【補助観測ログ M-04】
本記録は、統律特命局傘下の記録端末M-04による自動送信記録である。 観測対象ログΔ.H0──再現率:0.02%/信頼値:不明。
本記録には、映像・音声・触覚・熱源データの一部が欠落しています。
衛星通信は安定していた。──少なくとも、数分前までは。
暗い観測室。
周囲を満たすのは、空調のわずかな唸りと、冷却ファンの断続音。
冷気は皮膚を噛むように張りつき、どこか湿り気を帯びていた。
視界の隅では、埃がゆっくりと舞い、誰もいない空間に“時間の停滞”だけが支配している。
この部屋は、記録を読むためだけの空間。命の匂いは、最初からなかった。
発光するモニタの光だけが、私の横顔を浮かび上がらせている。
端末上には、複数の映像ログが再生されていた。
そのうちの一つだけ──なぜか「観測不能」と表示される。
何度試しても同じ。ログは存在する。データも正常。
それでも、その一点だけが再生されない。
まるで、“そこにいた存在”だけが欠けているかのように。
私は椅子から動かず、静かに再生を繰り返す。
感染区域の中心。感染者が群れを成し、徘徊する。その中に──少女が、ひとり立っていた。
だが、周囲は反応しない。
接触なし。熱源反応なし。空間の構造そのものが、彼女の存在を回避している。
──Δ.H0。
かつて、分類不能の“存在因子”として記録され、永久保留とされた記号。 この目の前で、再びそのラベルが浮かぶとは。
私は、可能性を一つずつ洗い出していく。
──A:ログデバイスの劣化による視覚補正障害。
──B:陽電子干渉による映像構造破損。
──C:意図的な情報消去。あるいは、存在そのものの位相異常。
どれも、観測理論としては成立しない。だが、再生は止まらない。
私の脳裏にも、過去の演算が再起動し始める。
「……興味深いわね」
この感覚を、私は忘れたことがない。
理論が届かない場所に触れたとき、脳の奥底で微細な電流が弾ける。
それは恐れではなく、快楽に近い衝動だった。
“Δ.H0”既存のいかなる勢力にも属さず、記録をすり抜ける存在。
それは、観測不能というより、観測そのものを拒絶する因子のように思えた。
私は、かつてケイト・クロスの助手だった。
彼女は、常に“理屈では足りない”と言っていた。観測官とは、定義ではなく“定義し直す”者だと。
その言葉だけが、私の中で今も焼きついている。
彼女の死後、ある極秘研究の後任として配属され、機密指定の中で“理解されざる構造”を追う日々が始まった。
世界政府は今でも私を“観測官”と呼ぶが──私はその肩書きを借りて、自らの探求を続けている。
この世界には、進化を語る者が多すぎる。
だが、進化の果てを“見つけた”者は私だけだ。
他の者たちはただ、確率に沿って蠢くだけの未完成群。
私の視界には入らない。必要なのは、正しく“選ばれる側”の資質。
それを持たぬ者は、ただ沈黙すべきだと、私は知っている。
そのために必要なのは、あらゆる可能性の収束分析。
利用できる手段は選別し、不要な枝は切除する。
──RΩ(ラズ)は強制進化を加速させた。
──EΩ(EVA)は演算中枢。創発性に欠けるが、反復には優れる。
──AΓ(アビゲイル)は未成熟な統率機。適応力は高い。
──JΓ(ジャン)は情報解析特化。感情面に不安。
──RΓ(リョウ)は粗雑な出力型。制御には難あり。
──MW(マナイア)は戦闘不能。破棄予定。
──Z(リク)は観測不能。過去遺物。統計より除外。
すべて、素材としての評価だ。
私にとって、人物の価値とは収束確率にすぎない。
だが、Δ.H0だけは分類不能。
“収束”の先に干渉し、統計を乱す。
「観測結果なし、反応なし、そして……名前もない」
それでも、演算モデルは揺らいだ。
未来予測のはずのシミュレーションが、微細に波打っている。
これは、進化でも退化でもない。新たな変数。
端末のスクリーンを閉じようとしたとき、不意にポケットの内側で異物に触れた。
小さな硬質の輪。感触だけで、正体はすぐに分かる。 ……そういえば、そんなものもあったか。
音を持たない遺物。過去の音声の残響のような、忘れ去られた接点。
誰のものだったのかすら曖昧なまま、私はそれを手放せずにいた。まるで、空虚な円環が私の執着を封じているように。
そのとき、端末に通知が走った。
指先に残る冷たさを払い落とすように、私はそれをポケットに戻し、画面に視線を戻す。
『外周エリア:制圧型ネクス群の移動パターンが逸脱』
画面をスクロールし、座標ログを拡大する。
R-3群、S-07……すでに廃棄されたはずの断片群Fが、再び動き始めている。
「……分裂した記録が、また“同期”を始めている?」
直感が警告していた。
これは、偶然ではない。
意思なき構造に、なぜか“意図”が混ざっている。
観測不能であるという事実もまた、ひとつの結果。
私は立ち上がる。
演算モデルは未完成であり、選別も未了。
けれど──それよりも先に、私自身が“選ばれる”可能性があるという予感があった。
観測者が観測対象になる。
それは、かつてケイトが最も恐れていた構造だ。
未来演算モデルは、崩壊していない。
だが、そこに入力されるべき“前提”が、欠けている。
“Δ.H0”はただの記録外ではない。
これは、統計の外に立つ何か。
記録では足りない。
私自身が、観測しなければならない。
その瞬間、ノイズ補正中の端末に、“記録されていない音声”が挿入される。
ノイズの中に、ひとつだけ、輪郭を持った“ことば”があった。
それは誰かの名前のようで、警告のようで、祈りにも聞こえた。
聴き取れたはずなのに、意味だけが手の中から滑り落ちていく。
『……こ、えて……』
発信源:不明。 解析:不能。
しかし──この声を、私は知っている気がした。
(ログ終了)



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