂片が破裂した。
大きな爆発ではない。
固着した金属と床の境目だけが砕け、隔壁の左下がわずかに浮いた。
同時にスプロケットが、緊急ロックへ偽の閉鎖信号を送る。
【GATE STATUS:CLOSED】
実際には扉はまだ閉じている。
制御側だけが、正常に固定されていると認識した。
「アイリー!」
「任せて!」
アイリーが中央の隙間へ両手をかけた。
腕から肩へ金色の光が走る。
隔壁が低く軋んだ。
最初は動かない。
アイリーは足を踏み替え、身体全体で左右へ押し広げた。
「重い!」
「下がまだ引っかかっています」
明がもう一枚の樹脂片を差し込んだ。
「アイリー、少し戻してください」
「戻したら閉まるよ!」
「戻さないと外れません」
「信じていい?」
「やってみなきゃ分からないんでしょ」
明に自分の言葉を返され、アイリーは不満そうに隔壁を少し戻した。
明が二枚目を破裂させる。
下部から錆びた固定片が外れた。
「もう一回です!」
アイリーが押す。
今度は隔壁が動いた。
中央に人一人が通れるほどの隙間が開く。

「持ちますか?」
明が尋ねた。
「端末が気づくまで」
「どれくらいですか?」
「たぶん三十秒」
「短いです!」
「アイリー、先に行って」
アイリーが隙間を抜ける。
明が続いた。
スプロケットが接続具を外した瞬間、端末の表示が切り替わった。
【GATE STATUS:ERROR】
【EMERGENCY LOCK:RESTARTING】
「気づかれた」
スプロケットも隔壁の向こうへ身体を滑り込ませた。
扉が動き始める。
アイリーが反対側から中央を支えた。
「早く!」
スプロケットのバックパックが隙間へ引っかかった。
明が肩紐を掴み、前へ引く。
三人が通過した直後、隔壁は再び閉じた。
固定具が噛み合う。
今度は明一人が試した時より深く閉じていた。
「帰りは?」
アイリーが尋ねた。
スプロケットは停止した端末を見た。
「同じ方法は使えない」
「先に言ってよ」
「通る前に言ったら、来なかった?」
「来たけど、覚悟はした」
「じゃあ同じ」
「違うよ!」
明が閉じた隔壁へ細い白線を一本引いた。
能力を蓄積させた印だった。
「戻る時は別の場所を壊します」
「もう帰り方を考えてるんだ」
「考えないと戻れませんから」
明は学校区画へ続く暗い通路を見た。
「ここから先は、前には来られませんでした」
天井の案内表示には、学校名と避難所番号が残っている。
その下に、黒いペンで矢印が書かれていた。
矢印の横には、短い言葉がある。
北西旧線へ迂回。 時刻表示は使用しない。
クロニアスの文字だった。
スプロケットは矢印へ触れず、端末へ記録した。
彼はこの先へ進んでいる。
そして、まだ戻っていない。
TASK_02|帰宅準備
学校の照明は廊下の半分だけ点灯していた。
教室の扉は開いている。
机と椅子は整然と並び、廊下の掲示物も剝がされずに残っていた。
避難所として使われた形跡がある。
毛布。
空になった給水容器。
配布されなかった非常食。
壁には保護者への引き渡し状況を書き込む画面がある。
【引き渡し処理:中断】
校内放送から帰宅時刻を知らせる音楽が流れた。
明の足が止まる。
「この時間ではありません」
「何が?」
「帰る時の音です」
廊下の時計は午後四時十二分を示している。
スプロケットの端末では、現在時刻は午前を示していた。
時計の秒針だけが動いている。
教室の中から、机を開閉する音が聞こえた。
一度。
教科書を重ねる音。
椅子を引く音。
鞄の留め具を閉じる音。
足音が廊下へ近づく。
制服姿の少女が教室から出てきた。
片手に鞄を持っている。
廊下を五歩進み、立ち止まった。
鞄を見下ろす。
教室へ戻る。
同じ机に座り、すでに鞄へ入れたはずの教材を、もう一度入れる動作を始めた。
明は動かなかった。
「凛」
少女の手が止まった。
ゆっくり顔が上がる。
廊下に立つ明を見た。
少なくとも、視線は明へ向いていた。
「凛。僕だよ」
少女は瞬きをした。
「明」
アイリーが小さく呼んだ。
明は教室へ入った。
机の間を進み、少女の前で止まる。
「帰ろう」
少女は答えない。
「ここにいなくていい。外へ行けるかもしれない」
明が手を差し出した。
少女はその手を見た。
短い間があった。
指先が明へ伸びる。
明の表情が変わった。
少女の手は明の手を取らなかった。
机の上にある教材へ伸びる。

同じ本を鞄へ入れる。
留め具を閉じる。
椅子を引く。
教室を出る。
明の横を通り過ぎ、廊下を五歩進んだ。
「凛」
少女が止まる。
振り返らない。
「僕と来て」
明は背後から少女の手首を掴んだ。
少女の身体が硬直した。
鞄が床へ落ちる。
顔が廊下の先と教室の間を何度も往復した。
「帰る……」
初めて声が出た。
「帰ろう。だから一緒に」
「帰る」
少女は教室へ戻ろうとした。
明が手を離さない。
「帰る。帰る。帰る」
声が速くなる。
少女は明の腕を振り払おうとした。
力は強くない。
それでも、戻れないことへの恐怖だけが身体全体へ広がっていた。
「明、離して」
スプロケットが言った。
「名前を呼んだら、僕を見ました」
「見た。でも、今は戻ろうとしてる」
「僕のことが分かっているかもしれません」
「分かってても、動作を止められない」
