──風が吹いた。
砕けた骨飾りが、音もなく揺れる。
砂混じりの風が、瓦礫の隙間に落ちた記憶のかけらを撫でていった。風は、焦げた鉄と血のような匂いを運んでいた。その中に、かすかに木の焼けた香りが混じる。骨飾りが燃えた時間の断片。戦いの記憶が、今もこの土地を漂っているようだった。
かつての戦いと、そこにあった誰かの名残りをまだ、忘れきれないまま。
その中心に、三人がいた。誰も言葉を発さず、視線だけが時間を繋いでいた。
「……四つしか、ないな」
フェイズがぽつりと呟いた。かすれた声だった。
スプロケットは答えなかった。手のひらで転がしている骨の欠片に視線を落としたまま、沈黙を守っていた。その小さな破片は、焼け焦げて形を失いながらも、何かを伝えようとするかのようだった。
「タウロスが作った……おれたちの分だけ、だな。余計な誰かの分なんて、初めから、ない」
フェイズの視線は、空の一点を貫いている。遠い何かを思い出すような、どこにも届かない角度で。
「……オラトリオは“名”を刻む人じゃない。私、そう思ってる」
ポイゾナスが続けた。言葉は不思議と柔らかく、そして強かった。
「彼は“見てるだけ”だったから……名前が、必要なかったんだ」
そのときだった。空気が、静かに“折れた”。
音も気配もないまま、仮面の男が現れる。その姿を、誰も驚かなかった。ただそこに“いた”という事実だけが、場を支配する。
「名を持たぬ者が、名を刻んだ」
ドミネーターは静かに言った。
「崩れたのではない。ようやく、“定義された”のだ。存在として」
スプロケットの手が、一瞬だけ止まった。
「……何の話だ」
フェイズの問いに、彼は仮面越しに答える。
「“構造”は、外から与えられた時点で終わりを迎える。だが、その内側で再構成されたならば、それは“進化”と呼ぶに足る」
誰も言葉を挟めないまま、ドミネーターは歩みを進める。彼が向かった先には、ミーラの姿があった。
「お主は、まだ観測を続けているか?」
「必要があれば」
ミーラは臆さず言った。だが、その声音には微かに警戒が滲んでいた。
「……私の知っている範囲なら、話すわ。けれど、あなたに従う義理はない」
「求めていない。だが、“お主が知っていること”こそが、次に繋がる可能性だ」
ドミネーターは右手をかざし、小型のデータ端末を現出させる。だがそれはミーラには向けられず、スプロケットに差し出された。
「……彼女に渡しておけ。観測の継承者として、然るべき器だ」
ミーラはわずかに驚いたが、即座に頷く。
「いいわ。でも、これは“私からの贈り物”じゃない。中身を読んだら自分で判断して」
スプロケットは何も言わず、それを受け取った。指先がわずかに震えた。 触れることを、一瞬だけためらった。 名を継ぐということは、もう“あの場所”には戻れないということ。
手のひらに落ちた端末を、そっと両手で包み込む。まるで、それがまだ温もりを保っていることを、確かめるかのように。
端末の重みが、どこか居心地悪そうに見えた。受け継ぐとは、名を刻まれること。スプロケットは、それを“誰かの死の証明”だと知っていた。
ただ、頷いただけだった。
端末が掌に収まった瞬間、わずかに熱を帯びる。その熱は、血潮のような有機の温もりではなかった。無機質でありながら、どこか心臓の鼓動に似ていた。
スプロケットは思う。金属とは、冷たいものではない。
過去が骨に刻まれるのなら、未来は金属の中に刻まれるのかもしれない、と。
その温度は誰かの視線に似ていた。名も、姿もない、だが確かに“そこにいる”誰かの。
風が一度、強く吹いた。
割れた骨飾りが跳ね、瓦礫を擦って乾いた音を立てる。
ドミネーターは、空を見上げた。
「この地に呼んだのは、お前たちだけだ。だが、目覚めている者はまだいる。世界に点在し、まだ名を持たぬ者たちだ」
