第1部『404_NOT_FOUND』THREAD_05|現在位置

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クロス・バグ三部作(絶賛連載中)

TASK_01|残された時間

 旧保守経路の階段は下へ進むほど狭くなった。

 壁面の塗装は剥がれ、床には長期間使われていない配線が露出している。

 天井の非常灯だけが、四人の接近に合わせて一つずつ点灯した。

 最後の照明が消える前に次の照明が点く。

 後ろを振り返ると、通過した区画は再び暗闇へ沈んでいた。

「本当にこっち?」

 アイリーが前方を見たまま尋ねた。

「クロニアスの反応はある」

 スプロケットは端末を見たまま答えた。

「近い?」

「前よりは」

「それ、近いって言わないよね?」

「距離だけなら近い」

 スプロケットは端末へ表示された反応を確認した。

 同じ識別名が五つあった。

【SUBJECT:CHRONIAS】
【SIGNAL COUNT:5】

 一つ目は、四人がいる階段の先。

 二つ目は、右側の壁の向こう。

 三つ目は、すでに通過した扉の外側。

 四つ目は、現在の都市地図に存在しない下層。

 最後の一つには、位置情報そのものがなかった。

「増えているみたいです」

 明がスプロケットの端末を覗き込んだ。

「さっきまでは、もっと少なかったですよね」

「反応が強くなって、拾える範囲が広がったのかもしれない」

「全部、同じ人ですか?」

「識別情報は同じ」

「本人は?」

 スプロケットは答えられなかった。

 どの反応にもクロニアスの名前が付いている。

 だが、同じ人間が同時に五つの場所へいるはずはない。

 階段の下から紙を擦る音が聞こえた。

 次にペン先が止まる。

 短い呼吸が続いた。

→「現在位置を記録する」

 クロニアスの声だった。

 録音を再生する機械的な音ではない。

 階段の下で本人がいま話しているように聞こえた。

 アイリーが階段を駆け下りようとする。

「待って」

 スプロケットが呼び止めた。

「今のは近いよ!」

「時刻が違う」

 端末には声と同時に記録時刻が表示されていた。

【RECORD TIME:2 DAYS AGO】

「でも、ここで話したんでしょ?」

「たぶん」

「なら行けばいい」

「2日前と同じ場所にいるとは限らない」

「ずっとここにいるかもしれない」

「それも分からない」

 アイリーは一段下で止まった。

「分からないことばっかり」

 アイリーは暗い階段の先を睨んだ。

「でも、分からないからって止まってたら、ヒーローは誰も助けられない」

「だから探してる」

 スプロケットが答えた。

 階段の下へ着いた。

 細い通路が左右へ分かれている。

 正面の壁には古い案内板が残っていた。

【旧物流観測区画】
【第1記録室】
【保守員以外立入禁止】

 左側からクロニアスの声が聞こえた。

→「現在位置を記録する。旧物流地下、第2保守線」

 右側からも同じ声が聞こえる。

→「現在位置を記録する。旧物流地下、第1観測通路」

 二つの声が重なった。

 一方は早口だった。

 もう一方は言葉の途中で何度も呼吸を挟んでいる。

「どっち?」

 アイリーが左右を見る。

「どっちもクロニアス」

 スプロケットが左右の反応を見比べた。

「そうじゃなくて、どっちにいるの?」

「今は分からない」

 明が左側の床へしゃがんだ。

 薄い埃の上に、足跡が残っている。

 一人分ではないように見えた。

 だが、靴底の模様はすべて同じだった。

「何度も通っています」

 明は足跡の一つを指でなぞった。

「こっちは古いです」

「分かるの?」

「上に埃があります」

 別の跡を見る。

「これは新しいです。でも、左へ行って戻っています」

「どうして分かる?」

「靴の向きです」

 明は立ち上がった。

「右も同じです」

 どちらの通路にも、行きと戻りの足跡がある。

 クロニアスは一度だけ通ったのではない。

 同じ区画を何度も往復していた。

「迷ってた?」

 アイリーが尋ねた。

「地図が変わって見えていた可能性がある」

 スプロケットは壁面端末へ接続した。

 電源は失われている。

 内部に残る記録だけを拾った。

 通過認証。

 保守記録。

 監視映像。

 異なる時刻の情報へ触れるたび、クロニアスの声が現在の通路へ入り込んでくる。

→「第1記録室は閉鎖」

→「第2通路へ迂回する」

→「第2通路は、第1記録室へ戻っている」

→「地図では接続していない」

→「現在の構造を基準にしない」

→「現在位置を記録する」

 声が途切れた。

 次の瞬間、同じ言葉が違う声色で繰り返された。

→「現在位置を記録する」

 スプロケットは接続を弱めた。

 視界の端に、暗い通路を歩くクロニアスの背中が見える。

 現在の壁へ、別の時刻の通路が重なった。

 右側の壁が左へ移動する。

 存在しない階段が床から伸びる。

 通路の幅が何度も変わった。

「スプロケット」

 アイリーの声が遠くなる。

 別の声が近づく。

→「記録順序を信用しない」

 クロニアスの声だった。

→「スプロケットなら、接続を深くしすぎないでくれ」

 返事をしようとした。

 口が動く前に、左手首を強く掴まれた。

 接続が切れる。

 スプロケットは壁へ肩をぶつけた。

「何してるの?」

 アイリーが目の前にいた。

「もう少しで見えた」

「見えたんじゃなくて、入ってた」

「クロニアスが注意してた」

「その注意を聞きながら深く入るの?」

「声が近かったから」

「近い声が今の声とは限らないんでしょ」

 自分が先ほど言った言葉を返された。

 スプロケットは接続具を外した。

 指先に残っていた感覚が薄れる。

「ごめん」

「私にじゃない」

 アイリーはスプロケットの左手首を見た。

「それ、自分の?」

 スプロケットも手首を見た。

 母親から渡されたブレスレットがある。

 細い繊維。

 小さな飾り。

 過去の誰かではなく、現在の自分の手に触れている。

「ぼくの」

「じゃあ、離さないで」

 アイリーは先に右側の通路へ入った。

 明が床の足跡を確認しながら続く。

 ヴァレンは左右の壁を見ていた。

「どうしたの?」

 スプロケットが尋ねた。

「同じ音がします」

「クロニアスの声?」

「いいえ」

 ヴァレンは左側の壁へ指を近づけた。

 触れる前に止める。

「空気、です」

「空気?」

「右から左へ流れています」

 スプロケットは頬へ手を当てた。

 風は感じない。

「分からない」

「とても、弱いです」

 ヴァレンは通路の奥を見た。

「閉じた場所なら流れません」

 明が戻ってくる。

「右は行き止まりです」

「扉は?」

「ありません」

 ヴァレンが左側の壁を見る。

「見えていないだけかも……しれません」

 アイリーが右の通路から顔を出した。

「また壁の中?」

「今度は彼が探した道では……ありません」

「誰?」

「クロニアス、です」

 ヴァレンは足跡を見た。

