『28日後』シリーズはどこで別物になったのか

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レイジ・ウイルスを失った続編への違和感

『28日後…』シリーズは正式にはゾンビ映画ではなく、レイジ・ウイルスによって凶暴化した感染者を描く感染系ホラー映画である。

しかし、2000年代前半に登場した本作は、後のリメイク版『ドーン・オブ・ザ・デッド』と並び、走るゾンビや高速感染者のイメージを定着させた作品でもあった。

個人的に、1作目の『28日後…』は名作だと思っている。

低予算で作られた作品でありながら、誰もいないロンドンを主人公ジムが一人で歩く冒頭には、今見ても強烈なインパクトがある。

静まり返った都市と、突然現れて全力で襲ってくる感染者。

静寂と暴力の落差によって生まれる独特な緊張感は、他の感染映画にはない魅力だった。

しかし、このシリーズは続編を重ねるごとに、1作目が持っていた根本的な意味を失っていったように感じる。

レイジ・ウイルスは単なる感染症ではなかった

『28日後…』におけるレイジ・ウイルスは、単に人間を凶暴化させるための設定ではなかった。

レイジとは怒りである。

人間の内側に秘められていた怒りや暴力性を爆発させ、理性による抑制を破壊する。

感染者は怪物ではあるが、その怒りは人間の外側から突然与えられたものではない。

もともと人間の中に存在していた感情を極端に増幅させた存在だった。

1作目の終盤では、感染していないジム自身も激しい怒りを爆発させる。

仲間を救うために兵士たちを襲う姿は、感染者と見分けがつかないほど暴力的である。

つまり1作目には、感染者だけが怪物なのではなく、普通の人間も怒りによって怪物になり得るという構造があった。

これこそが、レイジ・ウイルスという設定の本当の意味だったと思う。

『28週後…』は疑問があっても範囲内だった

2作目の『28週後…』には、物語上かなり疑問が残った。

最も強く残った印象は、復興しつつあった場所を、迷惑な姉弟と周囲の軽率な行動によって再び崩壊させた物語というものだった。

本来ならば規則を守っていれば防げた可能性が高い。

感染者そのものより、登場人物の身勝手な行動に苛立ちを覚える場面が多かった。

それでも、まだ『28日後…』の続編として評価できる範囲にはあった。

感染の速度や恐怖は維持され、軍による制圧の暴走も描かれている。

父親のドンも、妻を見捨てた罪悪感や自己保身を抱えたまま感染し、抑え込まれていた感情を暴力へ変えていく。

さらに、感染していながら発症しない保菌者という新しい設定も登場した。

弟のアンディが保菌者となり、その存在がフランスへの感染拡大につながった可能性が示される。

この保菌者設定は、治療法やワクチンにもつながり得る重要な要素だった。

物語には首を傾げる部分があっても、1作目の世界観を拡張しようとしていたことは分かる。

ファンが待っていた『28年後』とは何だったのか

ファンが18年間待っていたのは、単なる新しい感染映画ではなかった。

『28週後…』の最後でフランスへ広がったレイジ・ウイルスが、その後世界をどう変えたのか。

文明は崩壊したのか。

それとも28年の間に、ある程度復興しているのか。

保菌者となったアンディはどうなったのか。

治療法の研究は進んだのか。

そして、1作目を生き残ったジム、セリーナ、ハンナはどうなったのか。

個人的には、28年後のジムが生存者たちを導くリーダーになっている姿を想像していた。

若者だったジムが長い年月を生き抜き、感染者の恐ろしさも人間の危険性も知る人物として、新たな世代を導いていく。

『28年後…』という題名から考えれば、自然に期待できる展開だったと思う。

しかし、実際に提示された3作目はまったく違うものだった。

『28年後…』で評価基準そのものが変わった

3作目の『28年後…』では、感染者は物語の中心ではなくなった。

中心に置かれたのは、少年スパイクの成長、病気の母親、父親の裏切り、親子関係、死の受容だった。

感染者は登場する。