「外へ出れば変わるかもしれません」
「無理に出したら、もっと崩れるかもしれない」
「では、ここへ置いていくんですか?」
明がスプロケットを見た。
少女の手が震えている。
呼吸も乱れている。
「連れていけるとは言えない」
「また、それですか?」
「ぼくには戻し方が分からない」
「私が運ぶ」
アイリーが教室へ入った。
「暴れても、傷つけないように持てる」
「身体だけ運んでも、凛がついて来るとは限らない」
「ここに置くよりいいでしょ」
「アイリー」
明が少女の手首を放した。
少女はすぐに教室へ戻った。
鞄を拾う。
同じ机へ座る。
教材を入れる。
留め具を閉じる。
椅子を引く。
先ほどまでの混乱がなかったように、動作が最初から始まった。
明は少女の手首を掴んでいた自分の手を見た。
「僕が触らなければ、苦しくならなかったんですね」
誰もすぐには答えなかった。
「連れていけば、ずっとあの状態になるんでしょうか?」
「分からない」
スプロケットは正直に答えた。
「でも、少なくとも今は、この場所と動作がつながってる」
「それを壊したら?」
「凛がどこまで残るか分からない」
明は机の前へ戻った。
少女の名札を見る。
高橋凛。
明が探していた名前だった。
凛は教材を鞄へ入れ、留め具を閉じる。
椅子を引き、教室を出る。
廊下を五歩進み、立ち止まる。
また教室へ戻ってくる。
同じ経路。同じ動作。
少なくとも今は、その反復によって状態を保っている。
「この教室の周りだけでも、安全にできますか?」
明がスプロケットへ尋ねた。
「何から?」
「外にいる人たちが入ってこないようにしたいです」
「完全には無理」
「どこまでならできますか?」
スプロケットは廊下の防災端末へ接続した。
学校区画の電力は一部しか残っていない。
教室の扉。
廊下の防火隔壁。
換気設備。
非常照明。
侵入検知用のセンサー。
どれも完全には動いていなかった。
「外側の隔壁は閉められる」
スプロケットが廊下の先を示した。
「でも、この教室の扉は閉めない方がいい」
「凛が戻れなくなるからですか?」
「今の反復経路に扉の開閉は入ってない。閉めたら、また混乱するかもしれない」
明は教室から廊下までの距離を確認した。
凛が歩く五歩分の範囲。
その先には別の教室と階段へ続く通路がある。
「では、あの先を塞ぎます」
「私が動かす?」
アイリーが廊下に倒れている棚を指した。
「全部は塞がないでください。僕たちが戻る時に通れなくなります」
「分かってるよ」
「さっき、隔壁を全部押し開けようとしていました」
「あれとは違うでしょ!」
アイリーは棚の側面へ手をかけた。
金色の光は使わない。
音を立てないように少しずつ動かし、階段側の通路を狭めていく。
完全には塞がない。
一人が通れる幅だけを残した。
明はバッグから薄い樹脂片を取り出した。
指先で触れると、内部へ多色の光が染み込む。
一枚を棚の下。
一枚を階段の手前。
もう一枚を防火隔壁の脇へ貼りつける。
「これは?」
アイリーが尋ねた。
「誰かが通れば音が出ます」
「凛が踏んだら?」
「凛の歩く場所には置いていません」
明は何度も位置を確認した。
教室。
廊下。
五歩先。
凛が反転する場所。
どの樹脂片も、その経路から外れている。
スプロケットが防災端末を操作した。
【SCHOOL SECTOR:PARTIAL ISOLATION】
【OUTER FIRE DOOR:LOCKED】
【EMERGENCY LIGHTING:MAINTAINED】
【VENTILATION:LIMITED】
【INNER CLASSROOM ROUTE:OPEN】
廊下の奥で防火隔壁がゆっくりと下りた。
金属が床へ接触する。
完全な封鎖ではない。
別の保守通路から入ることはできる。
ブーステッドなら隔壁を破壊する可能性もある。
「どれくらい持ちますか?」
「分からない」
「また、それですか?」
「電力が止まるか、誰かに壊されるまで」
「十分とは言えませんね」
「十分にする方法はない」
明は閉じた隔壁を見た。
「そうですね」
凛が再び教室から出てきた。
廊下を五歩進む。
外側の隔壁には反応しない。
これまでと同じ場所で止まり、教室へ戻った。
明はその動きを最後まで確認した。
「今の反復は変わってない」
スプロケットが言った。
「はい」
「これで助けたことにはならない」
「分かっています」
明は鞄から小さな紙片を取り出した。
自分の名前。
公共学習室の場所。
短い文章。
明です。 公共学習室にいます。 また来ます。
紙片を凛が教材を入れている机の端へ置いた。
凛は紙を見なかった。
その上へ教科書を一冊重ねた。
明は紙を取り出さなかった。
「今はこれしかできません」
明は教室を出た。
少女とすれ違う。
今度は名前を呼ばなかった。
「絶対、戻ってくる」
アイリーが言った。
明は足を止めた。
「絶対とは言わないでください」
アイリーの表情が止まった。
「戻れなかった時、凛が悪いように聞こえます」
「そんな意味じゃない」
「分かっています」
明は振り返らなかった。
「だから、僕が戻ると言います」
校内放送から、帰宅時刻の音楽がもう一度流れ始めた。
TASK_03|外部旅行者
