[ガンマチーム]が第4衛星ドーム・カナメへ到着したのは薄曇りの朝だった。
メインドームから離れた衛星ドームは半透明の天蓋越しに弱い陽光を取り込んでいる。
静まり返った連絡地下道を抜けた先に[統律特命局]第4方面支部の重厚な自動扉があった。
「……なあ、ジャン君。ここ、何か空気薄くねぇか?」
リョウが鼻をすすり、手にしていたプロテインバーを見る。
「気圧制御の誤差ですね。衛星ドーム側の環境調整に少し遅れがあります」
ジャン=ジャック・ジャカールが端末を確認した。
「ただ……それだけじゃないかもしれません」
アビゲイルは二人の会話を聞きながら扉の認証部へ指を置いた。
【IDENTIFICATION:GAMMA-01】
【ACCESS:GRANTED】
扉が左右へ開く。
統律特命局の第4方面支部。
内部の温度は一定に保たれていた。
天井の循環ファンが低い音を立て、白い空調ノイズが室内を満たしている。
アビゲイルは先頭でブリーフィングルームへ入った。
正面の大型スクリーンには一つの映像が停止していた。
A.T.C.F.――通称、南極刑務所。
第六ゲート前の監視映像だった。
赤い警告灯。
閉鎖された隔壁。
誰もいない通路。
画面右下では三つの識別信号が並んでいる。
【DELTA-01:SIGNAL LOST】
【DELTA-02:SIGNAL LOST】
【DELTA-03:SIGNAL LOST】
最後のフレームから先には何も記録されていない。
戦闘痕もない。
遺体もない。
三人だけが記録から消えていた。
アビゲイルはスクリーンから目を離さなかった。
その隣でジャンが椅子へ浅く腰掛ける。
長いドレッドヘア。
黒縁の特殊メガネ。
手元の端末には南極から回収された断片ログが並んでいた。
後方ではリョウがプロテインバーを噛んでいる。
いつもの咀嚼音は小さかった。
ブリーフィングルーム中央へ全身大のホログラムが投影された。
完全に白くなった髪。
地味だが仕立ての良い黒いスーツ。
疲労を隠さない顔。
統律特命局の長官、ジェフリー・モーガン。
その右手では古びた銀色のコインがゆっくりと回されていた。
『これがA.T.C.F.から回収できた最後の記録だ』
低い声が室内へ響く。
『第六封印層周辺で、監視、認証、電力配分、熱源記録に同時異常が発生した』
画面が切り替わる。
【GATE STATUS:CLOSED】
【PASSAGE LOG:DETECTED】
【THERMAL SOURCE:POSITIVE】
【VISUAL TARGET:NONE】
『施設は停止していない』
ジェフリーは続ける。
『正常に動いているつもりで、矛盾した処理を繰り返していた』
ジャンが画面を見つめる。
「デルタチームは極地特異収容施設の実地運用研修中だったはずです」
『ああ』
「異常発生後に第六ゲートへ?」
『現場判断だ』
ジェフリーが答える。
『P.C.G.の到着が隔壁エラーで遅れた。施設管理本部も判断を保留した。その間に最深部へ侵入者が入る可能性があった』
ジャンの指が止まる。
「フィンセントなら行きますね」
『私もそう判断している』
「三人の現在位置は?」
『不明だ』
ジェフリーは言葉を濁さなかった。
『全員消息不明。通信途絶。生体信号も取得できていない』
リョウの手が止まった。
新しい菓子袋へ伸びかけていた指をそのまま引っ込める。
「……死んだって確認は?」
『ない』
ジェフリーの答えは短かった。
「なら、まだ決めつける必要はねぇな」
リョウはプロテインバーの残りをポケットへ戻した。
アビゲイルがジェフリーを見る。
「A.T.C.F.の異常は現在も継続していますか?」
『南極圏の主要な通信波形異常は沈静化した』
ジェフリーの指が動く。
『ただし、別の問題が発生した』
スクリーンが切り替わる。
トーキョー・シティ。
高層建築。
人工空。
閉鎖された交通網。
その路上で市民が次々と倒れている。
痙攣。
呼吸異常。
筋組織の膨張。
皮膚変色。
そして再び立ち上がる。
死者ではない。
画面上の生体表示は今も反応を返している。
だが、動きは明らかに正常ではなかった。
目的もなく歩く者。
周囲へ襲いかかる者。
頭を抱え、何かを叫び続ける者。
身体の一部だけが異常に変形している者。
「生体反応は残っています」
ジャンが即座に言った。
「死亡個体ではありません」
『分かっている範囲ではな』
ジェフリーが答える。
『感染症の兆候も確認されていない』
ジャンは映像を拡大する。
「……見た目だけなら、ずいぶん悪趣味なサバイバルホラーですね」
リョウが横目を向ける。
「それ、ゲームの話?」
「映画やゲームで何度も使われた表現です。ただし――」
ジャンが市民の生体データを表示した。