しかし、物語を進めるための恐怖装置や障害物に近い。

そこには、レイジ・ウイルスでなければならない必然性がほとんど感じられなかった。

親子の問題や母親との別れは、別の疫病や怪物が存在する世界でも描ける。

レイジ・ウイルスが持っていた怒りという意味も弱まり、劇中ではその名称自体も強調されなくなった。

ここで作品の評価基準が変わってしまった。

1作目と2作目は、レイジ・ウイルスや感染世界をどう発展させたかという基準で評価できた。

しかし、3作目は家族や死生観を描く作家性の強い作品として評価することを求めてくる。

同じシリーズでありながら、競技そのものが変わってしまったように感じた。

作家性を出すこととシリーズを変えることは違う

監督が作家性を出すこと自体は悪くない。

むしろ、監督や脚本家は自分なりの表現や解釈を作品へ入れるべきだと思う。

しかし、シリーズ作品では話が違う。

シリーズには、それまで積み上げられてきた世界観や設定、主題がある。

新しい作り手には、それを理解した上で発展させる責任がある。

自由に解釈することと、骨組みそのものを交換することは違う。

『28日後…』シリーズの骨格は、英国に感染者がいることではない。

人間の中にある怒りと暴力が、レイジ・ウイルスによって露出する世界だった。

宗教を描くのであれば、信仰が怒りを抑えるのか、正当化するのかという形にできた。

親子関係を描くのであれば、親の怒りや罪悪感が子供へどう受け継がれるのかを描けた。

感染者の回復を描くのであれば、人間は怒りから本当に戻れるのかという問いにつなげられた。

新しい題材を加えることはできる。

しかし、作品の根本となる骨組みは変えるべきではない。

自分の描きたい物語を優先し、既存の世界観を舞台装置として使うのであれば、別のタイトルでオリジナル作品として作るべきだったと思う。

『白骨の神殿』で完全に別物になった

4作目の『28年後…/白骨の神殿』は、3作目の方向性をさらに発展させている。

宗教、カルト、死生観、感染者との交流、人間性の回復。

3作目を新しいシリーズの始まりとして受け入れた人には、興味深い作品だったかもしれない。

しかし、3作目の時点で方向性に納得できなかった自分にとって、4作目はさらに遠い作品となった。

面白くないというより、個人的には見る価値がなくなったという感覚に近い。

作品として何を描こうとしているのかは分かる。

作り手が描きたいものを描いたことも理解できる。

しかし、それは自分が『28日後…』シリーズに求めていたものではない。

クリスタルとジミーズへの違和感

『白骨の神殿』に登場するジミーズも、個人的には好きになれない集団だった。

彼らは殺人を遊びや儀式のように楽しみ、クリスタルの言葉へ従っている。

特にリーダーであるクリスタルは、常に余裕のある態度を取り、大物らしく振る舞っていた。

しかし、その信仰が本物なのか、仲間を支配するための演技なのかが曖昧だった。

本当に声を聞き、心の底から自分の信仰を信じているのであれば、最後まで一切迷わず信念を貫くべきだったと思う。

死を前にしても歓喜するほどの狂信者であれば、好感は持てなくても人物としての魅力は出る。

逆に、すべてが仲間を操るための嘘なら、最後に余裕を失い、命乞いをすることで本性が暴かれる。

実際には予想した通りの落差が描かれたが、それまでの大物感が演技だったという以上の深さは感じられなかった。

クリスタルは狂った信念を持つ人物というより、自分の都合に合わせて言葉を並べ、他人を支配していただけの人物に見えた。

サムソンがジミーズを全滅させるべきだった

個人的には、クライマックスでサムソンがジミーズを全滅させる展開を期待していた。

サムソンは当初、レイジ・ウイルスに支配され、全方位へ怒りを向ける怪物だった。

人間であれば誰でも襲い、相手を区別することもない。

しかし、ケルソンとの交流によって人間性を取り戻していく。

言葉を理解し、感謝を覚え、ケルソンという特定の人間への愛着を持つようになる。