「スペリオルズは……オレたちだけじゃないってことか」
フェイズが低く問い返す。
ドミネーターはうなずいた。
「“名前”を継ぐ者は、多いほどいい。そう、お前たちは、その象徴として生き残った」
少しの間。誰も何も言わなかった。
「その名で、何をするつもりなんだ?」
ポイゾナスが問う。声は震えていなかった。
ポイゾナスの声は、震えていなかった。けれど、その胸の奥では何かが擦れていた。名前を刻まれることは、ただ受け入れられることなのか。
それとも、都合よく形を決められることなの。
一瞬の迷いが脳裏をかすめたが、問いを口にすることで、それを振り払った。
ドミネーターは一歩、瓦礫の上に立ち、
「定義する。“人間”とは何かを」
とだけ言った。
「言葉はただの記号ではない。定義された瞬間、それは世界そのものになる──我らがそれに値するなら、だが」
その言葉に、ミーラの呼吸が一瞬だけ止まった。
定義とは、切り捨てでもある。観測とは、残酷な線引きでもある。彼の問いは、もはや他人事ではなかった。
観測とは、ただ記録する行為ではない。だが裏を返せば、“意味を切り落とす”行為でもある。
ミーラは知っていた。観測者とは、無意識に他者の輪郭を歪めてしまう。そういう存在でもあることを。
「吾輩の問いに答えられるのは、お主たちしかいない。そして……“外なる脅威”が近づいているのも確かだ」
しばしの沈黙が流れる。
「次に会うとき、お主たちが“名を持った存在”であることを願おう」
仮面の奥に、わずかに笑みの気配が滲んだ。
「この世界を記す言葉が残るなら、その最初の一文字はきっと、お主たちの中にある」
誰も、その意味をすぐには理解できなかった。だが、明確なことが一つだけあった。
タウロスは、命を賭して“何か”を残した。スプロケットがその骨飾りを手のひらに握る。
彼女は目を閉じ、言葉にしないまま、風の音を聞いていた。
──見ている。
名も姿もなく、ただ“見ている誰か”の視線を。
あいつは、最後まで“力”でしか語れなかった。言葉じゃねえ、行動でもねえ。
タウロスは、ただ命で示した。その不器用さが、いまになってようやくわかる気がした。
あいつの拳は、誰よりも先に“名を刻む”ためのものだったのかもしれない。けれど、その不器用な拳が、誰よりも先に“名”を刻んでいたんだと、今なら思う。
「……気に入らねえ宣言だな。けど……残るさ。あいつの分まで」
フェイズが言った。
ポイゾナスが小さく頷く。
「今度こそ、ちゃんと……家族になれるかもしれないって、思ってる」
口に出すだけで、なぜか胸の奥がざらついた。 「家族」なんて、定義すら曖昧なもの。
それでも……それでも、あの骨飾りには、それが“正解”だと書かれているような気がした。
スプロケットは、ようやく目を開けた。
小さく、小さく。
「……ここから」
その一言が、すべてだった。
──風が吹いた。
骨飾りが揺れる、そのすぐそばで、かしゃん、と。
誰かが歩き去った足跡のように、音だけが風の中に残された。そこには誰もいない。けれど、その“不在”があまりに自然だった。まるでこの世界が、何かを“見逃す”ために一瞬だけ目を閉じたかのように。
骨は過去を語り、金属は未来を鳴らす。その境目で風が吹くたび、どちらの音なのか判別できなくなる。金属同士がわずかに触れ合う音が響いた。 骨は過去を語り、金属は未来を鳴らす。
名を刻むとは、その間に立ち止まることかもしれない。
誰かが歩き出し、誰かがそれを見送る。
そのたびに、風が音を連れてくる。それは、自然ではない。誰かが残したもの。
けれど、確かに“ここにある”と知らせてくる音だった。


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