なぜ私はMCU版『ブラックパンサー』を高く評価できないのか

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▼思考ログ

MCU版『ブラックパンサー』は、世間では非常に評価の高い作品である。

アフリカ文化と未来的な科学技術を融合させたワカンダのビジュアル、ティ・チャラを演じたチャドウィック・ボーズマン、キルモンガーを演じたマイケル・B・ジョーダンの存在感など、映画として高い完成度を持っていることは私も認めている。

それでも、個人的には『ブラックパンサー』をそこまで好きになれなかった。

これは黒人主体の作品だからでも、世間で高く評価されている作品を否定したいからでもない。

私の場合、物語の感情的な部分へ入る前に、ワカンダという国家を成立させている土台や、MCU全体との整合性が気になってしまうからである。

ワカンダの科学力に説得力を感じられない

私が最初に引っかかったのは、ワカンダの圧倒的な科学力である。

ワカンダはヴィブラニウムの産出地であり、その特殊な物質を長期間にわたって研究してきたことで、世界のどの国よりも高度な文明を築いたとされている。

しかし、ヴィブラニウムが存在することと、国家全体の科学技術が発達することは同じではない。

どれほど優れた素材が存在しても、それを調査する研究者、採掘する設備、加工する工業技術、研究成果を次世代へ伝える教育制度が必要になる。

さらに、航空機、人工知能、医療、通信、ナノテクノロジーまで発達させるには、多数の異なる分野が連動しなければならない。

ワカンダは小国であり、長期間にわたって外部との交流を避けてきた。

外部から技術や知識を取り入れず、限られた人口だけで、現代の大国をはるかに超える科学力へ到達した過程がほとんど説明されていない。

映画では完成したワカンダを見せるだけで、そこへ至るまでの歴史が省略されている。

ヴィブラニウムがあるから発展したという説明は、私にとっては原因ではなく、結論を言い換えただけに見えてしまう。

エネルギーはどこから得ているのか

さらに気になるのが、ワカンダのエネルギー問題である。

ヴィブラニウムは、衝撃や振動などのエネルギーを吸収し、蓄積して放出できる物質として描かれている。

しかし、エネルギーを蓄えられることと、エネルギーを生み出せることは違う。

高性能なバッテリーがあったとしても、それを充電する発電施設は必要になる。

都市全体を覆う防壁、航空機、鉄道、研究施設、医療設備、採掘施設を維持するなら、莫大な電力が必要になるはずである。

発電だけではなく、送電、冷却、排熱、保守まで考えなければならない。

ところが映画では、これらの問題もヴィブラニウムという一つの言葉で処理されている。

ヴィブラニウムを触媒とした核融合炉が存在するのか。

地熱や太陽光を利用しているのか。

ヴィブラニウム自体が未知のエネルギーを発生させるのか。

簡単な説明が一つあるだけでも、ワカンダの科学文明にはかなりの説得力が生まれたと思う。

伝統文化と未来技術の融合にも疑問が残る

高度な科学文明と伝統文化が共存すること自体は、おかしくない。

科学が発達したからといって、民族衣装、宗教、儀式、王室が消えるとは限らない。

ただし、ワカンダの場合は、未来的な科学技術を持ちながら、国王を決める制度に肉体的な決闘が残されている。

これは文化的な儀式というだけでは済まない。

敗北した国王候補が死亡する可能性があり、勝者の思想によって国家全体の方針が変えられてしまう。

科学技術は未来的なのに、政治制度は極端に古い。

この二つがなぜ共存しているのか、ワカンダの国民がその制度をどのように考えているのかも、十分には描かれていない。

結果としてワカンダは、実際に機能している未来国家というより、アフリカ文化と未来的な映像を組み合わせた象徴的な舞台に見えてしまった。

黒人主体であること自体を否定しているわけではない

ワカンダの住民がほぼ黒人だけで構成されていることについて、私はそれ自体を否定するつもりはない。

ワカンダはアフリカに存在し、長期間鎖国してきた国家である。

原作も黒人を中心とした物語であり、黒人主体の映画として作ることには明確な意味がある。

私が疑問を持っているのは、ディズニーやマーベルが掲げてきた多様性の基準が、作品によって変わっているように見える点である。