「これは蘇生ではありません」
複数の波形が重なる。
「生体活動は継続している。むしろ一部の身体機能は事件前より上昇しています」
「ネクスか?」
リョウが尋ねる。
「似ています。でも安定した能力発現とは違う」
ジャンは画面を切り替える。
「人格崩壊、身体変異、認知異常、不完全な能力発現。個体ごとの差が大きすぎます」
「原因は?」
「まだ分かりません」
ジャンは即答した。
「ただ、都市全域でほぼ同時に発生している」
ジェフリーが別の情報を表示する。
『ANIの管理系統にも同時刻から複数の異常が出ている』
【EVACUATION PRIORITY:ALTERED】
【CITY ACCESS:DENIED】
【SENTIRET DIRECTIVE:REASSIGNED】
【CIVILIAN PROTECTION:DEPRIORITIZED】
『自然発生と見るには同時性が高すぎる』
ジェフリーは言った。
『誰かが仕掛けた可能性を排除していない』
アビゲイルは映像へ視線を戻した。
市民たちが歩いている。
同じ方向。
同じ速度。
自分の意思を失ったように。
かつての自分も命令へ従うことを正しいと考えていた。
命令されたから。
必要だと言われたから。
結果が出るから。
それを疑わず正しさとして受け入れていた時期がある。
アビゲイルの指先が胸元のクロス型ペンダントへ触れた。
(……正しさだけが歩く世界に希望はあるのだろうか)
答えは出ない。
それでも問いだけは消えなかった。

『もう一つある』
ジェフリーの声がアビゲイルの思考を切った。
『トーキョー・シティにはガンマより先に[ワイルドカード]を投入している』
リョウの表情が変わる。
「あの精鋭部隊ねぇ」
『そうだ』
「連絡は?」
『残念ながら途絶した』
ジェフリーが表示時刻を確認する。
『投入から80時間。現在まで応答なし』
「……あいつらが黙るなんざ、冗談にならねぇぞ」
リョウの声から軽さが消えた。
アビゲイルも何も言わなかった。
マナイア・ケア。
彼女にとってはただの特殊部隊指揮官ではない。
軍学校時代に現場指揮を教えた人物でもある。
「ワイルドカードの任務は?」
アビゲイルが尋ねる。
『二つだ』
ジェフリーが答える。
『要人ミーラ・マリクの救出。そして特殊解析部門が保有していたコア・データの回収』
画面へ人物情報が表示される。
【MEERA MALIK】
【WORLD GOVERNMENT CENTRAL SCIENCE INSTITUTE】
【SPECIAL ANALYSIS DIVISION】
【STATUS:SIGNAL LOST】
『生体反応はすでに消失している』
ジェフリーは続ける。
『ただし死亡確認ではない』
画面が最後の監視映像へ切り替わる。
高層施設の屋上。
強風。
白衣を着た人物の背中。
映像は数秒後に途切れた。
『最後に確認された生体反応と、この映像を起点に追跡する』
アビゲイルが頷く。
「任務目標は?」
『第一目標、ミーラ・マリクの捜索と保護』
ジェフリーが続ける。
『第二目標、ワイルドカードの状況確認』
「都市異常の調査は?」
『可能な範囲で行え』
ジェフリーは短く間を置いた。
『ただし、原因究明のためにチームを失うな』
アビゲイルの視線が止まる。
その言葉はかつてマナイアから教えられたものと似ていた。
ジャンが転送ログを自分の端末へ読み込む。
その時だった。
画面の末端へ一行だけ見慣れない記録が混ざった。
【REFLOG / SOURCE:UNRESOLVED】
【Δ.H0:TRACE DETECTED】
【DURATION:0.8 sec】
【FORMAT:UNMATCHED】
ジャンの指が止まる。
「……長官」
『どうした?』
「転送ログに統律特命局でもANIでもない形式が混ざっています」
アビゲイルが端末を覗く。
「Δ.H0?」
「識別名なのか、エラーコードなのかも分かりません」
ジャンが過去記録を検索する。
「南極の標準ログ形式とも一致しない」
「消せるか?」
リョウが尋ねる。
「消す理由がありません」
ジャンは端末を閉じなかった。
「分からないなら残します」
アビゲイルはジェフリーを見る。
「このコードについて、長官は?」
『知らない』
ジェフリーは即答した。
『こちらでも照合させる』
「了解」
アビゲイルが姿勢を正す。
「任務、承知しました」
ジャンとリョウも立ち上がった。
「ガンマチーム、出動準備に入ります」
三人が敬礼する。
ジェフリーも短く応じた。
通信が終了する。
ホログラムが消えた。
リョウが自動扉へ向かいながら言う。
「……帰ってきたら、ラーメンな」
ジャンが横を見る。
「今それを言います?」
「こういう時だから言うんだよ」
「自腹でお願いします」