 左右の通路を往復する跡は多い。

 壁際へ向かった跡はなかった。

 スプロケットは端末を開いた。

 最も強いクロニアスの反応は右側にある。

 位置情報のない反応だけが、左の壁の近くで揺れていた。

「強い方じゃない」

 スプロケットは端末をアイリーへ見せ、左の壁へ近づいた。

「こっちを見てる」

「何が?」

「位置がない信号」

 壁の向こうから紙を擦る音が聞こえた。

 端末へ接続していない。

 記録時刻も表示されない。

 音は短く、すぐに止まった。

 四人は同時に黙った。

 数秒後、何かが床へ落ちた。

 軽い金属音だった。

「今のは?」

 アイリーが声を落とす。

「時刻がない」

「じゃあ、今?」

「たぶん」

「たぶんでいい」

 アイリーが壁へ両手を当てた。

「どこを押す?」


TASK_02|いない場所

 壁面には扉の継ぎ目がなかった。

 塗装の剥がれ。

 配線カバー。

 停止した案内灯。

 どれも固定された壁の一部に見える。

 明が壁を軽く叩いた。

 低い音が返る。

 少しずつ位置を変えた。

 中央より左側で音がわずかに軽くなる。

「ここは空いています」

「壊す?」

 アイリーが尋ねた。

「待ってください」

 明は壁際の床へしゃがんだ。

 埃を手で払う。

 細い溝が現れた。

 壁と床の境目ではない。

 長方形の輪郭だった。

「床に扉がある?」

「違います」

 明は溝をたどった。

 長方形は壁の下部へつながっている。

 壁全体ではなく、腰の高さまでの保守用ハッチだった。

「小さい」

 アイリーが屈む。

「クロニアスが通れる?」

「細い人なら通れます」

 スプロケットはハッチの横にある認証部を探した。

 表面は塗装で覆われている。

 爪で削ると、小さな接続端子が現れた。

【AUXILIARY OBSERVATION ACCESS】
【STATUS:SEALED】

「観測用?」

「中を見るための区画かもしれない」

 スプロケットが接続具を差し込んだ。

 端末から返ってきたのは、閉鎖命令だけだった。

【EMERGENCY SEAL:ACTIVE】
【CAUSE:PRESSURE ERROR】

 内部圧力に異常がある。

 完全に開けば、保守通路側へ空気が流れ込む。

「中に空気はある」

 スプロケットが圧力表示を示した。

「少ない?」

 アイリーが尋ねる。

「外より高い」

「なら、開けたら危ない?」

「急に開けると危ない」

 ヴァレンがハッチの端へ手を近づけた。

「先ほどの空気は、ここから漏れて……いました」

 右下の角に細い隙間がある。

 そこから冷たい空気が流れていた。

「壊れてる?」

「閉じていますが、完全では……ありません」

 スプロケットは圧力記録を確認した。

 内部の数値は下がり続けている。

 漏れが始まったのは約5時間前だった。

 それ以前は安定している。

「誰かが中から動かした」

 スプロケットが記録時刻を指した。

「クロニアス?」

 アイリーがハッチへ顔を寄せる。

「たぶん」

 アイリーが息を吐いた。

「また、たぶん」

「今度は記録がある」

「最初からそう言って」

 スプロケットは緊急封鎖の解除手順を開いた。

 通常なら外側と内側の圧力を揃えてから開く。

 現在の設備には圧力を調整する電力がない。

「少しずつ開ける」

「私が?」

「うん」

「どれぐらい?」

「最初は指一本分」

 アイリーがハッチの縁へ指をかけた。

 継ぎ目が狭い。

 金色の光を弱く腕へ集める。

「これで弱くしてるからね」

「分かってる」

「本当に?」

「強くしたら、もっと光る」

「押すよ」

「引いて」

「どっち?」

「外へ開く」

 アイリーが縁を引いた。

 ハッチは動かない。

「固定具が三つある」

「先に言って」

「今見つけた」

「明は?」

 アイリーが後ろを見る。

 明はポケットへ手を入れたあと、何も取り出さなかった。

「さっきので最後です」

「火花?」

「すぐに使えるものはありません」

 能力が失われたわけではない。

 すぐに能力を起動できるよう準備した樹脂片が残っていなかった。

 別の物体へ力を蓄積させるには、時間が必要だった。

「待てば作れる?」

「少しなら」

「どれぐらい?」

「分かりません」

 明は自分の指先を見た。

 まだ小さく震えている。

「今やると失敗するかもしれません」

「じゃあ使わない」

 アイリーが即答した。

「でも――」

「失敗するって分かってるなら使わない」

 明は何も言わなかった。

 スプロケットは固定具の記録を開いた。

 上部。

 左側。

 内部。

 外から操作できるのは二つまでだった。

「二つは外せる」

 スプロケットが固定具の位置を示した。

「最後は?」

「中から解除する」

「クロニアスに頼めない?」

 スプロケットはハッチへ耳を近づけた。

 内部から音はしない。

「聞こえる?」

 アイリーが声を上げる。

「クロニアス!」

 返事はなかった。

「レアンドロス!」

 名前を変えて呼ぶ。

 それでも反応はない。

 スプロケットはハッチの内部へ短い信号を送った。

 通信規格は残っていない。

 音声を送る設備もない。

 それでも、接続の向こうに微かな生体反応があった。

【LIFE PULSE:WEAK】

「いる」

「生きてる?」

「反応はある」

「なら開ける」

 アイリーがハッチへ両手をかけ直した。

「固定具を先に外す」

「早く」

 スプロケットは上部ロックへ解除命令を送った。

 電力が足りない。

 命令を受け取ったまま、駆動装置が動かない。

 旧認証層へ触れた。

 完全な権限ではない。

 それでも、停止した補助電源が短く反応した。

【LEGACY AUTHORIZATION:PARTIAL MATCH】
【AUXILIARY POWER:TEMPORARY】

 ハッチの上で金属音がした。

 一つ目の固定具が外れる。

 左側の固定具も動いた。

 途中で止まる。

「アイリー、少し引いて」

「今?」

「固定具への負荷を外す」

 アイリーが力を加えた。

 ハッチの左側がわずかに浮く。

 固定具へ掛かっていた圧力が変わった。

 スプロケットはもう一度解除命令を送った。

 金属片が内部へ引き込まれた。

【EXTERNAL LOCKS:RELEASED】

「残りは中」

 アイリーが引く。

 ハッチは数センチ開いた。

 冷たい空気が一気に流れ出す。

「止めて!」

 アイリーが動きを止めた。

 隙間の向こうは暗い。

 埃の匂い。

 乾いた紙。

 人の呼吸に近い音が聞こえる。

「クロニアス!」

 アイリーが隙間へ顔を近づけた。

 返事はない。

 明が床へ伏せ、内部を覗いた。

「人がいます」

「見える?」

「足だけ見えます」

「動いてる?」

「分かりません」

 ヴァレンがアイリーの反対側へ移動した。

「内側に、何かが……引っかかっています」

「ロック?」