その状態でケルソンをクリスタルに殺されれば、サムソンの怒りは全方位ではなくなる。

ケルソンを殺した相手へ向けられた、悲しみから生まれる怒りになる。

感染者としての無差別な殺戮ではない。

人間性を取り戻した存在による、明確な意思を持った復讐である。

ここに強烈な皮肉が生まれたはずだ。

レイジ・ウイルスを治療しても、怒りそのものは消えない。

むしろ、人間性を取り戻したことで愛情や悲しみを知り、その結果として本当の怒りを持つ。

ウイルスが怒りを作ったのではなく、怒りは最初から人間の中に存在していたという、1作目のテーマにも戻ることができる。

怪物が人間になり、人間が怪物になる

さらに、サムソンとジミーズを対極として描くこともできた。

サムソンは怪物だった。

しかし、人間性を取り戻したことで、誰を憎み、誰を攻撃するのかを選べるようになる。

一方のジミーズは、最初から人間だった。

彼らは楽しさや集団の一体感によって殺人を行っていた。

しかし、クリスタルの言葉が嘘だったと知れば、集団の均衡は崩れる。

騙されていたことへの戸惑い。

自分たちの殺人に意味がなかったことへの恐怖。

クリスタルへの怒り。

裏切った仲間への怒り。

そこからジミーズが互いに疑い、全方位へ暴力を向け始める。

怪物だったサムソンは怒りの対象を選べるようになる。

人間だったジミーズは、理性を失い、区別なく怒りをまき散らすようになる。

この反転構造があれば、人間の恐ろしさを描くだけで終わらなかった。

感染者と人間の境界を、もう一度レイジという言葉で結び直すことができたと思う。

スパイクとケリーにも役割を与えられた

その間にいるのがスパイクである。

スパイクには、サムソンを倒す力も、ジミーズ全員を支配する力もない。

しかし、クリスタルの矛盾を指摘し、集団の均衡を崩すことはできる。

クリスタルの支配は、仲間全員が疑問を持たないことで成立している。

外部から来たスパイクが疑問を口にすることで、信仰の構造に亀裂が入る。

さらに、当初からクリスタルに疑問を抱いていたケリーが、内部から反旗を翻す。

スパイクが外から疑問を持ち込み、ケリーが内側からそれを認める。

そこへケルソンを殺されたサムソンが戻ってくる。

この流れなら、スパイク、ケリー、サムソン、クリスタルの全員がクライマックスに必要な人物になる。

しかし、実際の作品では、サムソンの回復とジミーズの崩壊が別々の物語として処理された。

そのため、感染者が人間へ戻るという重大な出来事が、作品全体の決着へつながっていない。

ケルソンとの関係は完結しているが、その後のサムソンが何を選ぶ人物なのかは描かれない。

結果として、サムソンは物語の最後で浮いた存在になってしまった。

感染者が元に戻る展開が着地点になっていない

感染者が元の人間へ戻るという展開自体は、シリーズ全体の着地点になり得る。

1作目から2作目の流れを引き継いでいれば、非常に大きな意味を持ったはずだ。

2作目には発症しない保菌者が存在した。

そこから研究が進み、感染者を治療できる可能性へつながる。

最終的には、人間は怒りと暴力から戻れるのかという問いへ到達する。

この流れであれば、感染者の回復は長年積み上げてきた設定への答えになる。

しかし、3作目では保菌者設定がほぼ消え、レイジ・ウイルスの意味も物語の中心から外れた。

4作目で突然感染者が人間性を取り戻しても、シリーズが追い続けてきた問題への回答には見えない。

3作目と4作目の中心は、親子関係、宗教、死生観、カルトである。

感染者の回復は、それらの物語の着地点にもなっていない。

しかも、その事実を知るケルソンは死亡している。

スパイクとケリーは、サムソンが人間性を取り戻したことを知らない。

つまり、シリーズを大きく変える発見でありながら、次の物語へ自然に引き継がれる構造にもなっていない。

なぜ三部作にしたのか

そもそも、新たな物語を三部作として作る意味もよく分からない。

ファンが待っていたのは、『28日後…』の世界を利用した新シリーズではない。

『28週後…』の後に何が起きたのかを描く第3作だった。