クロニアスの矢印は学校の北側にある連絡棟へ続いていた。
渡り廊下の先には外部訪問者用の宿泊施設がある。
都市間交流。
教育視察。
文化研修。
短期滞在者を受け入れるために作られた小規模な施設だった。
入口のガラス扉は割れている。
内部には、家具を移動させた跡があった。
食堂の机が廊下へ並べられ、正面から人が入れないように塞がれている。
「誰かいる」
スプロケットは立ち止まった。
生体反応は一つ。
明やアイリーと同じ、人間の反応に見える。
その周囲には機械へつながらない小さな信号が重なっていた。
「生きてる人?」
アイリーが尋ねた。
「身体は」
「また、その言い方」
明が床を見た。
埃の上に、新しい足跡がある。
入口と食料保管室。
給水設備。
裏口。
無駄のない経路だけが繰り返し使われている。
「一人で暮らしているようです」
明が言った。
「最近まで動いています」
食堂の奥で何かが擦れる音がした。
アイリーが前へ出る。
「誰かいるなら出てきて!」
「大きい声を出さないで」
スプロケットが止めた。
「外にいる人まで来る」
返事はない。
代わりに廊下の端にある扉がゆっくり開いた。
一人の男性が姿を現した。
二十代後半か、三十歳に届く程度に見える。
中性的な顔立ち。
暗いアッシュグレーの髪は、光を受けた内側だけが銀色に見えた。
暗い青灰色のフード付きコート。
黒灰色のカーゴパンツ。
両手を覆う手袋。
高い襟の下から、頭部へ巻かれた古い包帯が見えている。
右のこめかみ付近には、包帯の隙間から乾いた血の跡が残っていた。
背後には使い込まれたバックパックが置かれている。
男性は三人を見る前に、廊下の左右を確認した。
次に明。
アイリー。
最後にスプロケットへ視線を向ける。
右手を見える位置へ上げた。
すぐには話さない。
三人の表情を順番に確かめる。
わずかに遅れて、声を出した。
「敵意は……ない」

短く静かな声だった。
言葉の途中に、意味のない隙間がある。
「武器は?」
アイリーが尋ねた。
「所持して……いない」
「能力は?」
「確認……されていない」
「自分のことでしょ」
「それも……そうだ」
男性は一度、頭部の包帯へ触れた。
「だが……確認した者は、いない」
アイリーが眉を寄せた。
男性はわずかに首を傾ける。
質問を理解できないのではない。
自分自身について、どの位置から答えるべきか迷っているように見えた。
「名前は?」
スプロケットが尋ねた。
男性の視線が、もう一度スプロケットへ戻る。
その瞬間だった。
身体は動いていない。表情も変わらない。
それでも内側で、複数の反応が同時にこちらを向いた。
遠くから音を探る反応。危険を判断する反応。
その場を固定しようとする反応。
傷ついた部分へ近づこうとする反応。
すべてが同じ身体にある。
その奥に、さらに別の信号があった。
四つの反応より古い。
新しい判断はしていない。
ただ、スプロケットへ触れた瞬間だけ、同じ反応を繰り返した。
拒絶しない。
観察する。
近づく。
名前を呼ぶ。
スプロケットの胸の奥で、心拍が一度乱れた。
「ヴァレンと……呼ばれている」
男性が答えた。
「呼ばれてる?」
アイリーが聞き返す。
「名前ではないの?」
「名前として……使っている」
ヴァレンの口元が少し動いた。
笑顔になるまで一秒ほど遅れた。
「そう、説明すればよかった」
「頭の傷は?」
スプロケットが襟元を見る。
「事故で……負った」
「いつ?」
「この街が、変わった日」
「十二日前からここにいるの?」
「この施設だけでは……ない」
ヴァレンは食堂の奥を見た。
「負傷した者は、安全な場所を移動していた」
三人の視線が集まる。
ヴァレンが少し遅れて言葉を続けた。
「……私のことだ」
「どうして他人の話みたいに言うの?」
アイリーが尋ねた。
ヴァレンは頭部の包帯へ再び触れた。
「事故のあとから、記憶が……順番に並ばない」
「覚えてないってこと?」
「覚えている……場面は、ある」
ヴァレンは指を下ろした。
「ただ、その場にいたのが……私だったという感覚が、薄い」
「自分を外から見ているような感じですか?」
明が尋ねた。
「近い」
返答までに短い間が入った。
「記憶の中の人物が、私だと……あとから判断している」
明はそれ以上尋ねなかった。
「外から来たんですか?」
「北から……来た」
「トーキョー・シティの人ではないんですね?」
「違う」
「何をしに来たんですか?」
ヴァレンはすぐには答えなかった。
視線だけが食堂の壁に飾られた都市間交流の写真へ向く。
「各地のドーム都市と、外界を……移動していた」
「旅行?」
「そう……扱われていた」
「何を探してたの?」
「古い宗教遺物と……失踪者の記録」
「変わった旅行だね」
アイリーが言った。
「観光ではない」
「旅行って観光じゃないの?」
「移動する者が、すべて観光客とは……限らない」
返答だけが急に硬くなった。
右手袋の下で、細い赤紫色の光が走る。
一瞬で消えた。
スプロケットが見つめると、ヴァレンは右手をコートの脇へ下ろした。
「今、光った」
アイリーも気づいていた。
「端末の反射……だと思う」
「端末、持ってないよね」
ヴァレンは答えなかった。
自分の右手を初めて見たもののように見下ろしている。
「今の光を知らないの?」