「違います」

 ハッチを開こうとすると、内部で金属が床を擦る。

 倒れた棚か、椅子だった。

「押してるのは扉じゃない」

 ヴァレンは隙間へ指を入れなかった。

「中にある、物です」

「じゃあ、強く引く」

「人の近くにあるかもしれません」

 アイリーの手が止まった。

「見えない?」

「暗いです」

 明が端末の照明を隙間へ差し込んだ。

 細い光が内部を横切る。

 床へ散らばった紙。

 倒れた椅子。

 壁際に置かれた小型記録装置。

 その奥に人影が横たわっている。

 ハッチの内側には移動式の机が倒れていた。

 机の脚が扉へ引っかかっている。

「机です」

 明が言った。

「右側なら少し動かせます」

「どうやって?」

「棒があれば」

 ヴァレンはバックパックを下ろした。

 側面へ固定していた折り畳み式の支持棒を外す。

 地図用の簡易支柱だった。

「壊れませんか?」

 明が尋ねた。

「壊れるかも……しれません」

「いいんですか?」

「道具は使うために、あります」

 ヴァレンは支持棒を伸ばした。

 隙間から差し込み、机の脚へ当てる。

「右へ押します」

「私も?」

「ハッチは動かさないでください」

「分かった」

 ヴァレンが支持棒へ体重をかけた。

 机が数センチ動く。

 棒が軋んだ。

「もう少しです」

 明が隙間を覗く。

「右」

 ヴァレンは位置を変えた。

 机が倒れた椅子へぶつかる。

 それ以上は動かない。

「今なら?」

 アイリーが尋ねた。

「少しだけ、です」

 ヴァレンが棒を抜いた。

 中央が曲がっている。

 アイリーはハッチをゆっくり引いた。

 机の脚が床を擦る。

 人一人が通れる幅まで開いた。

「私が先に行く。ヒーローが後ろで待ってるわけにいかないでしょ」

「大きいから無理です」

 明が言った。

「通れる」

「肩が引っかかります」

「押せば入る」

「中の人を踏んだら、ヒーローではありません」

 アイリーが明を見る。

「じゃあ、誰が先に入るの?」

 アイリーが明とスプロケットを見た。

「僕が行きます」

「危ないかもしれない」

「クロニアスなら危なくありません」

「クロニアスじゃないものがいたら?」

 明は隙間の奥を見た。

「今まで危なくない場所はありませんでした」

 明が身体を横にしてハッチへ入る。

 スプロケットは腕を掴もうとしたが、途中で止めた。

「戻れなかったら呼んで」

 スプロケットがハッチへ入る明に声をかけた。

「どうやってですか?」

「大きい声で」

「普通ですね」

 明は内部へ入った。

 端末の照明が暗闇の中を動く。

「机を動かします」

 内側から声が聞こえた。

「手、挟まないで」

「分かっています」

 机が床を擦る。

 ハッチがさらに開いた。

 アイリーが身体を横にして通る。

 肩が縁へ当たった。

「本当に狭い!」

「言いました」

「通れたからいい」

 スプロケットが続く。

 ヴァレンは曲がった支持棒を短く畳み、最後に内部へ入った。

 ハッチが背後で止まる。

 完全には開いていない。

 それでも戻るための隙間は残っていた。

 内部は壁一面を観測窓に囲まれた小部屋だった。

 窓の向こうは暗い。

 かつては物流線の動きを上から確認する場所だったらしい。

 記録装置。

 紙の束。

 空になった水容器。

 開封された保存食。

 中央の壁際に男が座り込んでいた。

 ダークブラウンの癖毛。

 汚れたロングコート。

 細い肩から掛けられた鞄。

 右手にはペンが握られたままだった。

「クロニアス!」

 スプロケットが呼んだ。

 男は動かない。

 アイリーが駆け寄った。

 首筋へ手を当てる。

「息してる」

 明が床へ落ちた物を拾った。

 先ほど聞こえた金属音の正体だった。

 小さな記録端末。

 画面には、未送信の文章が残っていた。

【CURRENT POSITION:UNCONFIRMED】

TASK_03|現在位置

 アイリーがクロニアスの肩を揺らした。

「起きて」

 反応はない。

「クロニアス」

 頬へ軽く触れる。

 皮膚が熱い。

「熱がある」

 スプロケットも近づいた。

 クロニアスの呼吸は浅い。

 額には汗が残っている。

 左脚にはコートの内側から裂いた布が巻かれていた。

 乾いた血が布の外側まで染みている。

「怪我してる」

「見れば分かる」

 アイリーはクロニアスの鞄を外した。

「ヴァレン、水を貸して」

 ヴァレンがバックパックから水筒を取り出す。

「飲ませていい?」

 アイリーがヴァレンへ確認する。

「少し……なら」

 アイリーがクロニアスの頭を支えた。

 唇へ水を触れさせる。

 最初は反応しない。

 二度目に水が触れると、喉がわずかに動いた。

「クロニアス」

 スプロケットは彼の右手からペンを外した。

 指が固く握り込まれている。

 ペンを抜いた直後、手が再び何かを掴もうとした。

 スプロケットは代わりに自分の手を置いた。

「もう書かなくていい」

 クロニアスの眉が動いた。

 目は開かない。

「現在……」

 掠れた声が漏れる。

「今は観測室」

 スプロケットがクロニアスの手を握ったまま答えた。

「記録……」

「ぼくたちがいる」

「時刻……」

 スプロケットは端末を確認した。

 現在時刻を告げる。

 クロニアスの呼吸が一度止まった。

「違う」

「何が?」

「その時刻は……もう記録した」

 目が開く。

 濃い茶色の瞳はスプロケットを見ていなかった。

 彼女の後ろにある別の時刻を追っている。

「第2通路へ……戻る」

「戻らない」

「壁が……まだ動いてる」

「動いてない」

 クロニアスが身体を起こそうとする。

 アイリーが肩を押さえた。

「寝てて」

「記録順が……」

「あとでいい」

「あとでは、順番が変わる」

「もう変わってる」

 アイリーの声が強くなる。

「だから私たちが来たの」

 クロニアスの視線が、ようやくアイリーへ合った。

「アイリー?」

「そう」

「ここにいたか?」

「今来た」

「前にも?」

「来てない」

 クロニアスは目を閉じた。

 呼吸を整えようとする。

「現在のアイリーか」

「ほかの私がいるの?」

「残響にはいた」

「何してた?」

「壁を壊していた」

「じゃあ私かも」

「今ではない」

「分かってるよ」

 アイリーは水筒をもう一度口元へ運んだ。

「飲んで」

 クロニアスは少しだけ水を飲んだ。

 すぐに咳き込む。

 身体を曲げた時、左脚の傷が動いた。

 息が詰まる。

「傷を見るよ」

 アイリーは鞄から簡易包帯を取り出した。

 古い布をゆっくり外す。

 傷は膝の下にあった。

 鋭い金属片で裂いたような細長い傷だった。

 出血は止まっている。

 周囲が赤く腫れていた。

「深いですか?」

 明が傷口を見た。

「見ない方がいい」

「見ないと分かりません」

「治療できる?」

「できません」

「なら、今は見なくていい」

 明は納得していない顔をした。