ところが、実際の『28年後…』は、新主人公スパイクの物語を始める第1作のような構造になっている。

『28週後…』で提示されたフランスへの感染拡大や保菌者設定は、物語の中心に入らない。

ジムも3作目では本格的に登場せず、4作目の最後まで温存された。

18年間待った第3作が、過去作への回答ではなく、新三部作の導入だった。

これでは、なぜ待たれていた第3作を、新しい三部作の第1作へ変えたのかという疑問が残る。

設定上は続編でも、物語としては再起動に近い。

『28年後…』は『28週後…』の続編というより、『28日後…』の名前と世界を利用した新シリーズに見える。

ジムの復帰が新たな問題を生む

『白骨の神殿』の最後には、1作目の主人公ジムが登場する。

従来のファンにとって、これは大きな期待材料になる。

しかし、すでにシリーズの世界観が別物へ変わってしまった後で、1作目のジムをどのように扱うのかという問題がある。

ジムが3作目と4作目の価値観へ簡単に順応すれば、1作目のジムとは違う人物になる。

感染者との交流や回復を簡単に受け入れるのであれば、28年間で変わったという説明だけでは足りない。

逆にジムを登場させることで、シリーズが1作目の方向へ戻るのであれば、3作目と4作目の積み上げを否定することになる。

レイジ・ウイルスと怒りを再び中心に戻せば、原点回帰にはなる。

しかし、その場合は親子、宗教、感染者の人間性回復を描いた新三部作の意味が薄くなる。

ジムを新しい世界へ合わせても問題があり、ジムによって元の世界へ戻しても問題がある。

ジムの復帰は、シリーズの断絶を解決する切り札ではない。

むしろ、新旧作品の矛盾を明確にする存在になっている。

セリーナとハンナはどうなるのか

さらに、1作目はジム一人が生き残った物語ではない。

セリーナとハンナも生き残り、三人が疑似的な家族になったことで意味のある結末になった。

5作目でジムを中心にするのであれば、セリーナとハンナの現在を説明しなければならない。

二人が死亡したのか。

意見の相違で別れたのか。

別の共同体で生きているのか。

28年間の空白があるため、理由はいくらでも作れる。

しかし、その自由さは危険でもある。

ジムの贖罪を描くために、ジムの過ちでセリーナやハンナが死亡した設定を作ることもできる。

あるいは、物語上邪魔だから別れたことにすることもできる。

どちらにしても、1作目の結末を5作目のドラマを作る材料として壊す可能性がある。

ジムの娘が登場したことで、その母親が誰なのかという問題も生まれている。

セリーナの娘なら、なぜセリーナがいないのか。

別の女性の娘なら、ジムとセリーナがいつ別れたのか。

ジムを復帰させたことで、説明しなければならない問題はさらに増えている。

ジムが途中で退場する可能性

5作目では、ジムが冒頭から中盤まで活躍し、その後に退場する可能性もある。

娘やスパイクたちを守り、自分の意思を次世代へ託す。

レガシー続編ではよく使われる構造である。

年老いた主人公が過去の後悔を抱えている。

新しい若者と出会う。

一時的に導き、最後には自己犠牲によって死亡する。

物語の収まりはいい。

しかし、何度も使われたことで、かなり予想しやすい形でもある。

ジムが復帰した時点で、最後には若者を守って死ぬのではないかと想像できてしまう。

それでは、18年以上待って再登場した主人公が、新世代を成立させるための踏み台になる。

特にキリアン・マーフィーは、1作目当時とは立場が違う。

現在ではアカデミー賞を受賞した俳優であり、作品側も中途半端な扱いはできない。

演技力を生かすために、重い過去や罪悪感、贖罪、家族の死といったドラマが用意される可能性が高い。

しかし、その見せ場を作るためにセリーナやハンナが犠牲になるのであれば、旧作の人物がジムのドラマを引き立てる材料として使われることになる。

5作目は、ジム、スパイク、ケリー、娘、サムソン、島の共同体、セリーナ、ハンナ、感染者の回復を一本へまとめなければならない。

難易度は非常に高い。