北欧神話を基にしたアスガルドには、黒人やアジア系の人物が存在する。

北欧神話が成立した時代や地域の民族構成を考えれば、本来のイメージとは異なる配役である。

それでも架空の世界だから、現代的な多様性を取り入れてよいという考え方は理解できる。

しかし、それならワカンダにも少数の外国出身者、国際結婚によって移住した人物、国外で生まれたワカンダ人などが存在してもよいはずである。

アスガルドでは「架空世界だから人種を自由に変更できる」と説明し、ワカンダでは「アフリカの鎖国国家だから黒人だけで自然」と説明する。

それぞれ単独では成立するが、並べると都合によって基準を変えているように見えてしまう。

私が不公平だと感じているのは、黒人中心の作品が作られたことではない。

多様性という理念が、すべての作品へ同じように適用されていないように見えることである。

当時は批判しづらい空気もあった

『ブラックパンサー』が公開された当時は、黒人主体の大規模ヒーロー映画が誕生したこと自体に、非常に大きな社会的意味が与えられていた。

そのため、作品の設定や脚本を批判しただけでも、黒人主体の映画を否定していると受け取られる可能性があった。

作品として面白いかという評価と、作品を支持することの社会的な意味が強く結びついていたのである。

もちろん、実際に人種差別的な理由から攻撃する人も存在した。

だからこそ、通常の作品批判まで同じものとして扱われやすくなったのだと思う。

私は『ブラックパンサー』の文化的な意義を否定していない。

しかし、社会的な意義があることと、世界設定や物語に欠点がないことは別である。

評価すべき部分を評価しながら、納得できない部分を批判することは両立する。

1作目は完成度が高いが、個人的には合わなかった

1作目については、作品としての完成度は高いと思っている。

チャドウィック・ボーズマンはティ・チャラという国王とヒーローを見事に演じていた。

マイケル・B・ジョーダンが演じたキルモンガーも、単なる悪役ではなく、ワカンダが外部の黒人を見捨ててきたことを突きつける存在として機能していた。

ティ・チャラはキルモンガーを倒しただけではない。

彼の問題提起の一部を受け入れ、ワカンダを世界へ開く決断をした。

対立を通して主人公の考え方が変化し、物語としてきれいに完結している。

その点は評価できる。

それでも私の場合は、ワカンダの科学力、エネルギー、政治制度への疑問が先に立ってしまった。

だから感情的に物語へ入り込むことができず、完成度は認めても、面白いとは感じなかった。

単純に私の評価基準とは合わなかったのである。

2作目でシュリの役割が崩壊した

私が強い嫌悪感を持ったのは、2作目の『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』である。

チャドウィック・ボーズマンの急逝によって、当初予定されていた物語を大きく変更しなければならなかったことは理解している。

しかし、制作上の事情は、作品がこの形になった理由にはなっても、完成度の低下を無条件で許す理由にはならない。

特に納得できなかったのが、シュリがブラックパンサーになったことである。

1作目のシュリは、天才的な科学者だった。

ティ・チャラが国王と戦士を担当し、シュリは装備や医療技術を開発する。

オコエは軍事、ナキアは諜報と国外活動を担当する。

それぞれに明確な役割があった。

シュリも戦闘には参加していたが、あくまで自分が開発した装備を使用する科学者としての戦い方だった。

原作のシュリは戦士として訓練を受け、王位やブラックパンサーの座を目指すだけの背景を持っていた。

一方、MCU版のシュリには、そのような積み重ねがほとんどない。

科学者として確立していた人物が、兄を失ったという理由だけで、突然ワカンダを代表する戦士になる。

身体能力はハーブによって強化できても、戦闘経験、判断力、精神的な安定まで同時に得られるわけではない。

ブラックパンサーのハーブを再現できることと、本人がブラックパンサーにふさわしいことは別問題である。

映画はこの二つを混同しているように見えた。

シュリの暴走にも納得できなかった

2作目のシュリは、兄だけでなく母ラモンダまで失い、復讐心に支配されていく。