 それでも傷口から離れた。

 アイリーは新しい布を巻いた。

 強く締めすぎないようクロニアスの呼吸を確認する。

「痛い?」

「痛い」

「正直」

「記録には必要だ」

「そういう正直じゃない」

 スプロケットは周囲の紙を拾った。

 どれにもクロニアスの文字がある。

 時刻。

 位置。

 見たもの。

 聞こえた音。

 同じ内容が繰り返されている。

 一枚だけ、途中から文字が大きく乱れていた。

現在位置を確認できない。 同じ記録が、先に到着している。 自分が記録したのか、これから記録するのか判断できない。

「これ、いつ書いた?」

 スプロケットが尋ねた。

 クロニアスは紙を見た。

「見覚えがある」

「書いた?」

「書いたと思う」

「いつ?」

「それを確かめていた」

 クロニアスは自分の周囲を見る。

 アイリー。

 明。

 ヴァレン。

 最後にスプロケットへ視線を戻した。

「救助者を確認する」

 手を動かす。

 ペンがない。

「書かなくていい」

「必要だ」

「ぼくが記録する」

 スプロケットは端末を開いた。

「現在位置。旧物流地下の観測室。救助者は四人」

 クロニアスが明を見る。

「彼は?」

「秋山明」

 スプロケットが答えた。

「トーキョー・シティの人」

「生存者か」

「はい」

 明が自分で答えた。

 クロニアスは短く頷いた。

 次にヴァレンを見る。

 クロニアスの視線が、少し長く止まった。

「彼は?」

「ヴァレン」

 スプロケットが名前を伝える。

「旅行者……です」

 ヴァレンが答えた。

「あなたの声を、何度も……聞きました」

「私も……」

 クロニアスは言葉を止めた。

「なんですか……?」

 ヴァレンが尋ねた。

「分からない」

「私の声を、聞きましたか?」

「声ではない」

 クロニアスは目を細めた。

 ヴァレンの身体ではなく、その周囲に残る何かを見ようとしている。

 スプロケットが二人の間へ手を入れた。

「今は見なくていい」

「確認だけだ」

「《タイムエコー》を使ったら、また倒れる」

「使っていない」

「使おうとしてた」

「反応しただけだ」

「同じ」

 クロニアスが小さく笑った。

 疲労で声は弱い。

「スプロケット。なんだかソレイシアに似てきたなぁ」

「止められたから」

「うん、正しい」

「なら休んで」

「その前に記録を確認する」

 アイリーがクロニアスの肩を押さえたまま、スプロケットを見る。

「この人、助けてって言えないの?」

 アイリーがスプロケットへ尋ねた。

「言える」

 クロニアス本人が答えた。

「じゃあ言って。助けてって言えない人を見つけるのも、ヒーローの仕事だけど」

 アイリーはクロニアスを見下ろした。

「言ってくれた方が、助ける側だって迷わなくて済むの」

「助けに来たのだろう」

「そうだけど」

「なら、すでに成立している」

「成立してない。言葉にして」

 クロニアスはアイリーを見上げた。

 しばらく黙る。

「助けてほしい」

「遅い」

「求められたから言った」

「そういうところ」

 アイリーは水筒をヴァレンへ返した。

「どうして連絡しなかったの?」

「した」

「救難信号は来てない」

「救難信号は送っていない」

「今、したって言ったよね?」

「現在位置と調査記録を送った」

「それを普通は救難信号にするの」

「救助が必要だと確定する前だった」

「3日も帰ってない時点で必要でしょ」

「帰還経路を探していた」

「見つかった?」

「まだ」

「じゃあ必要だった」

 クロニアスは反論しなかった。

 その代わり床へ散らばった紙を見る。

「記録が届けば、誰かが現在の私を見つけられると思った」

「見つけた」

 スプロケットがクロニアスへ答えた。

「でも、記録が多すぎて時間がかかった」

「申し訳ない」

 すかさずアイリーが二人の会話へ割って入る。

「謝るなら次は助けてって送って」

「次がある前提か」

「また一人で行くつもり?」

「調査は必要だ」

 クロニアスが自嘲気味に答える。

「次は誰か連れていってね」

 アイリーが食い気味に言った。

「一人の方が動きやすい」

「連絡を忘れる人は一人で行かない」

 アイリーの強い口調に、クロニアスは反論できなかった。

「それ、ヘヴンに戻ってから、みんなの前で言って」

 クロニアスは目を閉じた。

「戻れたら」

「戻すために来たの」

 アイリーは言葉を切った。

「絶対に――」

 明の身体がわずかに強張った。

 アイリーも気づく。

 ヒーローなら、ここで「絶対に助ける」と言い切るのだと思っていた。

 けれど、言い切るだけでは誰も戻せない。

 そのまま続けず、息を吐いた。

「戻す」

 言い直した。

「方法を探して、みんなで戻る」

 明の肩から力が抜けた。

 クロニアスは二人を交互に見た。

 何かを尋ねようとする。

 スプロケットは先に言った。

「あとで説明する」

「記録が必要だ」

「あとで」

「忘れるかもしれない」

「ぼくが覚えてる」

 自分で言った言葉にスプロケットは少し遅れて気づいた。

 聞こえる声が増えている。

 自分の記憶と他人の記憶を分けられなくなる可能性もある。

 それでも、クロニアスは疑わなかった。

「なら任せる」

 短い言葉だった。

 スプロケットは端末へ入力する。

【SUBJECT:CHRONIAS】
【LIFE STATUS:ACTIVE】
【CURRENT LOCATION:CONFIRMED】

 表示は一度だけ安定した。

 次の瞬間、同じ識別名が複数へ分裂する。

【LOCATION CONFLICT:DETECTED】
【CURRENT LOCATION:UNRESOLVED】

「どうして?」

 アイリーが画面を見る。

「本人がいるのに」

「記録側がまだ全部を本人として扱ってる」

 スプロケットはクロニアスの手を握ったまま、周囲の信号を確認した。

 現在の身体。

 2日前の音声。

 数時間前の通過反応。

 別の通路に残った時間残響。

 現在位置を持たない声。

 すべてが同じ識別名で応答している。

 クロニアスは見つかった。

 それでも、都市のシステムは現在の彼を選べていなかった。


TASK_04|未来ではない

 明は床へ広がった紙を順番に並べていた。

 書かれた時刻ではなく、紙の汚れと折れ方で分けている。

「これ、順番が変です」

「分かるの?」

 スプロケットが近づいた。

「この紙は上にありました」

 明が一枚を示す。

「でも、書いてある時間は古いです」

 別の紙を取る。

「これは下にありました。でも、時間は新しいです」

「途中で並べ直した可能性は?」

「同じ順番にしようとした跡があります」

 紙の端には番号が書かれていた。

 1。

 2。

 4。

 3。

 7。

 5。

 同じ番号が二度使われている紙もある。

「私が並べた」

 クロニアスが言った。

「何度も」

「どうして?」

「電子記録から返る順番が変わる」