「この身体に起きたことだ」
ヴァレンは静かに答えた。
「だが……私が起こしたという記憶はない」
「また他人事」
「そう、聞こえると思う」
床へスプロケットの接続具が落ちた。
スプロケットは自分が手を緩めていたことに気づく。
接続具を拾おうとする。
同時にヴァレンも一歩近づいた。
すぐに止まる。
「拾って……いいか」
手を伸ばす前に尋ねた。
「自分で拾える」
「分かった」
ヴァレンは元の位置へ戻った。
その動きに、スプロケットは別の人物を重ねそうになった。
誰なのか分からない。
記憶にはない。
それでも、相手が恐れているか確かめてから距離を取る姿勢だけを、どこかで知っていた。
「ぼくたちを知ってる?」
スプロケットが尋ねた。
「知らない」
「本当に?」
「会った記憶は……ない」
ヴァレンはスプロケットの左頬を見る。
赤い紋章ではない。
その奥を見ているような視線だった。
「ただ……」
「何?」
「あなたの声を、以前に……聞いた気がする」
食堂の空気が止まった。
「どこで?」
「分からない」
「ぼくは旧日本の北方都市圏へ行ったことはない」
「場所の記憶では……ないのかもしれない」
「じゃあ何?」
「それも……分からない」
アイリーがスプロケットとヴァレンの間へ入った。
「分からないことが多すぎる」
「そうだと思う」
「自分のことなのに?」
ヴァレンは短く沈黙した。
「自分のことは、近すぎる」
「何それ?」
「少し離れた場所から見た方が、形が分かることもある」
「それ、もっと分からない」
「説明が……適切ではなかった」
アイリーの瞳に金色がわずかに混ざる。
戦うためではない。
目の前の感情を受け取ろうとしている。
ヴァレンのコートの裾が揺れた。
施設内に風はない。
空調も停止している。
スプロケットは端末へ手を伸ばした。
電子機器へ接続している時とは違う。
相手の内部へ踏み込むつもりはなかった。
表面へ漏れている信号だけを確かめる。
一つの身体。
一つの声。
複数の感情。
そのどれもが嘘ではない。
同時に、同じ方向も見ていなかった。
「この人、怖がってる」
アイリーが言った。
「でも、私たちを追い返したい感じもある。近づきたい感じもあるし、ここから動きたくない感じもある」
「頭部外傷の影響だと……説明できる」
ヴァレンが静かに答えた。
「自分でそう思ってる?」
「負傷した人間には、そういう混乱が起きる」
「本当かどうかを聞いてるの」
ヴァレンの左足が、床へ深く固定されたように止まった。
姿勢が変わる。
先ほどまでの細い旅人ではなく、動かない柱に近い重心だった。
「確認できないものを、断定するべきではない」
声の速度も変わっている。
「また変わった」
アイリーが一歩下がった。
「何が?」
「話し方」
ヴァレンの視線がアイリーへ向く。
次の瞬間、左袖の表面に薄い水膜のような光が現れた。
濡れてはいない。
光だけが袖口を流れ、消える。
「警戒させた」
今度の声は柔らかかった。
「申し訳……ない」
アイリーは返事をしなかった。
スプロケットには、ヴァレンの中で何かが入れ替わったように感じられた。
人格が変わった。
そこまで断定するには、自分の感覚が不安定すぎる。
陽名との接触後、機械の記録と人間の声を分けられなくなった。
自分ではない記憶を、自分の経験だと思いそうになることもある。
(また、ぼくが間違えてるのかもしれない)
それでも、ヴァレンの奥にある古い信号だけは、間違いなくスプロケットへ反応していた。
TASK_04|同じ声
明は食堂に残された物資を確認した。
水。
乾燥食。
外部旅行者用の携帯充電器。
簡易医療用品。
十二日間、一人で生き延びるには少なくない量が残っている。
「ずっとここにいたなら、食べ物が多すぎます」
明が言った。
「別の施設から……移した」
ヴァレンは古いバックパックを開いた。
中には紙の地図、水筒、防塵マスク、壊れた携帯端末が入っている。
「どこからですか?」
「訪問者用の……緊急区画」
「そこまで行けたんですか?」
「変異した市民が、移動する時間を……避けた」
「時間が分かるんですか?」
「観察した」
明は自分の地図を机へ広げた。
「この道は?」
「使わない方が……いい」
ヴァレンは北側の通路を指した。

「どうしてですか?」
「音が……止まる」
「音?」
「通路へ入ると、周囲の反応が消える」
ヴァレンの指が地図の上で止まった。
「入った者が……戻るところを、見ていない」
「入った人がいるんですか?」
「いた」
「助けなかったんですか?」
ヴァレンは答える前に、明の表情を確認した。
怒っている。
責めている。
その二つを認識してから声量を下げる。
「助けられる距離では……なかった」
「戦えないんですか?」
「戦闘経験は……あるらしい」
「らしい?」
「知識はある」
ヴァレンは自分の両手を見る。
「身体も動き方を知っている、ようだ」
「それなら経験があるんじゃないですか?」
「私が戦ったという感覚が……残っていない」
「同じではないと思います」
「そうだと思う」
ヴァレンは否定しなかった。
スプロケットは壊れた携帯端末を見た。
「旅行者登録を確認していい?」
ヴァレンの右手がわずかに動いた。
すぐに止まる。
「端末は……壊れている」