精神世界でティ・チャラではなくキルモンガーを見ることからも、彼女が兄とは異なる方向へ進んでいることが示されている。

物語上の意図は理解できる。

シュリは最初から完成したブラックパンサーではなく、怒りや復讐を乗り越え、最終的に兄と同じような選択をする。

しかし、私が問題にしているのは、シュリが立派なブラックパンサーになれたかどうか以前に、なぜ彼女がその役割を引き受けなければならなかったのかという点である。

戦士としての準備もなく、精神的にも不安定な人物を国家の象徴にしてしまう。

しかも、その過程を丁寧に描く時間もない。

私には成長物語というより、物語の都合によってシュリの役割を変更したように見えた。

ネイモアという強力なキャラクターも生かせなかった

2作目には、ネイモアとタロカンという新しい勢力まで登場する。

ネイモアは、原作では非常に癖の強い人物である。

自分の国や人民を守るという強い信念を持っているが、その傲慢さと攻撃性によって、本来は味方になり得る人物まで敵に回してしまう。

ヒーローにも悪役にもなり、どの勢力とも完全には協調できない。

己の正義のために余計な問題を引き起こすことこそが、ネイモアの面白さだと思う。

ところが『ワカンダ・フォーエバー』のネイモアは、シュリの成長と復讐を描くための相手として使われている。

タロカンの支配者、植民地主義の被害者、ワカンダの敵、シュリの理解者、ラモンダを殺害する人物という複数の役割を背負わされている。

その結果、冷酷な侵略者なのか、現実的な指導者なのか、シュリと共感し合う同志なのかが絞り切れていない。

ネイモアとタロカンだけでも、一本の映画を成立させられたはずである。

それをティ・チャラの死、シュリへの主人公交代、ワカンダの政治問題、ラモンダの死、アイアンハートの顔見せと同時に処理してしまった。

個々の場面は高品質でも、一本の映画としては明らかに詰め込みすぎている。

追悼が作品の免罪符になってはいけない

チャドウィック・ボーズマンの死は、本当に残念な出来事だった。

しかし、だからこそ私は、その死を作品の評価を守るために使ってはいけないと思っている。

『ワカンダ・フォーエバー』は、冒頭から最後までティ・チャラとチャドウィック・ボーズマンへの追悼を強く意識している。

そのため、構成や人物の扱いを批判すると、追悼作品なのだから仕方がないという反応が生まれやすい。

しかし、それは作品の問題点に対する反論にはなっていない。

シュリの継承が唐突であるという批判に対して、主演俳優が亡くなったから仕方がないと説明しても、人物造形が自然になるわけではない。

ネイモアやタロカンを十分に描けなかった問題も解消されない。

私は制作陣に悪意があったとは思っていない。

それでも完成した映画からは、追悼作品だから多少の無理は許してほしいという空気を感じてしまった。

私にとって、それは最もやってはいけないことだった。

故人を悼むことと、完成した映画を厳しく評価することは両立する。

むしろ追悼を理由に作品の欠点へ触れない方が、作品評価として不誠実だと思う。

アイアンハートは完全に不要だった

さらに2作目を散漫にしたのが、リリ・ウィリアムズことアイアンハートである。

彼女はヴィブラニウム探知機を開発した人物として、ワカンダとタロカンの争いへ巻き込まれる。

しかし、この役割はリリでなくても成立する。

無名の科学者でも、アメリカ政府の研究機関でも、ワカンダから流出した技術でもよかった。

ティ・チャラの死とシュリへの主人公交代だけでも重い映画に、別作品の主人公候補まで入れる必要はなかった。

アイアンハートは本作に必要な人物というより、後の単独ドラマへつなげるための顔見せに見える。

現行MCUが抱えている、将来の企画を紹介するために現在の作品を圧迫するという問題を象徴する存在である。

トニー・スタークの後継者としての積み重ねがない

MCU版のリリは、トニー・スターク本人と直接的な関係を持っていない。

師弟関係もなく、トニーの思想、失敗、贖罪、責任を受け継いだわけでもない。

それでもアイアンマンを思わせる装甲を作り、若い天才技術者として配置されている。

トニーがアイアンマンになるまでには、スターク・インダストリーズの技術的蓄積、兵器開発の経験、ハワード・スタークから受け継いだ研究、アーク・リアクターの小型化があった。