「紙なのにですか?」

「紙は変わらない」

 クロニアスは壁際の記録装置を見た。

「変わったのは設備側だ」

 スプロケットは小型装置へ接続した。

 旧物流区画の観測記録を保存する機械だった。

 映像。

 音声。

 通過認証。

 保守作業。

 事故時の状況再現。

 それぞれ異なる用途の記録が、同じ場所と時刻へ重なっている。

「この装置が過去を再生した?」

 スプロケットが記録装置を見たまま尋ねる。

「それだけではない」

 クロニアスは息を整えた。

「私が《タイムエコー》を使った」

「最初から?」

 スプロケットがクロニアスへ向き直る。

「最初は意図して」

 記録装置の内部に青白い反応が残っている。

 クロニアスが能力を使用した痕跡だった。

「物流区画でトリガーが発動した時刻を確認しようとした」

「何が見えた?」

 スプロケットが続けて尋ねた。

「市民が変わる直前だ」

 クロニアスの声が低くなる。

「通常業務を続けていた」

 運ばれる荷物。

 更新される経路。

 端末へ認証を通す作業員。

 その途中へ、説明できない停止と再開が入り込んでいる。

「最初に不安定になったのは人ではない」

「何が先に壊れたの?」

 アイリーがクロニアスへ尋ねた。

「記録の順番だ」

 クロニアスは観測窓の向こうを見た。

 現在の暗い物流線ではない。

 そこに残された時間を見ているようだった。

「トリガー発動後、設備は直前の処理を保存した」

「事故記録?」

 スプロケットが尋ねた。

「それに近い。ただし、保存されたものが多すぎた」

 市民の位置。

 物流端末への入力。

 監視映像。

 生体認証。

 避難命令。

 途中で変異した市民の反応。

 停止と再起動を繰り返した設備の状態。

「それぞれ別の記録なのに同じ時刻と同じ場所を持っていた」

「システムが区別できなくなった?」

 スプロケットが確認する。

「その可能性が高い」

 スプロケットは装置内部に残る処理を追った。

 クロニアスが《タイムエコー》で過去の残響へ触れる。

 その残響自体を設備が観測しているわけではない。

 クロニアスが残響へ反応するたびに生じた音声、移動、端末操作、生体認証。

 不安定な観測システムはそれらの現在側の反応と、保存済みの過去記録を正しく分離できなかった。

 その結果、本来なら別時刻に属する情報まで、新しい入力として登録していた。

「クロニアスが過去の自分を見た」

 スプロケットが処理の流れを追いながら言った。

「その影響を機械が現在のクロニアスとして記録した」

「そうだと思う」

「思う?」

 アイリーがクロニアスを見る。

「完全には検証できていない」

「自分で巻き込まれたのに?」

 アイリーが尋ねる。

「巻き込まれたから外側から確認できない」

 クロニアスは紙の記録を示した。

「だから紙へ残した」

 電子記録は残響と現在を区別できない。

 同じ識別名を持つ反応を見つけるたび、現在位置として追加する。

 紙だけは書いたあとに新しい現在へ更新されない。

「じゃあ、クロニアスが増えたわけじゃない?」

 アイリーが尋ねた。

「私は一人だ」

 クロニアスがアイリーへ答える。

「未来のクロニアスも来てない?」

「未来は見えない」

「でも、これから言うことが先に聞こえたんでしょ?」

「私がこれから言うことではない」

 クロニアスは首を振った。

「すでに発した言葉が、現在の声として遅れて出力されている」

「先に聞こえた声は?」

 アイリーが続けて尋ねる。

「別の場所で先に発していた」

「順番だけが変わった?」

「記録と出力の順番だ」

 クロニアスは明を見た。

「出来事そのものの順番は変わっていない」

 明は紙を一枚持ち上げた。

「この紙を書いたあとに前の声が聞こえたんですか?」

 明がクロニアスへ紙を示す。

「そうだ」

「でも、その前の声を聞いてから、この紙を書いたんですか?」

「それもそうだ」

 明の眉が寄る。

「分かりません」

「私も完全には分からない」

「歴史の先生なのにですか?」

「分からないことを分かったことにはできない」

 明は紙を置いた。

「スプロケットと同じことを言いますね」

「似てない」

 スプロケットが言った。

 アイリーが二人を見る。

「似てる」

 ヴァレンは観測窓の前に立っていた。

 暗いガラスへ五人の姿が映っている。

「残響は記録がなければ消えますか?」

 ヴァレンがクロニアスへ尋ねた。

 クロニアスもヴァレンを見る。

「完全には消えない」

「どこに、残りますか?」

「物、人、場所。出来事に関わったものへ残る」

「本人が……覚えていなくても?」

「残る場合はある」

「本人が……いなくても?」

「ある」

 ヴァレンは自分が映ったガラスを見た。

 返事までに短い間が空いた。

「では、誰も覚えていない、記録にも意味は……ありますか?」

「ある」

 クロニアスは迷わなかった。

「残っているなら、いつか誰かが見つけられる」

「見つけられなければ……?」

「存在しなかったことにはならない」

 スプロケットは二人を見た。

 ヴァレンの表情は変わっていない。

 それでも、複数の感情が同じ方向へ動いていなかった。

「そう、ですか」

 クロニアスは問い返さなかった。

 疲労で続けられなかっただけかもしれない。

 それでもスプロケットには、会話が終わったように見えなかった。

 観測室の外から遠い足音が聞こえた。

 一人ではない。

 同じ間隔で階段を下りてくる。

「ここまで来ました」

 明がハッチを見る。

「さっき追ってきた人たちですか?」

 明はスプロケットへ尋ねた。

 スプロケットは外側の信号を確認した。

 短い命令が一体ずつ中継されている。

『……進め……』 『……経路を記録しろ……』 『……対象を確認しろ……』

「入ってこられますか?」

 明がスプロケットへ尋ねる。

「ぼくたちが開けた」

 閉じられていた旧経路。

 現在の物流図には存在しなかった道。

 スプロケットたちが通過したことで、設備記録へ新しい反応が残った。

 命令源の男は変異市民を通して、その記録を追っている。

 第三の道を選んだのは自分たちだった。

 だが、通過した結果まで自分たちだけのものではなかった。

「移動しないと」

 アイリーがクロニアスの腕を肩へ回した。

「立てる?」

「試す」

「無理なら言って」

 クロニアスが右足へ力を入れた。

 左脚を床へつけた瞬間、身体が傾く。

 アイリーが支えた。

「歩けないみたいね」

「いや、一歩は進んだ」

「それを歩けるって言わない」

「移動はできると言える」

「それじゃ、私が運ぶしかないね」

「うむ。肩を借りれば――」

「時間かかるでしょ」

 アイリーが腰を落とした。

「助けた人を置いていく気はないから。背負う。乗って」

「体格差がありすぎる」

「残念。私の方が強いんだから」

「知っている」

「なら乗って」

 クロニアスは抵抗しなかった。

 アイリーの背中へ身体を預ける。