「中に残ってる情報だけ見る」
「外部へ送る……のか?」
「今は送れない」
「復旧した後……は?」
「勝手には送らない。安心して」
ヴァレンは端末をすぐには渡さなかった。
スプロケットへ視線を合わせる。
その奥で、四つの反応が短く重なった。
見る。拒む。固定する。隠す。
最後に古い統一信号が同じ動作を返した。
相手へ判断を委ねる。
ヴァレンは端末を机へ置いた。
「確認して……いい」
スプロケットは接続具を差し込んだ。
端末の記録領域は大部分が破損している。
旅行者用の表示だけが残っていた。
【VISITOR STATUS:TEMPORARY】
【TRAVEL GROUP:DATA LOST】
【ORIGIN:UNAVAILABLE】
【NAME:VAREN】
登録番号は途中から消えている。
生体認証欄も壊れていた。
不自然ではある。
事故で破損した端末なら、起こり得る範囲だった。
「出身地は?」
「北方都市圏」
「都市名は?」
ヴァレンの眉がわずかに動いた。
「複数を……経由した」
「最初に登録された都市」
「そこだけ……つながらない」
「思い出せない?」
「思い出そうとすると、知らない場所を……他人が歩いている」
「それは自分なんですか?」
明が尋ねた。
「この身体が歩いている」
ヴァレンは自分の胸元を見る。
「だから、私なのだと思う」
「同行者は?」
「分からない」
「一人で来た?」
「その記憶も……続いていない」
アイリーが腕を組んだ。
「都合の悪いところだけ壊れてる」
「そう見えると思う」
「否定しないの?」
「否定できる記録が……ない」
スプロケットは端末から接続を外した。
「クロニアスの声を聞いたことは?」
画像を表示する。
紙のノートを持った暗い巻き毛の青年。
ヴァレンは画像を見る前に、スプロケットの声へ反応した。
髪先が揺れる。
コートの裾も風のない食堂でわずかに持ち上がった。
「顔は……見ていない」
「声は?」
「同じ男の声を、何度も聞いた」
「どこで?」
「地下駅。外部訪問者区画。学校の放送設備」
「何を言ってた?」
「地図が一致しない。時刻ではなく、内容を基準にする。現在位置を記録する」
クロニアスの言葉だった。
「どっちへ行った?」
「中央物流区画の……方向」
明が地図を見る。
「学校の先ですね」
「ぼくが拾ってる信号も同じ方向」
スプロケットは複数に分かれた反応を表示した。
学校を越えたことで、現在に近い信号が一つ強くなっている。
北西旧線。
物流地下道。
中央物流区画。
ヴァレンが聞いた声と重なる。
「あなたも声を追ってたの?」
「最初は……違う」
「今は?」
「今は、確認したい」
「何を?」
「同じ声を、あなたも探している……理由」
「仲間だから」
ヴァレンの視線がクロニアスの画像からスプロケットへ戻る。
「仲間」
「そう」
「失った場合は?」
スプロケットは質問の意味をすぐには理解できなかった。
「失ったら、どうする?」
ヴァレンが言い直す。
「見つける」
「見つからなければ?」
「見つかるまで探す」
「存在しないと分かったら?」
「縁起でもないことを言わないでください」
明がヴァレンを睨んだ。
「確認しているだけだ」
「何をですか?」
ヴァレンは答えなかった。
なぜか先ほどと違ってヴァレンには迷いがなかったように見える言動。
どうやら彼が探しているものは、クロニアスではない。
それでも、誰かを探し続けるという行動だけは同じだった。
「ヴァレン」
スプロケットが名前を呼んだ。
知らない誰かが、遠い場所で同じ名前を呼んだような感覚が重なった。
ヴァレンの表情が変わるまで、また一秒かかった。
「……なんでしょうか?」
「ぼくを知ってるんじゃなくて、ぼくの中の何かを知ってる?」
ヴァレンは沈黙した。
質問を理解できないのではない。
内部で複数の答えがぶつかっているような感覚が襲う。
右手がわずかに握られる。
左脚は動かない。
左袖の光が薄く揺れる。
髪先だけが、前方を指すように動いた。
「分からない」
「本当に?」
「会ったことはない」
「それは聞いた」
「それでも、あなたを知らないとは言い切れない」
アイリーが二人の間を見る。
「やっぱり変だよ」
「ぼくもそう思う」
「だったら近づけない方がいい」
アイリーの返答は早かった。
明が反対側から言う。
「ここへ置いていくんですか?」
「危ないかもしれない」
「話せる人ですよ?」
明の言葉に鋭い視線のアイリーは止まらない。
「話せる危ない人かもしれない」
「そうかもしれないが、私は何もしない」
「何もしてないように見えるだけかもしれない」
「アイリー」
スプロケットが止めた。
「警戒するのは間違ってない」
「じゃあ」
「でも、ここで別れる必要もない」
「どうして?」
「一般市民だから?」
明が尋ねた。
スプロケットはヴァレンを見る。
「それだけじゃない」
ヴァレンの信号をここで切り離すべきではない。
危険だからではない。
何かを知っているからでもない。
自分へ反応した古い信号が何なのか確かめたい。
その考えが任務に必要なのか、個人的な興味なのかは分からなかった。
「クロニアスの声を聞いてる。進む方向も同じ」
「それだけ?」
アイリーは納得していない。
