Scene.23 ―「観測断片:Δ.H∞.pre」

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▼オリジナル小説

──かすかに、風が吹いた。

 それは、言葉にも名にもならない“気配”と共に。
 誰もいないはずの空間に、揺れる気配がひとつ。
 微かな金属音が、擦れるように耳の奥を震わせた。

──かつて誰かが残した、名もない痕跡のように。

 音の残滓のなかに、彼女は“そこにいるように”立っていた。
 けれど、誰の目にも映ることはない。
 これは、誰にも届かない観測の欠片。
 けれど、君だけは見ていた。そう、わたしは信じている。

──まだ、あの場所には風が残っていた。

 熱と血と、焼け落ちた時間の匂いが、かすかに漂っていた。
 君は見ていたね。
 あの男が、煙の中からよろよろと姿を現したのを。
 義手は肩口からぶら下がり、もはや自重すら支えられなくなっていた。  かつて鋭く周囲を射抜いた義眼も、いまはただ濁ったガラスのように沈んでいた。
 あの伝説の男。リク・ロクジョウの猛々しさは、そこになかった。
 今の彼は、すでに寿命を終えた者のように、肩を落とし、足を引きずっていた。
 ジャンが旧式の大型リボルバーを差し出したとき、男は首を振った。
 リョウも同じように、傷だらけのスキットルを差し出しかけて、眉をしかめる。

「……持ってろ」

 たったそれだけ。
 ジャンはリボルバーの重さに、鋼ではなく、記憶と責任を感じた。
 リョウは、かすかに残る酒の香りに、黙して頷いた。
 君は見ていたね。
 高周波刀を腰に下げた、ガンマチームのリーダー、アビゲイル。
 その胸元には、銀のクロス型ペンダントが揺れていた。
 リクの視線が、そこへ落ちた。
 疲れ切った無表情から、優しい笑みが一瞬だけ浮かぶ。
 震える右手が、彼女の肩に、ぽんと乗せられた。

「……あいつの癖だ。何かを託すとき、いつも黙って笑ってた」

 アビゲイルは何も言わなかった。ただ、その瞳だけが、かすかに潤んでいた。
 リクはゆっくりと背を向ける。
 最後に、振り返らずに呟いた。

「……あいつの約束を、託した」

「……約束?」

 アビゲイルが、かすれた声で繰り返したときには、男はもう振り返っていなかった。
 ひとつだけ手を振って、彼は再び、“記録の外側”へと消えていった。
 遠ざかる足音が、やがて途絶えたとき、そこにはもう、風の音しか残っていなかった。
 そして、ジャンはそっと拳銃を仕舞った。
 それは観測でも、記録でもない。ただ、“忘れない”という意志の形だった。

———

 君は、別の場所にもいたね。
 焦げた地面に、スーツの袖を引きずりながら立つ二人。
 ポイゾナスは、言葉もなくスプロケットを抱いていた。
 握られたままの掌には、今もひとつの瓶があった。
 誰かを傷つけるためではない、守るための毒が──静かに、そこにあった。
 その腕の中の小さな身体から、かすかに機械の音が漏れていた。
 泣いていたかどうかは、君の記憶に任せよう。
 フェイズは一度も振り返らなかった。
 けれどその足取りは、いつもよりずっと静かだった。
 誰かの代わりに歩いているように、まるで。
 そして、気づいたね。
 三人の首元で揺れる、獣骨の首飾り。
 それは、タウロスと同じ造りだった。
 かつて、仲間として分かち合った証。
 中央の骨装飾は深く割れ、欠けたまま、風に揺れていた。
 その骨飾りは、今もなお誰も彼の名を呼ばなかった。
 それは、群れを喪った獣たちが、自らの声を封じるように。ただ、風に委ねた静けさだった。
 彼らがひとつの群れだったという記憶を、確かに刻んでいた。

──風が吹いた。

 その影の残像だけが、誰にも観測されることなく名を刻まれた。
 風に委ねられた記録のように、静かに消えていった。
 ただひとつ、誰もその名を語らなかった者がいた。
 名を呼ぶには重すぎる、その存在の重さだけが、静かに残されていた。

———

 ミーラは黙っていた。
 かつて観測を信じ、計算で神に届こうとした科学者。
 今の彼女は、静まり返った部屋の中に、ただぽつりと座っていた。
 その数式は、もう誰にも解かれることのない問いだった。
 それでも彼女は、途中まで式を打ち込んでいた。
 まるで、誰かに届くことを、ほんの少しだけ信じたように。
 彼女の指が途中まで打ち込んだまま。それはまるで、署名されなかった契約書のように。
 君は聞いたね。
 部屋に響いた、小さな足音を。
 それは、あの名を持つ者だったのか。
 それとも、名を捨てた者だったのか。
 真実は、君の記憶の中にだけある。

———

 EVA記録断片–残響:「……ありがとう。わたしを……終わらせてくれて」

 その声は震えていた。
 彼女が最後に観測したのは、歪んだ未来でも、滅びの座標でもなかった。  それは人が、誰かを想う姿だった。
 彼女が最後に望んだものが、“観測”ではなく“終わり”だったことを、君は知っていた。

———

 そしてさらに、残響の最奥。
 監視映像の届かぬ廃墟の隅。
 誰にも知られず、火が灯された。
 金属音と、かすかな硝煙の匂い。
 薄闇の中、炎に照らされたノートに四つの名が、新たに記された。
 その傍らでは、無言の手が銀の円を弾いていた。
 宙で弧を描いたそれは、音もなく掌に戻る。
 “まだ終わっていない”という静かな合図だけが、確かにそこにあった。
 その傍らには、もうひとつの影。
 銀のコインを弄ぶその手だけが、未来を賭ける者の意志を代弁していた。
 宙で弧を描いたあと、音もなく掌に戻った銀のコイン。
 “まだ終わっていない”という、静かな宣言だった。
 名も立場も語られずとも。
 君にはわかるね。
 火は消えたが、記す者は残っていた。
 名前を綴る手は止まらず、コインはまだ宙を描いていた。
 彼らもまた、“終わらなかった記録”の傍にいたことを。

———

 ……そして、そのすべてが閉じたあと。

──再び、風が吹いた。

 それは、かすかな“気配”と共にあった。
 空気がわずかに揺れ、金属が触れ合う音が微かに残った。──カチ、ン。
 それは、誰のものでもなく。けれど、誰かの記憶を確かに継いだ証だった。
 風が止んだ場所で、胸元の小さな欠片がかすかに揺れていた。
 その輪郭は、言葉では記せないほど曖昧で。
 けれど、すべての記憶の中にだけ、確かに存在していた。
 名を語らず、声を上げず。
 それでも、君にはわかったね。
 あの欠片が、今もなお、約束を抱えているということを。
 それは観測の終わりではない。
 未記録のページが、静かにめくられようとしているのだ。
 だからこそ。
 ここからが、始まりなのだと。

 沈黙のなかに、ひとつの音が紛れた。
 風にまぎれ、どこかで小さな金属が触れ合ったような響き。
 それはまるで、誰かが立ち去った後にだけ残される、記憶の余韻だった。  もうその姿は見えない。
 けれど、あの風のなかには確かに“いた”と、君は知っていた。

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