Scene.6a ― 「観測断片:Δ.H0」

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オリジナル小説

【補助観測ログ M-04】

 本記録は、統律特命局傘下の記録端末M-04による自動送信記録である。  観測対象ログΔ.H0──再現率:0.02%/信頼値:不明。
 本記録には、映像・音声・触覚・熱源データの一部が欠落しています。

 衛星通信は安定していた。──少なくとも、数分前までは。

 暗い観測室。
 周囲を満たすのは、空調のわずかな唸りと、冷却ファンの断続音。

 冷気は皮膚を噛むように張りつき、どこか湿り気を帯びていた。
 視界の隅では、埃がゆっくりと舞い、誰もいない空間に“時間の停滞”だけが支配している。
 この部屋は、記録を読むためだけの空間。命の匂いは、最初からなかった。

 発光するモニタの光だけが、私の横顔を浮かび上がらせている。
 端末上には、複数の映像ログが再生されていた。

 そのうちの一つだけ──なぜか「観測不能」と表示される。
 何度試しても同じ。ログは存在する。データも正常。
 それでも、その一点だけが再生されない。

 まるで、“そこにいた存在”だけが欠けているかのように。
 私は椅子から動かず、静かに再生を繰り返す。
 感染区域の中心。感染者が群れを成し、徘徊する。その中に──少女が、ひとり立っていた。

 だが、周囲は反応しない。
 接触なし。熱源反応なし。空間の構造そのものが、彼女の存在を回避している。

──Δ.H0。

 かつて、分類不能の“存在因子”として記録され、永久保留とされた記号。  この目の前で、再びそのラベルが浮かぶとは。

 私は、可能性を一つずつ洗い出していく。

──A:ログデバイスの劣化による視覚補正障害。
──B:陽電子干渉による映像構造破損。
──C:意図的な情報消去。あるいは、存在そのものの位相異常。

 どれも、観測理論としては成立しない。だが、再生は止まらない。
 私の脳裏にも、過去の演算が再起動し始める。

「……興味深いわね」

 この感覚を、私は忘れたことがない。
 理論が届かない場所に触れたとき、脳の奥底で微細な電流が弾ける。
 それは恐れではなく、快楽に近い衝動だった。

 “Δ.H0”既存のいかなる勢力にも属さず、記録をすり抜ける存在。
 それは、観測不能というより、観測そのものを拒絶する因子のように思えた。

 私は、かつてケイト・クロスの助手だった。
 彼女は、常に“理屈では足りない”と言っていた。観測官とは、定義ではなく“定義し直す”者だと。
 その言葉だけが、私の中で今も焼きついている。

 彼女の死後、ある極秘研究の後任として配属され、機密指定の中で“理解されざる構造”を追う日々が始まった。
 世界政府は今でも私を“観測官”と呼ぶが──私はその肩書きを借りて、自らの探求を続けている。

 この世界には、進化を語る者が多すぎる。
 だが、進化の果てを“見つけた”者は私だけだ。

 他の者たちはただ、確率に沿って蠢くだけの未完成群。
 私の視界には入らない。必要なのは、正しく“選ばれる側”の資質。
 それを持たぬ者は、ただ沈黙すべきだと、私は知っている。

 そのために必要なのは、あらゆる可能性の収束分析。
 利用できる手段は選別し、不要な枝は切除する。

──RΩ(ラズ)は強制進化を加速させた。
──EΩ(EVA)は演算中枢。創発性に欠けるが、反復には優れる。
──AΓ(アビゲイル)は未成熟な統率機。適応力は高い。
──JΓ(ジャン)は情報解析特化。感情面に不安。
──RΓ(リョウ)は粗雑な出力型。制御には難あり。
──MW(マナイア)は戦闘不能。破棄予定。
──Z(リク)は観測不能。過去遺物。統計より除外。

 すべて、素材としての評価だ。
 私にとって、人物の価値とは収束確率にすぎない。

 だが、Δ.H0だけは分類不能。
 “収束”の先に干渉し、統計を乱す。

「観測結果なし、反応なし、そして……名前もない」

 それでも、演算モデルは揺らいだ。
 未来予測のはずのシミュレーションが、微細に波打っている。

 これは、進化でも退化でもない。新たな変数。

 端末のスクリーンを閉じようとしたとき、不意にポケットの内側で異物に触れた。
 小さな硬質の輪。感触だけで、正体はすぐに分かる。  ……そういえば、そんなものもあったか。

 音を持たない遺物。過去の音声の残響のような、忘れ去られた接点。
 誰のものだったのかすら曖昧なまま、私はそれを手放せずにいた。まるで、空虚な円環が私の執着を封じているように。

 そのとき、端末に通知が走った。
 指先に残る冷たさを払い落とすように、私はそれをポケットに戻し、画面に視線を戻す。

『外周エリア:制圧型ネクス群の移動パターンが逸脱』

 画面をスクロールし、座標ログを拡大する。
 R-3群、S-07……すでに廃棄されたはずの断片群Fが、再び動き始めている。

「……分裂した記録が、また“同期”を始めている?」

 直感が警告していた。
 これは、偶然ではない。

 意思なき構造に、なぜか“意図”が混ざっている。
 観測不能であるという事実もまた、ひとつの結果。

 私は立ち上がる。

 演算モデルは未完成であり、選別も未了。
 けれど──それよりも先に、私自身が“選ばれる”可能性があるという予感があった。 
 観測者が観測対象になる。
 それは、かつてケイトが最も恐れていた構造だ。

 未来演算モデルは、崩壊していない。
 だが、そこに入力されるべき“前提”が、欠けている。

 “Δ.H0”はただの記録外ではない。
 これは、統計の外に立つ何か。

 記録では足りない。
 私自身が、観測しなければならない。

 その瞬間、ノイズ補正中の端末に、“記録されていない音声”が挿入される。

 ノイズの中に、ひとつだけ、輪郭を持った“ことば”があった。
 それは誰かの名前のようで、警告のようで、祈りにも聞こえた。
 聴き取れたはずなのに、意味だけが手の中から滑り落ちていく。

『……こ、えて……』

 発信源:不明。  解析:不能。

 しかし──この声を、私は知っている気がした。

(ログ終了)

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