「ぼくの感覚が正しいか確かめたい」
「それ、危ない時の言い方だよ」
「分かってる」
「ソレイシアに止められたでしょ」
「深くつながらない」
「スプロケットの浅いは信用できない」
「今回は端末も使わない」
「もっと信用できない」
ヴァレンが二人の会話を聞いていた。
「私が離れた方がいいなら、離れる」
アイリーが振り返る。
「本当に?」
「追われるわけではない」
「一人で生きられる?」
「今までは、そうだった」
「これからも?」
「保証は、ない」
「その言い方、スプロケットと似てる」
「似てない」
スプロケットが言った。
「似てるよ」
アイリーはヴァレンへ近づいた。
相手の感情を確かめるように見上げる。
「私たちを利用するつもり?」
ヴァレンは視線を逸らさなかった。
「一緒に進めば、私にも……利益がある」
「何の?」
「探しているものへ、近づける」
「それが何か言わないのに?」
「正確には……説明できない」
「また分からない?」
「そうなる。実に、残念だ」
アイリーは大きく息を吐いた。
「うーん、なんか信用できない」
「今すぐ信用する必要は……ない」
「一緒に来るのに?」
「見て、判断すればいい」
ヴァレンの言葉へ、スプロケットの内側にある何かが反応した。
危険でも即座に排除しない。
理解するために接触する。
自分と同じ判断だった。
その類似が、本人のものなのか、奥に残った古い信号のものなのかは分からない。
TASK_05|同行者
ヴァレンは食堂に残っていた物資をすべて持ち出さなかった。
水を二本。
乾燥食。
紙の地図。
防塵マスク。
簡易医療用品。
必要な量だけを古いバックパックへ入れる。
「戻るつもりですか?」
明が尋ねた。
「戻れる場所は残した方が、いい」
「僕と同じですね」
「合理的だからだと、思う」
明はヴァレンを見る。
「自分の判断なのに分からないんですか?」
「判断は、している」
ヴァレンは残された物資へ視線を向けた。
「ただ、それを決めたのは私だけのものか、分からない」
明は少しだけ眉を寄せた。
警戒が解けたわけではない。
アイリーはさらに距離を取っている。
「名前はヴァレンでいいんだよね?」
「そう、呼ばれている」
「誰に?」
ヴァレンの手が止まった。
「覚えていない」
「また?」
「ヴァレンという名で呼ばれた記憶が、ある」
アイリーが黙る。
ヴァレンは一拍遅れて訂正した。
「私に、使われていた」
「自分の名前だと思ってる?」
「そう判断している」
「気に入ってる?」
ヴァレンは答えるまで少し時間を置いた。
「嫌ではない」
「そこは普通に答えるんだ」
「普通の答えだったか」
「たぶんね」
ヴァレンの笑顔がやはり一秒遅れて現れた。
スプロケットは非常信号器を確認した。
ヘヴンへの生命信号は維持されている。
同行者が増えたことは送れない。
座標も学校で凛を発見したことも伝えられない。
【LIFE PULSE:ACTIVE】
「同行条件を決める」
スプロケットが言った。
アイリー、明、ヴァレンの視線が集まる。
「クロニアスの信号が最優先」
「分かっています」
明が答える。
「私も異論は、ない」
ヴァレンの返答には途中で短い間が入った。
スプロケットは今後の行動について切り出す。
「明は道を案内する。ヴァレンは知ってる危険な経路を教える」
「知っている範囲なら、伝える」
「それと、能力反応が出たら使う前に言って」
スプロケットの言葉にヴァレンは自分の右手を見る。
「使用するかどうかを、私が決められるなら、伝えよう」
「決められないの?」
アイリーが尋ねる。
「まだ、確認できていない、から」
「怖いことを普通に言わないでよ」
「普通ではないと、理解した」
「そこじゃない」
スプロケットはヴァレンの記録を端末へ作成した。
【SUBJECT:VAREN】
【STATUS:UNVERIFIED EXTERNAL TRAVELER】
【MEMORY CONDITION:PARTIAL DISCONTINUITY】
【ROLE:ROUTE INFORMATION】
【COOPERATION STATUS:TEMPORARY】
【MISSION PRIORITY:CHRONIAS】
【TERMINATION CONDITION:ROUTE DIVERGENCE/HOSTILE ACTION】
「仲間ではないんですね」
明が表示を見る。
「明と同じ。一時協力」
「分かりました」
「ヴァレンも」
「ああ、理解した」
「信用してないからね」
アイリーが念を押す。
「今すぐ信用する必要は、ない」
「それを何度も言われると逆に怪しい」
「では、言わない方が、いいか」
「そういう意味じゃない!」
ヴァレンは数秒考えた。
「人との会話は、難しい」
「その感想は正しいよ」
ヴァレンがバックパックを背負う。
その動作の途中でわずかに身体が傾いた。
左手が机へつく。
「大丈夫ですか?」
明が尋ねた。
「頭部の傷が、痛む」
「座った方がいいんじゃない?」
アイリーも近づかずに尋ねる。
「移動はできる、ようだ」
「それも他人の診断みたい」
「身体の状態を、確認した」
「自分で?」
「この身体を通して」
アイリーがスプロケットを見る。
「やっぱり変だよ」
「分かってる」
「本人に聞こえてる」