どの要素を中心にしても、別の要素が犠牲になる可能性がある。

年老いた主人公の扱いは難しい

レガシー続編における年老いた主人公の扱いで、すぐに思い浮かぶのが『インディ・ジョーンズ』である。

個人的には、シリーズは3作目の『最後の聖戦』で綺麗に終わっていたと思う。

仲間たちと夕日の向こうへ去っていく終幕は、インディ・ジョーンズという冒険活劇の完結として非常に収まりがよかった。

しかし、4作目で再びインディが引っ張り出された。

そこで見せられたのは、かつてと同じ動きができない年老いた主人公だった。

年を取ること自体が悪いわけではない。

問題は、年老いた人物へ若い頃と同じ役割やアクションを求めたことにある。

昔と同じように走り、戦い、危険へ飛び込ませるほど、現在との差が目立ってしまう。

観客は冒険に没入するより、俳優が年を取ったという現実を意識する。

年老いた主人公には、その年齢に合った役割が必要である。

肉体で前に出るのではなく、経験や判断で若い人物を導く。

そして、本当に必要な場面だけ一度前へ出る。

しかし、完全に指導者へ回せば物足りなくなり、死亡させればありきたりな世代交代になる。

ジムにも同じ問題がある。

若い頃のジムを再現すれば無理が出る。

悟った指導者へ変えれば別人に見える。

途中で死亡させれば収まりはいいが、典型的なレガシー続編になる。

ジムをどこで前へ出し、どこで退かせ、何を残すのか。

5作目では感染者以上に、主人公の引き際が重要になると思う。

1作目は名作、2作目は範囲内、3作目で別物になった

最終的な自分の評価は明確である。

『28日後…』は、シリーズの核を作り上げた名作だった。

無人のロンドン、急速な感染、走る感染者、人間の怒りと暴力が一体となっている。

『28週後…』は、人物の行動に大きな疑問はある。

それでもレイジ・ウイルスの脅威や保菌者設定を発展させ、同じ世界の続編として評価できた。

『28年後…』は、親子関係、病気、成長、死を中心へ置いたことで、シリーズの評価基準そのものを変えてしまった。

作品として何を描きたいのかは分かる。

しかし、自分が待っていた『28週後…』の続きではなかった。

『白骨の神殿』は、3作目の方向をさらに発展させた。

だから3作目を受け入れた人にとっては、意味のある続編なのだと思う。

しかし、自分にとっては、すでに別物となった作品をさらに深掘りしただけだった。

面白いかどうかを評価する以前に、このシリーズを見る理由がなくなってしまった。

まとめ

3作目と4作目を単純につまらない作品だとは思っていない。

作り手が何を描こうとしたのかも理解できる。

親子、死生観、宗教、感染者の回復という題材には、それぞれ描く価値がある。

しかし、それを『28日後…』シリーズで行う必要があったのかという疑問が残る。

シリーズ作品に作家性は必要である。

ただし、その作家性は、過去作の構造を理解した上で発展させるために使うべきだ。

既存の世界観を、自分の描きたい物語を成立させるための舞台装置へ変えるべきではない。

『28年後…』以降は、レイジ・ウイルスを描くシリーズではなくなった。

レイジ・ウイルスが存在する世界を利用して、別の物語を描くシリーズになった。

だから自分は、作品の意図を理解できなかったのではない。

理解した上で、それが自分の求める『28日後…』ではないと判断した。

1作目と2作目には、不満を含めても関心を持てた。

3作目以降は、批判したい続編ですらなくなり、自分の興味から遠ざかっていった。

5作目でジムが戻ったとしても、すでに生じた断絶を埋められるとは思っていない。

むしろ、別物になったシリーズへ1作目の主人公まで取り込まれ、過去作の意味まで書き換えられる危険を感じている。

個人的に『28日後…』は名作である。

しかし、現在の『28年後…』シリーズは、その名作から発展した続編ではなく、同じ世界を借りて始まった別の物語になってしまったと思う。

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