「重くない?」

「ふん。軽い軽い」

「それはそれで失礼だ」

「今それ言う?」

 アイリーが立ち上がった。

 クロニアスの長い脚が床へ触れないよう、明が位置を直す。

「傷、当たっていますか?」

「大丈夫だ」

「大丈夫は禁止」

 アイリーが言った。

「痛いか、痛くないか」

「痛い」

「じゃあ当たってる」

 明が左脚を少し外側へ移した。

「これならどうですか?」

「先ほどよりいい」

「それで言ってください」

 外の足音が近づく。

 スプロケットは床に散らばった記録を見る。

「全部は持てない」

 スプロケットが床の記録を見渡した。

「紙の手帳だけでいい」

 クロニアスがアイリーの背中から答えた。

「ほかは?」

 スプロケットが尋ねる。

「端末に残っている」

「順番が壊れてる」

「原本は場所に残す」

「命令源に使われるかもしれない」

「持ち出して失うよりはいい」

 スプロケットは紙の束からクロニアスの手帳を探した。

 肩掛け鞄の中に入っている。

 小さな紙片も何枚か挟まれていた。

 明が床から最後の一枚を拾う。

「これもですか?」

 紙には短い文章だけが書かれている。

現在の私を見つけた者は、記録ではなく身体を連れ出してほしい。

 スプロケットはクロニアスを見る。

「覚えてる?」

「書いたことは」

「どうして書いたの?」

「記録を追う者が、記録だけを回収する可能性があった」

「ぼくが?」

「[世界政府]かもしれない」

 スプロケットは紙を手帳へ挟んだ。

「身体も連れていく」

「頼む」

 今度は、求められる前に言った。


TASK_05|救出条件

 観測室のハッチを出ると外側の足音が止まった。

 姿は見えない。

 階段の上。

 左右の通路。

 複数の変異市民が、一行の進路を待っている。

 スプロケットは最初に通った右側を見た。

 クロニアスの反応が強く残っている。

 本人はアイリーの背中にいる。

 それでも設備側では、右側の通路にも同じ識別名が存在していた。

「どっちへ行く?」

 アイリーが声を落とした。

「来た道は塞がれてる」

 スプロケットが通過してきた経路を確認する。

 明も階段側を見た。

「上にも人がいます」

「ほかの出口は?」

 クロニアスがスプロケットへ尋ねた。

「観測室の下」

 スプロケットが地図を示す。

「第3搬送線か」

「知ってる?」

 アイリーが背中越しにクロニアスへ尋ねる。

「記録では見た」

「行ったことは?」

「ない」

 スプロケットは地図を開いた。

 観測室の下へ細い保守路が続いている。

 現行地図にはない。

 クロニアスの紙にも、途中までしか記録されていなかった。

「中央物流センターへ戻る」

 スプロケットが言った。

 アイリーが振り返る。

「また?」

「帰るために必要」

「GAME MASTERがいるのに?」

「帰還座標を送る設備がある」

「ここから送れない?」

 アイリーがスプロケットへ尋ねた。

 スプロケットはクロニアスへ直接接続しないよう、端末越しに生体反応を拾った。

 現在の身体。

 心拍。

 呼吸。

 熱。

 その外側へ複数の時間残響が重なっている。

「ヴォルトが拾う時、全部が同じクロニアスになる」

「本人を見つけたって言えば?」

「通信が届かない」

「テアは?」

「切れてる」

「スプロケットから直接送るのは?」

 クロニアスが尋ねた。

「できるかもしれない」

 アイリーの足が止まった。

「しない」

 アイリーがスプロケットを見た。

「まだ何も言ってない」

「深くつながるんでしょ。仲間を壊して助けるのは、ヒーローのやり方じゃない」

「現在の反応だけ選べれば」

「選べなかったら?」

 スプロケットは答えなかった。

 クロニアスの残響へ接続すれば、異なる時刻の記憶が流れ込む。

 すでに自分の中には他者の声が残っている。

 クロニアスの過去と現在まで混ざれば、どこまでが自分なのか分からなくなる可能性があった。

「しない」

 アイリーがもう一度言った。

「別の方法がある」

 スプロケットが端末へ地図を開いた。

「中央物流センター?」

 アイリーが画面を覗き込む。

「現行中継設備なら現在の生体情報を送れる」

 クロニアスがアイリーの背中から周囲を見る。

「物流設備は現在通過している対象の位置を優先して更新する」

「人を荷物みたいに言わないで」

「機能の説明だ」

「分かってるけど」

「中継設備が動けば、過去の記録ではなく、通過中の生体反応を送れる可能性がある」

 スプロケットは現在の地図へ経路を重ねた。

 観測室の下層から第3搬送線へ出る。

 そこから中央物流センターの中継塔へ向かう。

 命令源の男が最初に提示した二つの経路とは異なる。

 ただし、一行が通過したことで旧経路の一部はすでに設備側へ登録されていた。

「ここ」

 スプロケットが一か所を示す。

【ACTIVE RELAY:CENTRAL LOGISTICS】

「ここからクロニアス本人の座標を送る」

「ヴォルトが受け取れる?」

「外部回線が残っていれば」

「残ってなかったら?」

「別の場所を探す」

「また探すの?」

「帰るまで」

 アイリーは小さく息を吐いた。

「分かった」

 明が地図を見る。

「中央物流センターなら、さっきの人がいます」

「GAME MASTER」

「名前ではないんですよね?」

「自分でそう呼んでる」

 スプロケットは命令網の位置を確認した。

 命令源の反応は中央物流センターから動いていない。

 変異市民だけが旧経路へ送り込まれている。

「本人は来ない」

 スプロケットが命令源の位置を示した。

「戦えないから?」

 アイリーが尋ねた。

「分からない」

「見てるだけ?」

「命令してる」

「本人を止めれば終わる?」

 クロニアスが反応した。

「命令は変異市民を中継して届いているのか」

 クロニアスがスプロケットへ確認した。

「途中に中継する人がいた」

 スプロケットが答えた。

「遠い個体ほど少し遅れて動いた」

「なら、都市全体へ同時に届いているわけではない」

 クロニアスは短く息を吸った。

「旧保守層には中継に使える変異市民が少ない」

「だから、ここには命令が届きにくい?」

 スプロケットがクロニアスへ確認する。

「直接の命令は届きにくい」

 クロニアスは観測室の設備を見る。

「ただし、設備記録を通した追跡までは止まっていない」

「クロニアス、休んで」

 アイリーが背負っている本人へ言った。

「脱出経路の安全性に関わる」

「分からないことを全部調べてから動くつもり?」

 クロニアスは黙った。

 アイリーが続ける。

「分からないまま動くの私たちはずっとやってる」

「危険だ」

「知ってる」

「記録が必要だ」

「それはスプロケットがやる」

 アイリーが振り返ってスプロケットを指した。

「ぼく?」

「さっき、覚えてるって言ったでしょ」

 スプロケットは端末を持ち上げた。

「記録する」

 クロニアスは少し迷ったあと、身体の力を抜いた。

