煤けた鉄骨が軋むたび、薄闇に赤錆の粉が舞った。 誰にも使われなくなって久しい廃工場には、オイルと鉄の臭いが染みついていた。 空気は重く、湿気を含んだ冷気が地面を這っている。崩れた梁の隙間からは、かすかに風が鳴く音がした。
廃工場の奥。シャッターの隙間から差す灰色の光の下で、リク・ロクジョウは粗末な椅子に沈み込んでいる。 左腕の義手は冷え切り、左目の義眼だけが淡い青白い光を灯す。右手にあるのは、傷だらけで凹んだスキットル。塗装は剥げ、蓋の締まりも悪い。中には、安いが強い酒が少しだけ残っていた。 彼はそれを口に運ぶでもなく、ただ指先で転がしていた。 蓋がカタリと鳴るたびに、鉄骨の上から垂れ下がった配線が小さく揺れ、そこにあった“沈黙”がひび割れていくようだった。
「遠すぎるんだよ、ここ」
足音もなく現れた黒のロングコートが、朽ちたボンネットの上に腰を下ろす。 ラズ。 赤い発光ラインが走るスーツ。埃をまとった髪先と靴底の泥が道中の過酷さを物語っていたが、笑顔だけは傷ひとつなかった。
「散歩気分で来たら山三つ分だったよ。街路灯は倒れていて、自販機は“電源オフ”ってオチよ?」
ラズは飲み干した缶ジュースを握りつぶして放り捨てる。
「それに歩数をカウントしてたら、途中でメモリがカンストするし……もう、データが泣いてるよ」
返事はない。リクはスキットルを回すのをやめ、わずかに視線を下げた。
「無視されるのは想定内さ」
ラズは構わずリクの前にゆっくりと歩いて立っていた。
「そうそう。君の“データ”がそう言ってる」
端末を操作してデータが怒涛のごとく流れていく。
「“動けば全員救い、沈黙すれば世界が止まる”……最盛期の君は、そんな神話で飾られてたらしいね。エージェント・ゼロさんよ」
廃タイヤを蹴って転がしながら、ラズは続ける。
「でも今の君は、スクラップと安酒の番人。その義手と義眼を造った“超天才”が見たらブチ切れるだろうね。『こんな錆びさせるためじゃない』ってさ。それとも、あれかな。“記憶されなかった過去”の重みを保存するための装置?……ずいぶん不便な記録媒体だ」
スキットルを握るリクの右手がかすかに力む。安酒を口に含んで飲み込む。 喉が焼けるような感覚と記憶を奪ってくれる劇薬を受け入れる。その選択肢を選び続けることこそが、リクの「現在」だった。 それは逃げ道だ。けれど彼は、過去からも罪からも逃げないと決めていた。どれだけ苦くても、どれだけ無意味に見えても、“思い出している”ことが、生きている証だった。
「さてさて。僕だけが一方的にしゃべるのはつまらないから、これを出すよ」
ラズは端末を弾き、ホログラムを呼び出す。
【再生ログ:記録者=H.H./対象=R.R.】
空中に浮かんだ記録ログが淡く点滅する。
「そうそう、ヘンリック・ホフマンの記録も見たよ。“エージェント・ゼロは正解を選びすぎる。命令でも感情でもなく、自分の正義だけを”。ホフマンは、それが羨ましく、そして怖かったらしい。『一度でも選び損ねれば、世界が崩れる』。君が背負ってたのは、たぶんそういう呪いだ」
スキットルの蓋が閉じる乾いた音が響いた。リクは視線を動かさないまま、スキットルを握り込み、そのへこみを指先でゆっくりなぞる。
──もう片方の手が、腰の奥に触れた。
ホルスターに収められた、旧式の大型リボルバー。六発しか入らないが、手入れだけは欠かしていない。弾は入っていない。撃たなくてもいい。ただ、持っていることで、自分が“まだ選べる”ことを思い出せる。
ラズの言葉が途切れ、少しだけ空気が止まった。その静けさが、かえって緊張を際立たせた。
「ところでさ……ケイト・クロスという名前。まだ忘れてないよね?」
リクの中で、何かが軋んだ音を立てた気がした。金属椅子が軋む。義眼の光が一瞬だけ揺れた。空気の温度が変わったかのような、静かな緊張。
「はっは、やっぱり効く効く。データと記憶は食い違ってない。なんだか“タイトルを知らない作品”を探し当てた時の感動みたいだよ。ああ、そういえば。彼女、君に何て言ったんだっけ?」
ラズは掌に黒い球体を現す。脈動する赤い光。呼吸しているように、規則正しく、穏やかに波打っていた。

「招待状。兵器じゃないから安心して。とは言っても、使い方によっては兵器になるかもしれないけどね」
球体をジャグリングするように弄ぶラズにリクは反応しない。
「これは“選ぶ”ためだけの装置。触れてもいいし、放り投げてもいい。あんたの自由にしてもいい。僕って結構優しいと言われるんだ……たぶん」
球体を床に置くと、瞬時に磁気で静かに安定する。