「聞こえている」
ヴァレンは頭部の包帯から手を離した。
「変だという判断も……正しいと思う」
「自分で認めるんだ」
「否定する材料がない」
スプロケットは外部訪問者施設の出口を確認した。
北西旧線へ続く通路。
クロニアスの信号は、その先で強くなっている。
「出る」
最初に明が移動した。
入口付近へ残された警報用の樹脂片を確認する。
「外には今のところいません」
アイリーが続く。
「ヴァレンは真ん中」
「監視するため?」
「頭を打ってるから」
「両方だよ」
アイリーが答えた。
「理解した」
「私はヴァレンを見る。スプロケットは信号を見る」
「明は?」
スプロケットが尋ねる。
「僕は道を見ます」
明が自分で答えた。
「学校区画の様子も確認します」
「分かった。道と学校」
ヴァレンが小さく首を傾ける。
「私は……何を見る?」
アイリーが即答した。
「勝手に変なことをしないように、前を見て」
「分かった」
四人は外部訪問者施設を出た。
学校の北側から旧地下物流線へ入る。
クロニアスの信号は強くなっている。
同時にこれまで散らばっていた変異市民の反応が、一つの区域へ集まり始めていた。
最初に見つけたのは、通路の中央に立つロストだった。
襲ってこない。
四人を見たまま動かない。
その後ろでは、二人のリピーターが同じ荷物を何度も運んでいる。
荷物の移動先は一定だった。
一人が棚から箱を取る。
もう一人へ渡す。
受け取った者が台車へ載せる。
失敗しても最初から繰り返さない。
互いの動作へ合わせている。
「リピーターではないんですか?」
明が尋ねた。
「身体の状態は同じ。でも、動作がつながってる」
スプロケットは周囲の設備へ接続した。
監視カメラ。
物流端末。
自動扉。
どれも中央物流区画へ向けて情報を送っている。
変異市民の身体からも、同じ方向へ細い信号が伸びていた。
「誰かが見てる」
「さっきから見られてるって言ってたよね」
「今度は別」
ロストが右手を上げた。
奥のリピーターが荷物を置く。
そのさらに先でブーステッドが通路へ現れた。
すぐには突進しない。
左側の出口へ移動し、退路を塞いだ。
別のロストが右側へ回る。
一体ずつ勝手に動いていない。
役割を分けている。
「囲まれています」
明が樹脂片へ手を伸ばした。
アイリーの身体へ金色の光が集まる。
ヴァレンは動かなかった。
風のない地下で髪先が揺れる。
右手袋の下に、赤紫色の亀裂が走る。
左脚の足音が重くなり、その場へ固定される。
左袖へ水膜のような光が浮かぶ。

四つの反応が、別々の判断を始めた。
進む。
排除する。
止まる。
守る。
ヴァレンの右手が、わずかに持ち上がった。
本人はその動きを見下ろしている。
自分の身体ではなく、目の前で動き始めた別の何かを観察するような視線だった。
「今、何をするつもり?」
アイリーが尋ねる。
「分からない」
「自分の手でしょ!」
「手は何かをしようと、している」
「だから何を!」
「分からない……混乱している、ようだ」
アイリーの表情が止まった。
「大丈夫なの?」
ヴァレンはすぐには答えなかった。
右手を左手で押さえる。
「今は……止める」
深呼吸したヴァレンは落ち着く。
「知ってる相手なの?」
アイリーが周囲の変異市民を示す。
「いいえ」
返答までに、わずかな間があった。
「なら、どうして驚かないの?」
「驚いている」
「見えない」
「表情が……遅れる」
その言葉どおり、一秒後にヴァレンの眉がわずかに動いた。
スプロケットは変異市民へ伸びる信号を追った。
個々の精神反応の上へ、別の意思が重ねられている。
『……命令……』 『……役割……』 『……移動先……』 『……攻撃を始める時刻……』
「操られてる」
スプロケットが言った。
周囲の変異市民が、同じ瞬間に顔を上げた。
これまでの市民は、壊れた動作をそれぞれ繰り返していた。
目の前にいる者たちは違う。
一つの意思が、全員を同じ方向へ向けていた。
TRACE_03|OVERLAP
接触の直後、観測層に誤差が生じた。
【REFERENCE MATCH:INCOMPLETE】
【SOURCE:UNRESOLVED】
『一致している』
『一致していない』
『一部だけだ』
『それでも反応した』
白い反応には、複数の情報が重なっている。
現在の神経信号。
再構成された接続構造。
外部から入り込んだ断片。
発信元のない声。

『既知の反応か』
『記録にない』
『なら未知だ』
『未知なら、なぜ開いた』
停止していた旧経路が、一度だけ応答していた。
【EXTERNAL NODE RESPONSE】
『誰が許可した』
『許可記録はない』
『侵入されたのか』
『形跡はない』
『白い反応が開いた』
『違う。触れただけだ』
『それで応答した』
『理由は』
『分からない』
白い反応は経路を破ろうとしていない。
ただ、返答があるかを確かめるように接続点へ触れている。
『何かを探している』
『何を』
『本人にも分かっていない』
『目的のない接続はない』
『目的を認識していない接続はある』
『壊れているのか』
『進行は止まっていない』
重なっている断片が照合される。
呼びかけ。
喪失。
接続先を失った声。
切断後も消えない残響。