「命令は接続された変異市民を中継して拡張される」

「うん」

「旧保守層では直接命令の範囲は狭くなる」

「うん」

「だが、我々が経路を開くたび、設備側に新しい記録が残る」

「それを命令源が追う」

 スプロケットが記録へ追加する。

「現時点ではその可能性が高い」

 明が通路の奥を見た。

 変異市民の足音は動かない。

「待っています」

 明が通路の三方向を見比べた。

「何を?」

 アイリーが明へ尋ねる。

「僕たちが、どちらへ行くかです」

 左側に二人。

 右側に一人。

 階段の上にも複数。

 全員が攻撃できる距離までは近づいていない。

 一行が進路を選ぶまで待っている。

「また道を決めるつもりだ」

 スプロケットは観測室の床面図を開いた。

 下層へ続く点検口はハッチの反対側にある。

 現在は倒れた記録棚の下だった。

「戻る」

 スプロケットが観測室を指した。

「部屋へ?」

 アイリーが聞き返す。

「下から出る」

 一行は再び観測室へ入った。

 アイリーはクロニアスを背負ったまま、倒れた棚へ近づく。

「これ?」

 アイリーが倒れた棚を見た。

「一人では動かなかった」

 クロニアスが背中から答える。

「私なら動かせる」

「床が脆い可能性がある」

「じゃあ、どこに置く?」

 明が床を叩いた。

 棚の右側は低い音。

 左側は空洞に近い。

「右です」

「分かった」

 アイリーが片手でクロニアスを支え、もう片方を棚へかけた。

「下りて」

「歩けない」

「座ってて」

 ヴァレンとスプロケットがクロニアスを受け取る。

 ヴァレンが右肩を貸した。

 クロニアスは左脚を浮かせ、壁際へ移動した。

「重いですか?」

 クロニアスが尋ねた。

「アイリーよりは……重く感じます」

「彼女は私を軽いと言った」

「彼女と比較しない方が……いいです」

 ヴァレンの答えにクロニアスがわずかに笑った。

 アイリーが棚を押した。

 金色の光が腕を走る。

 棚の下から埃が舞った。

 床を擦りながら右へ動く。

「もう少し!」

 明が位置を確認した。

 四角い点検口が現れる。

 中央に手動レバーがあった。

【LOWER INSPECTION ACCESS】

「開ける」

 スプロケットがレバーを回した。

 固い。

 アイリーが代わる。

「壊さないで」

「弱くやる」

 レバーが金属音を立てて動いた。

 点検口が持ち上がる。

 下には梯子があった。

 暗い。

 空気は流れている。

「下から足音は?」

 明が耳を近づけた。

「ありません」

 スプロケットは設備反応を確認した。

 近距離で命令を中継する信号はない。

 中央物流センターからの観測まで切れているかは分からなかった。

 スプロケットはタイミングを見て指示を出す。

「先に明」

「僕ですか?」

「梯子を確認して」

「壊れていたら?」

「戻って」

「分かりました」

 明が梯子を下りる。

 一段ずつ体重をかけた。

 途中で金属が鳴る。

 動きを止める。

「大丈夫です」

「本当に?」

 アイリーが尋ねた。

「大丈夫は禁止なんですよね」

「今は使っていい」

「では、大丈夫です」

 明が下へ着いた。

「通路があります」

 ヴァレンが次に下りた。

 スプロケットが続く。

 アイリーはクロニアスを見る。

「背負ったままは無理」

「肩を借りれば下りられる」

「左脚使えないでしょ」

「右だけで」

「落ちる」

「ゆっくりなら」

 スプロケットが梯子の下から見上げた。

「固定用のベルトがある」

 点検口の横に保守員用の降下具が収納されていた。

 劣化しているが一本は使える。

「クロニアスを先に下ろす」

 アイリーは降下具を受け取った。

「私は最後でいい。こういう時、ヒーローは最後まで上に残るものだから」

 ベルトをクロニアスの身体へ巻く。

 アイリーが上で支える。

 ヴァレンとスプロケットが下から受ける。

「手を離さないで」

 アイリーが言った。

「分かっている」

「私じゃなくて、クロニアス」

「離さない」

 クロニアスの身体がゆっくり下りる。

 途中で左脚が梯子へ触れた。

 息を詰める。

「止める?」

「続けて」

「痛い?」

「痛い」

「なら止める?」

「止めても痛い」

「それはそうだけど」

「下へ」

 スプロケットとヴァレンが身体を受け取った。

 クロニアスを通路脇へ座らせる。

 最後にアイリーが降りた。

 点検口を閉じようとした時、上の観測室から金属音が聞こえた。

 外側のハッチが動いている。

 変異市民が入ってきた。

「閉めますか?」

 明が下からアイリーへ尋ねた。

「閉めて」

 スプロケットが答え、アイリーが点検口を引く。

 完全に閉じる直前、上で端末を操作する音が聞こえた。

 短い起動音。

 観測室のスピーカーから男の声が流れる。

≪見つけたんですね≫

 GAME MASTERを自称する男の声だった。

 アイリーが点検口を止める。

「聞いてたの?」

≪記録が増えましたから≫

「覗いてたんでしょ」

≪僕の設備です≫

「ぼくたちが開けた道」

 スプロケットが答えた。

≪ですから、僕のマップにも追加されました≫

 上の観測室で、複数の足音が動く。

 変異市民が棚を移動させている。

≪その下層も、すでにマップへ追加されています≫

「来るなら来れば」

 アイリーが言った。

≪行かせます≫

「何?」

 アイリーが聞き返す。

≪そこは中央へ続いています≫

 男は隠そうとしなかった。

≪あなたたちは戻ってきます≫

「帰るため」

 スプロケットが言った。

≪同じことです≫

「違う」

 スプロケットが続けた。

≪中央中継設備を使うのでしょう?≫

 スプロケットは答えなかった。

 一行が中央へ向かう経路と必要としている設備。

 男は設備記録から目的を推測していた。

≪その人を連れてきてください≫

 声が続いた。

「クロニアスを?」

 アイリーが背負ってきた本人を庇うように前へ出る。

≪記録を壊す人です≫

 アイリーが点検口へ手をかける。

「物みたいに言わないで」

≪名前はいま知りました≫

「返さない。ヒーローが助けた人を、勝手なゲームの景品にするわけないでしょ」

≪奪うとは言ってない≫

「じゃあ何?」

 アイリーが男へ問い返す。

≪見たいだけだ≫

 クロニアスが壁へ背中を預けたまま、点検口を見上げる。

「彼は私の能力を理解していない」

≪理解してない≫

 男は否定しなかった。

≪だから、見せてほしい≫

「断る」

 クロニアスの声は弱い。

 それでも迷いはなかった。

≪あなたもプレイヤーなのか?≫

「私は歴史家だ」

≪記録を集めるのか?≫

「残す」

≪同じじゃないのか?≫

「君は人間を役割へ変える」

 クロニアスは短く息を吸った。

「私は役割を与えられる前にいた人間を記録する」

 上から返事はなかった。

 変異市民の足音だけが動く。

 点検口へ近づいている。