アフガニスタンで最初のスーツを作り、その後も失敗と改良を繰り返している。

リリには、その過程がほとんどない。

天才だから作れたという説明だけで、トニーが長い時間をかけて到達した技術へ近づいてしまう。

これではリリがトニーの後継者に見えないだけではない。

トニーが積み上げてきた技術的な功績まで軽く見えてしまう。

自然発電で動くスーツには無理がある

アイアンマンのアーマーは、アークリアクターによって動いている。

アークリアクターは現実には存在しない架空の装置だが、超小型で莫大なエネルギーを生み出す動力炉として、物語内部では明確な役割を持っていた。

一方、アイアンハートのスーツでは、太陽光や風力、kcal換算で示されるエネルギーが使われる。

しかし、重い装甲を着た人間を飛行させ、高速移動、姿勢制御、武装、センサー、人工知能まで動かすには、莫大な瞬間出力が必要になる。

スーツの限られた表面積で得られる太陽光だけでは足りない。

自ら飛行して生じた風から発電すれば、その分だけ空気抵抗が増える。

回生装置や補助電源としてなら理解できるが、主動力として成立させるには無理がある。

kcalはエネルギー量を示す単位であり、動力源ではない。

重要なのは、そのエネルギーを何から、どれほどの速度で取り出すのかである。

その説明がないまま、アイアンマンと同じようなスーツが動いてしまう。

トニーがアークリアクターを完成させた意味そのものが薄くなってしまう設定である。

魔法を融合するとドクター・ドゥームと重なる

単独ドラマ『アイアンハート』は、公式にも科学と魔法の対立を中心にした作品として紹介されている。

最終的にはゼルマ・スタントンがリリのスーツへ魔法を融合させ、リリはメフィストとも関わることになる。

しかし、科学と魔法の融合は、ドクター・ドゥームを象徴する領域である。

ドゥームは世界最高水準の科学者であると同時に、高度な魔術を自ら修得している。

科学と魔法を使えることが、装備の特徴ではなく、彼の人格や思想そのものになっている。

一方のリリは、科学技術上の問題を自力で解決した末に魔術を修得したわけではない。

外部の魔術師によって、スーツへ魔法を加えてもらった。

ドゥームは科学と魔法を支配する側だが、リリは魔法を与えられる側である。

さらに『アベンジャーズ/ドゥームズデイ』では、ロバート・ダウニー・Jr.がヴィクター・フォン・ドゥームを演じることが公式発表されている。公開予定日は2026年12月18日で、『アベンジャーズ/シークレット・ウォーズ』は2027年12月17日に予定されている。