「なんでだよ!」
アビゲイルは振り返らなかった。
「二人とも移動する」
「ハイハイ」
「了解です、リーダー」
三人の姿が自動扉の向こうへ消えた。
⸻
統律特命局本部。
長官室。
ジェフリー・モーガンは通信終了後もしばらく立ったままだった。
机上には先ほどガンマへ送ったものと同じ資料が残されている。
南極。
トーキョー・シティ。
デルタチーム。
ワイルドカード。
ミーラ・マリク。
そして意味の分からないΔ.H0。
ジェフリーは椅子へ座った。
右手の中で古いコインをゆっくりと回す。
その時。
【SECURE LINE:EXTERNAL OVERRIDE】
【AUTHORIZATION:UNRESOLVED】
ジェフリーの眉が動いた。
スクリーンが自動的に点灯する。
映し出されたのは一人の老人だった。
灰色の三つ揃い。
中折れ帽。
老いている。
だが崩れてはいない。
口元には紙巻煙草。
銀色のZippoが開く。
カチッ。
火がついた。
「また彼らかね、ジェフリー」
Mr.X。
ジェフリーは彼が世界政府のどこに属しているのか正確には知らない。
知っているのは何十年も前から重要な判断の周囲にこの男がいるということだけだった。

「現場へ出せる中では最も適任だ」
「ガンマチーム」
Mr.Xは煙を吐いた。
「観測を優先する三人か」
「だから選んだ」
「彼らへ何を伝えた?」
「確認できた事実だけだ」
「Ωという名称は?」
ジェフリーの指が止まった。
「出していない」
「賢明だ」
「私自身、名称以上のことを知らされていないからな」
短い沈黙。
Mr.Xは否定しなかった。
それが答えだった。
「20年以上だ」
ジェフリーは言った。
「名称。危険度。断片的な記録。いつもそこまでだ」
「必要な情報は必要な時に渡る」
「それを決めているのは誰だ?」
「構造だ」
「便利な言葉だな」
Mr.Xの表情は変わらない。
「トーキョーの異常は過去の記録と完全には一致していない」
ジェフリーが目を細める。
「どういう意味だ」
「既存の構造だけでは説明できない要素が混じっている」
「誰かが計画を変更した?」
「断定するには情報が足りない」
「珍しいな。あなたがそう言うのは」
「私も観測できないものを知っているとは言わない」
Mr.Xは煙草を灰皿へ近づけた。
「だからガンマを出した判断には反対しない」
ジェフリーは背もたれへ身体を預けなかった。
「私は知らない計画の中へ部下を送った」
「君は昔からそうしてきた」
「昔とは違う」
「何が?」
ジェフリーは掌のコインを見る。
「昔は結果を出せる人間を選んだ」
指先で縁をなぞる。
「今は戻って来られる配置を選ぶ」
「任務達成率は落ちる」
「壊れれば次がない」
Mr.Xは数秒ジェフリーを見ていた。
「君は変わったな」
「現場を見すぎただけだ」
「それを変化と呼ぶ」
ジェフリーは返さなかった。
Mr.Xが煙草を持ち直す。
「Δ.H0については?」
「知らない」
「珍しいな」
今度はジェフリーが返した。
Mr.Xの目が少し細くなる。
「こちらでも定義できていない」
「なら、ガンマには?」
「伝えない」
「なぜだ」
「定義できないものへ先に意味を与えるべきではない」
Mr.Xは静かに言った。
「観測結果を歪める」
ジェフリーはコインを握る。
「その判断だけは同意する」
「では、今はそれでいい」
「待て」
Mr.Xの指がZippoへ伸びる前にジェフリーが止めた。
「もしこちらが知らされていない情報でガンマが危険になるなら」
声は低い。
「その時は私の権限で引き戻す」
「世界政府の判断と衝突しても?」
「私は[統律特命局]の長官だ」
ジェフリーは答えた。
「部下を配置する責任は私にある」
Mr.Xは何も言わなかった。
数秒後。
「そうか」
Zippoの蓋が閉じる。
カチリ。
通信が切れた。
スクリーンが暗くなる。
長官室に静けさが戻った。
ジェフリーは掌を開く。
古いコイン。
表か裏かは確かめない。
答えを決めてもらうためのものではない。
自分で決めたことを忘れないために持っている。
ジェフリーはガンマチームの出動記録を開いた。
【GAMMA TEAM:DEPLOYMENT AUTHORIZED】
【MISSION PRIORITY:RESCUE / OBSERVATION】
【FIELD DISCRETION:GRANTED】
最後の一行を見つめる。
現場裁量。
正しい命令だけでは人を救えないことがある。
ジェフリーはコインをポケットへ戻した。
「……正しさだけじゃ、歩けないか」
誰もいない長官室で、その言葉だけが残った。


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