「あっ、そうそう。ここまで来るのに時間がたーっぷりあったから、君へのメッセージを考えていたんだ」
ラズが笑顔で人差し指を立てながら俯くリクに視線を合わせる。
「あの[トーキョー・シティ]のパン屋はもう香らない。登校用のホログラム標識は空を指したまま。機械的な『いってらっしゃい』の音声が流れる横で、誰も扉をくぐらない」
身振り手振りで表現するラズにリクは当然のように反応を示さない。
「うん、なんだか空虚な感じだね……君が守った街が毎朝迎える今の現実。寂しいと思わない?」
リクは顔を上げず、ただ息を深く吐いた。椅子を離れようとしたが膝が崩れ、その場に沈む。 ラズは反応を見るためにゆっくりと屈んで表情を覗き込む。
そこには光すらないような瞳の男と、もうマトモに動かない義手と義眼が見えるだけ。
「さてさて。こう見えても僕は忙しんだ。不眠不休で仕事をしないといけない。まるでブラック企業の新入社員みたいな感じかな? それとも雇われの契約社員かな?」
ラズは立ち上がる。背を向けて手を振った。
「それじゃ、次はもっと近いところにしてよ。脚が棒だ」
笑顔だけが残光のように残り、ラズは梁の影へと消えた。静けさの中にあった異質な存在が消えても、招待状だけが残されていた。
カツン。
すると、シャッターの隙間が揺れ、ボロボロの服装をした小柄な少年が顔を覗かせる。
リクは気づいているが動く事なく地面を見つめている。
少年がゆっくりと前に出てくると、その目は球体を見つけて一瞬大きく見開かれたが、恐怖とも好奇心ともつかない表情でその場に立ち尽くす。
遅れて、複数の若者たち[アウトサイダーズ]が侵入する。その誰もが飢え、渇き、歪んだ皮膚と濁った目をしていた。
「へっへ、よく案内したな、ボウズ」
一人が少年の肩を叩き、笑いながらリクの方を顎で示す。
「おい!ジジイ、飲んでる余裕あるじゃねえか!あん?」
「見ろよ!あの義手も義眼。売りゃ食い物になるぜ!」
「ひゃっはっはっ! 本当だ。今日はうまい飯にありつけそうだぜ!」
鼻息が荒くなるアウトサイダーズの若者たちとは対照的に、少年は目を伏せ、リクを見ないようにうつむいた。 リクは無言のまま椅子にもたれ、身じろぎもしない。 アウトサイダーの一人が笑顔のまま拳が飛び、鈍い音とともにリクの唇が裂ける。膝を蹴られ、椅子が軋む。だが、抵抗はしない。殴り倒されるリクを横目に、少年が脈動する球体に近寄る。 吸い寄せられるように手を伸ばしかけたその瞬間、何かが本能を引き裂いた。球体の奥で、誰かの悲鳴のようなものが聞こえた気がした。
──ほんの一瞬、街の光景が焼け落ちるような、幻視のような何かが。
背筋を走る戦慄。彼は恐怖にかられ、声も出せずにその場から走り去る。 それを見ていた一人のアウトサイダーが球体に目を留める。
「なんだこれ?」と呟き、手を伸ばしかけた──その刹那、リクの義眼に強い蒼い光が走る。 顔を上げる。 全身を殴られ、血まみれでありながら、その目だけが鋭く光を放つ。 言葉はない。だがその“目”は、かつての戦場で何百という命を制した者のそれだった。
殺気が一瞬にして場を支配する。空気が締めつけられる。笑っていた若者の顔から、瞬く間に色が抜け落ちる。 球体に手を伸ばしかけていた指が、かすかに震えていた。そして、若者の一人が悲鳴をあげて逃げ出すと、他が続くように散っていった。
工場に残ったのは、血と埃と、潰れかけたスキットル。リクは仰向けに倒れ、ボロボロの天井に空いた穴から差す濁った空を見上げる。 義眼の光が弱々しくなり、呼吸は浅い。軋む音を立てながら、リクは義手を動かした。金属の関節がかすかにきしみ、鈍い音を鳴らす。横に転がる球体を手繰り寄せ、ただ、見つめた。
……そこにある光は、過去をなぞる炎ではなく、まだ誰も選んでいない分岐だった。
それは、進むべき道を照らす灯火ではなく、誰かの選ばなかった未来が染みついた、名もなき星のようだった。ふっとリクは小さく息を吐いた。笑ったのかもしれない。嘆息かもしれない。
そして、声にならない呼気のあと……
「……約束って……重てぇな」
『……守ってくれるって、言ったじゃない……』
どこかで聞いたはずの声が、ふと耳の奥をかすめた気がした。 風のせいだろうと、リクは思った。 球体は答えない。蒼と赤の光だけが、わずかに脈打ち、重なり合う。
誰の手にも届かず、誰の記憶にも刻まれない約束は、まるで星座のない夜空のように──ただそこに在るだけだった。


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