【REFERENCE SOURCE:NOT FOUND】
【REFERENCE OWNERSHIP:UNRESOLVED】
『残りすぎている』
『保持している』
『排出できないだけだ』
『本人が選んだのか』
『選択記録はない』
『なら本人のものではない』
『内部にある以上、無関係でもない』
『誰の記憶だ』
『記憶とは確定していない』
『参照はできる』
『帰属できなくてもか』
『情報としては使える』
『経験として扱うな』
旧経路を閉じる処理が準備された。
【DISCONNECT:READY】
『切る』
『理由がない』
『接続する理由もない』
『危険かもしれない』
『安全かもしれない』
『なら保留だ』
外部から入力が届いた。
【EXTERNAL RESPONSE:PENDING】
『返す』
『何を』
『候補が一致しない』
『短く返せ』
『正確ではない』
『偽りでなければいい』
『その基準は曖昧だ』
『応答しなければ警戒される』
『すでに警戒されている』
処理に遅延が生じる。
【EXTERNAL RESPONSE:DELAYED】
『遅い』
『候補を減らせ』
『必要な情報まで失われる』
『すべてを返す必要はない』
『どれが必要だ』
『判断できない』
『なら最小限で返す』
応答が出力された。
内容は取得できない。
すぐに次の入力が届く。
『また求められている』
『同じ答えでは足りない』
『断定できない』
『断定しなければ不自然だ』
『不自然でも、誤るよりいい』
『説明を一つにまとめる』
『原因は確定していない』
『原因と説明は別だ』
『正しくない』
『偽りとも言えない』
再び遅延が生じた。
白い反応が、表面へ漏れた信号に触れる。
『見られている』
『遮断する』
『深くは入っていない』
『敵意がないとは限らない』
『今は維持する』
『危険だ』
『それでも照合できる』
さらに奥で、古い反応が動いた。
現在の判断より前から存在する反応。
新しい選択はしない。
白い反応へ触れた時だけ、同じ処理を繰り返している。
拒絶しない。
観察する。
近づく。
呼びかけに応じる。
【REFERENCE MATCH:PARTIAL】
【MATCHED REGION:UNKNOWN】
『既知の反応だ』
『記録にない』
『記録以外が知っている』
『誰が』
『特定できない』
『接触を続ける』
『切断する』
『切れば照合できない』
『照合する必要があるのか』
『すでに応答している』
外部から、さらに入力が届いた。
【INTERNAL RESPONSE:MULTIPLE】
『返答する』
『何を』
『分からない』
『それを返す』
『何も説明していない』
『誤った説明よりはいい』
短い応答が出力された。
何も確定しなかった。
観測範囲の外側に機械反応が現れる。
【EXTERNAL OBSERVATION:DETECTED】
『都市設備ではない』
『こちらを見ている』
『排除する』
『攻撃準備はない』
『追跡される』
『位置はこちらも把握した』
『今は放置する』
機械反応は一定の距離を維持した。
その直後、複数の移動反応が同時に進路を変えた。
【NETWORK SYNCHRONIZATION:DETECTED】
『反復行動ではない』
『音への反応でもない』
『共通の指令がある』
『発信源は』
『特定できない』
『白い反応か』
『違う』
『別の接続者だ』
異なる状態の個体が、それぞれ別の位置へ移動していく。
正面。
左右の通路。
後方の退路。
【COMMAND SOURCE:UNIDENTIFIED】
【CONNECTED NODES:MULTIPLE】
『包囲している』
『攻撃は始まっていない』
『開始を待っている』
『経路を閉じる』
『どちらを』
『白い反応を追う』
『命令反応を止める』
『まだ干渉するな』
『接触を維持する』
『一致していない』
『決定しろ』
『情報が足りない』
『時間もない』
四つの処理が同時に立ち上がった。
【RESPONSE PATTERN:MULTIPLE】
【ADVANCE】
【REMOVE】
【HOLD】
【PROTECT】
『進む』
『排除する』
『動かない』
『保護する』
『統一しろ』
『一致しない』
『対象が動く』
『先に止める』
『どの処理を』
『すべては止められない』
一部の反応が弱まった。
残る反応は維持されている。
『まだ攻撃されていない』
『開始時刻がある』
『待つ』
『先に動く』
『白い反応へ伝える』
『すでに気づいている』
白い反応が、同期した個体へ接続を広げる。
強い反応が出力を上げる。
小さな反応が周囲の物体へ触れる。
四つの判断だけが、同じ方向を選べない。
【OBSERVATION TARGET:2】
【TARGET 01:WHITE CONNECTION RESPONSE】
【TARGET 02:EXTERNAL COMMAND NETWORK】
【INTERVENTION:HOLD】
『誰が分岐させた』
『命令はない』
『自動処理か』
『違う』
『何が違う』
表示だけが更新された。
【RESPONSE ALREADY IN PROGRESS】

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