アイアンマンを演じた俳優が、今度は科学と魔法を極めたドクター・ドゥームとして戻ってくる。

知名度、人気、原作での歴史、物語を動かす力のすべてが違う。

アイアンハートが先に科学と魔法を扱ったとしても、ドゥームが本格的に登場した時点で、その独自性は消えてしまう。

どちらを優先するべきかは、論じるまでもない。

アイアンハートはフェイドアウトさせるべき

私は現行のアイアンハートを、無理に救済する必要はないと思っている。

自然エネルギーによるスーツ、魔法との融合、トニーとの関係不足、メフィストとの契約まで整理しようとすれば、さらに多くの作品時間が必要になる。

そこまでして定着していないキャラクターを残す意味はない。

死亡や引退を描く必要もなく、このまま登場させなければよい。

『シークレット・ウォーズ』によって世界が再編されるなら、現行設定はそこで整理できる。

新しいMCUで本当に必要なら、能力、動力源、トニーとの関係、チーム内での役割から作り直せばよい。

必要がなければ、そのまま登場させない方が合理的である。

現在のMCUそのものがインカージョンを起こしている

現行MCUは、あまりにも多くの要素を広げすぎた。

アベンジャーズ、宇宙勢力、魔術師、量子世界、時間変異取締局、マルチバース、旧X-MEN、歴代スパイダーマン、ファンタスティック4まで存在している。

作品ごとに世界規模の事件が起きるのに、他のヒーローがなぜ動かないのかという疑問も生まれる。

物語上では、異なる世界同士が衝突するインカージョンが発生している。

制作上でも、異なるシリーズ、設定、俳優、企画が互いに衝突している。

皮肉にも、現在のMCUそのものがインカージョンを起こしているように見える。

さらに、サノスの次の大きな敵になるはずだったカーンも計画から外れた。

カーンを演じたジョナサン・メジャースは有罪評決後にマーベルから契約を解除され、予定されていた『アベンジャーズ/ザ・カーン・ダイナスティ』は、ドクター・ドゥームを中心とした『ドゥームズデイ』へ変更された。

俳優を変更してカーンを続けるのではなく、ロバート・ダウニー・Jr.を呼び戻した。

これは強力な切り札であると同時に、フェーズ4以降の新しいキャラクターだけでは、MCU全体を支えられなかったことの表れにも見える。

『シークレット・ウォーズ』で確実に区切るべき

『ドゥームズデイ』と『シークレット・ウォーズ』は、現行MCUを終わらせるための作品になると考えている。

完全な終了ではなくても、世界観、キャラクター、俳優を選別し、新しい形へ再編する区切りにはなるはずである。

現在のファンタスティック4は『ドゥームズデイ』への続投が公式に発表されており、そのまま新しい世界へ組み込まれる可能性が高い。

X-MENについても、旧FOX版の俳優たちは現行世界と旧世界をつなぐ役割を果たし、その後は若い俳優による新しいチームへ再構成するのが自然だと思う。

ただし、『シークレット・ウォーズ』後は、マルチバースを物語の中心にするべきではない。

マルチバースは、旧作品の人物を登場させたり、失敗した設定を整理したりするには便利である。

しかし、通常の世界設定として使い続けると、死や敗北の意味が軽くなる。

人物が死亡しても、別世界の同じ人物を連れてくればよくなる。

設定が矛盾しても、別の時間軸だったと説明できる。

観客も、どの作品を見れば現在の物語を理解できるのか分からなくなる。

『シークレット・ウォーズ』は、マルチバースを今後も利用するための作品ではなく、マルチバースの扉を閉じる作品にするべきである。

新MCUは一つの世界で始めるべき

再編後のMCUでは、アベンジャーズ、X-MEN、ファンタスティック4、スパイダーマン、ワカンダ、ラトヴェリアが、最初から同じ世界に存在する形がよい。

X-MENを別宇宙から移住させる必要はない。

世界再編後は、ミュータントが以前から存在していたことにすればよい。

ファンタスティック4も異世界から来た集団として扱い続けるのではなく、新世界の科学と宇宙開発を代表する存在にする。

そうすれば、次のMCUは別宇宙同士の衝突ではなく、同じ世界に存在する異なる勢力の関係を描ける。

人類とミュータントの対立。

アベンジャーズとX-MENの思想の違い。

リード・リチャーズとドクター・ドゥームの科学思想。

ワカンダとラトヴェリアの外交関係。

これらは一つの世界だけでも十分に大きな物語になる。

新MCUの中心は三本柱がよい

新MCUを一人の主人公だけで支える必要はない。

私の理想は、X-MEN、ファンタスティック4、スパイダーマンを三本柱にする形である。

X-MENは、ミュータントと人類の共存を通した社会的、政治的な軸になる。

ファンタスティック4は、科学、宇宙、未知の領域を担当する。

スパイダーマンは、一般市民に近い都市型ヒーローとして、巨大化した世界観を観客目線へ戻す役割を持つ。

スパイダーマンはソニーとマーベル・スタジオの共同運用であり、ディズニー側だけで自由に扱えるキャラクターではない。

それでも『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』は、ソニー作品でありながらマーベル・スタジオも参加するMCU作品として、2026年7月31日に公開される。
だからスパイダーマンをMCUから完全に切り離す必要はない。