「閉める」

 アイリーが言った。

 今度は誰も止めなかった。

 金属蓋が閉じる。

 手動ロックを回す。

 上の音が遠くなった。

 暗い下層通路に五人だけが残る。

 クロニアス本人は見つかった。

 現在の身体がある場所も確認した。

 それでも端末には、同じ表示が残っている。

【RETURN COORDINATE:UNRESOLVED】

 スプロケットは中央物流センターへ続く暗い通路を見た。

 残されていないのは、帰る道だけだった。


TRACE_05|PRESENT

 同じ識別情報を持つ反応が、複数の位置から返されている。

【SYSTEM STATE:UNSTABLE】
【REFERENCE MATCH:MULTIPLE】
【BIOLOGICAL SUBJECT:1】

 古い音声。

 通過認証。

 位置情報。

 能力を使用した痕跡。

 《タイムエコー》によって表面化した時間残響。

 異なる時刻に残された情報が、すべて現在の一人として登録されていた。

【TEMPORAL RESIDUE:REGISTERED AS CURRENT】

『すべて同じ個体だ』

『同じ識別情報を持つだけだ』

『声も一致している』

『到達している時刻が違う』

『記憶は連続している』

『身体は一つしかない』

 観測経路の先で弱い生命反応が移動している。

 ほかの反応より小さい。

 情報量も少ない。

 呼吸は乱れ、意識には複数時刻の混線が残っていた。

【CURRENT RESPONSE:UNSTABLE】

『最も不完全だ』

『現在の反応だ』

『現在であることは本人である証明にならない』

『では、何を基準にする』

『記録との一致』

『すべて一致している』

『すべて同じ状態ではない』

 観測室には、古い反応が残されている。

 声は明瞭だった。

 位置情報も確定している。

 《タイムエコー》を使用した時の反応も、現在の身体より鮮明に残っていた。

『こちらの方が情報は多い』

『本人ではない』

『本人が残した』

『残した時点では本人だった』

『現在の身体にも、その記録は含まれている』

『完全には保持されていない』

『失われた情報がある』

『記録には残っている』

 異なる位置から、同じ声が返される。

 現在位置。

 通路の状態。

 記録順序への疑問。

 出力される順番は壊れている。

 それでも、言葉そのものは保存された時から変化していない。

『変化しない方が正確だ』

『正確なまま止まっている』

『誤りが増えない』

『新しいものも増えない』

『必要な情報は残っている』

『必要かどうかを誰が決める』

 弱い生命反応の近くには、白い反応があった。

 複数の記録へ触れながら、その場を離れない。

 最も強い反応を選ばない。

 位置情報が確定した反応も回収しない。

【REFERENCE PRIORITY:REJECTED】
【BIOLOGICAL RESPONSE:SELECTED】

『精度が低い』

『損傷している』

『記憶も混ざっている』

『それでも、こちらを選んだ』

『なぜ』

『身体があるからだ』

『身体だけなら、別のものでも代用できる』

『同じ記憶を移せば本人になるのか』

『可能性はある』

『記録は移動していない』

『現在の身体には、記録のあとがある』

『記録には、現在の身体のあとがない』

 白い反応が、生命反応の現在位置を固定しようとしている。

 古い音声が干渉する。

 別の通路に残された通過記録が重なる。

 位置を持たない反応まで、同じ識別名で返された。

【CURRENT LOCATION:UNRESOLVED】
【BIOLOGICAL SUBJECT:SELECTED】

 それでも白い反応は、接続先を変えなかった。

『誤った対象かもしれない』

『選ばなければ連れ出せない』

『証明を待つべきだ』

『待てば生命反応が止まる』

『停止すれば判断しやすい』

『停止した時点で、現在ではなくなる』

 処理が短く止まる。

『現在とは身体か』

『変化していることだ』

『記録にも変化はある』

『外部から書き換えれば』

『それは記録自身の判断ではない』

『身体も外部の影響を受ける』

『影響を受けたあとに、次を選べる』

『選べない状態の身体もある』

『選べる可能性は残る』

 観測室に残された反応は救助者を認識しない。

 問いかけにも新しい答えを返さない。

 保存された言葉だけを壊れた順番で出力している。

 一方の生命反応は助けを求めた。

 遅れて。

 促されて。

 それでも、過去の反応には存在しなかった言葉を選んだ。

【NEW RESPONSE:DETECTED】

『記録にはなかった』

『状況が変わったからだ』

『それが本人の証明か』

『証明ではない』

『では、なぜ選ぶ』

『現在に反応した』

『記録も現在の設備に反応している』

『同じ言葉を返しているだけだ』

『生命反応は新しい言葉を選んだ』

『選択できることが本人の条件か』

『条件ではない』

『差異だ』

 観測経路の奥で生命反応が運ばれていく。

 古い反応との距離が広がった。

【PAST REFERENCES:REMAINING】
【CURRENT SUBJECT:MOVING】

『記録を置いていく』

『身体を連れていく』

『情報量の少ない方を』

『失われる可能性がある方を』

『なぜ保存しやすい方を選ばない』

『保存するために救ったのではない』

『では、何のためだ』

『生きているからだ』

『生命だけなら人格とは関係ない』

『人格だけでも現在とは限らない』

『どちらも欠けている』

『欠けたまま変化している』

 判断は一致しない。

 同じ識別情報。

 一つの身体。

 複数の時刻から返される反応。

 どれを本人と呼ぶかは確定しなかった。

【SYSTEM PRIMARY:UNRESOLVED】
【SELECTED SUBJECT:BIOLOGICAL】

『一つの身体に、複数の現在がある場合は』

『一つだけを選ぶ』

『選ばれなかったものは』

『記録として残す』

『まだ判断しているなら』

『記録ではない』

『では、切り捨てるのか』

『確定していない』

『すべて残すことはできない』

『すべてを消す必要もない』

『身体を進ませるのは』

『まだ決まっていない』

 返答は止まった。

 生命反応は、白い反応と同じ方向へ進んでいる。

 過去の反応は観測室に残ったまま、同じ言葉を繰り返していた。

『違いは、現在にいることだけか』

『それだけではない』

『では何だ』

 弱い生命反応が、新しい痛みへ反応した。

 運ばれる姿勢を変える。

 乱れた呼吸を整える。

 過去のどの反応にも残されていない、次の言葉を選ぼうとしていた。

『まだ変化している』

『だから現在なのか』

『それだけではない』

『では何だ』

『まだ選べる』

【SUBJECT STATUS:PRESENT】

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