ただし、権利関係に左右されるキャラクターへシリーズ全体を依存させるのも危険である。

単独作品では中心人物、MCU全体では重要な参加者という位置が適切だと思う。

若い俳優を早い段階から育てるべき

現行MCUの大きな問題は、演じる俳優たちが年齢を重ねていることである。

長期シリーズである以上、これは避けられない。

さらに年齢に関係なく、病気、死亡、契約問題、引退なども起こり得る。

チャドウィック・ボーズマンの急逝によって、『ブラックパンサー』2作目の構造が大きく変わったことが、その危険性を示している。

新MCUでは、知名度の高い俳優だけを集めるのではなく、若く、長期間役を演じられる可能性を持った俳優を起用するべきである。

初期MCUも、すでに完成した大スターだけで作られたわけではない。

役との相性がよい俳優を選び、シリーズと一緒にスターへ育てていった。

新しいMCUでも、その方法へ戻る必要がある。

若手チームは登場させるだけでは意味がない

ヤング・アベンジャーズのような若手チームを作る場合も、若いキャラクターを並べるだけではいけない。

現行MCUには、ケイト・ビショップ、カマラ・カーン、キャシー・ラング、アメリカ・チャベス、ウィッカンなどの若手が存在する。

しかし、彼らは同じ物語の中で成長したわけではない。

各作品の中で顔見せを行っただけで、共通の目的、招集者、敵、主人公的な軸が存在しない。

キャラクターを配置することと、チームを育てることは違う。

若手チームを作るなら、最初は正式なアベンジャーズではなく、旧世代が残した問題を処理する小規模なチームとして始めるべきである。

一人ひとりに役割を与える。

現場の指揮役、接近戦担当、偵察担当、技術担当、魔術担当、高火力担当を分ける。

全員を万能な天才や既存ヒーローの若い代用品にしてはいけない。

互いに能力と欠点を補わなければ勝てないチームにする。

その積み重ねによって、数年後に本当のアベンジャーズへ成長させる。

これを『エンドゲーム』直後から始めていれば、現在のMCUはここまで中心を失わなかったと思う。

まとめ

私はMCU版『ブラックパンサー』の完成度そのものを否定しているわけではない。

1作目には、優れた俳優、独自の美術、キルモンガーという印象的な敵、きれいに完結した物語がある。

しかし、ワカンダの科学力、エネルギー、政治制度への説明不足が気になり、物語へ入り込めなかった。

2作目はさらに深刻だった。

チャドウィック・ボーズマンへの追悼、シュリへの主人公交代、ネイモアとタロカンの導入、ラモンダの死、アイアンハートの顔見せを一本に詰め込んだ。

その結果、シュリの役割は崩れ、ネイモアは中途半端になり、作品全体もまとまりを失った。

追悼作品であることは理解できる。

しかし、追悼を理由に構造上の問題まで許容することはできない。

アイアンハートについても同じである。

トニーとの関係も、独自の動力源も、チーム内での役割も作らないまま、次世代の技術系ヒーローとして押し出した。

その後に魔法を融合させたことで、今度はドクター・ドゥームと競合してしまった。

現在のMCUは、キャラクター、世界、俳優、企画を広げすぎた。

物語の中だけではなく、シリーズそのものがインカージョンを起こしている。

だからこそ、『シークレット・ウォーズ』で確実に区切る必要がある。

その後はマルチバースを終わらせ、一つの世界へ戻す。

X-MEN、ファンタスティック4、スパイダーマンを中心に役割を分け、若い俳優と若手チームを時間をかけて育てる。

現行MCUを無理に修理し続けるより、失敗した要素を整理し、新しい世代が成長するところから再スタートするべきである。

それが、長く続いたMCUをもう一度立て直すための、最も現実的な方法ではないかと思っている。

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