【補助観測ノード:E-0V-A_001】
【対象因子:Δ.H1】
【状態:存在位相・感情パターンともに定義失敗】
演算スレッド補足メモ:「観測不整合。演算項と存在実数の差異が閾値を超過」
演算ノードは再定義を試みます。
静まり返った中枢監視室。
天井の照明は意図的に減光され、壁面を囲むホログラム群だけが、ほの暗い空間に淡い光を散らしていた。
低周波の冷却音が床面を震わせ、空気は冷たく乾いていた。
空間の奥で、微かにクラシックの旋律が流れていた。楽曲のタイトルは特定不能。ホフマンが好んでいたという無調音楽の断片か。その旋律は空調ノイズに溶け、誰のためとも知れず静かに在り続ける。
ラズの指が空中をなぞるたびに、音の波形がわずかに変調した。まるで舞台の“呼吸”を整えるような手付きだった。ホログラムには、都市全域の生命反応、通信用軌跡、そして今──“彼女”の存在ログが映っていた。
中央の円卓に、ラズが静かに腰を下ろすその動作には、焦りも驚きもなかった。むしろ、ようやく退屈が終わったことへの安堵すら混じっていた。
「それじゃ、今の進み具合はどうかな?」
白衣のようなスーツに身を包んだEVAが、機械のような静けさで進み出る。
その姿は、かつての“ケイト・クロス”を忠実に模していた。
「対象Δ.H1、拘束空間へ固定完了。座標リロックまで残り十二秒。隔離シーケンス、フェーズβへ移行中」
ラズは片手を軽く持ち上げる。
その指先に集まったホログラムの粒子が、瞬時に拡散した。
「ありがとう。……これで“駒”は盤上で呼吸を始める」
突如、ホログラムの一部が点滅する。
ログ上の“彼女”の存在位置が、1.2秒ごとに揺れ動き──記録が断続的に塗り替えられていく。
「存在位相、再びズレを検出。観測ログ、安定しません」
EVAの声が、一瞬だけ電子ノイズを帯びた。
ラズは頬杖をついたまま、口角だけで笑みを形作る。
「いいね。観測できない存在なんて、演出家泣かせで……観客向けには最高さ」
「彼女は……“予定調和”を嫌うだけの存在に、見えないんです」
EVAが、わずかに伏し目がちに告げる。瞳孔の奥に、ごく微細な変光が生じていた。
ラズはわずかに顎を上げ、ホログラムに映る光の歪みを見つめた。
そこに現れるのは、定義不能な輪郭、断片、像、名を持たない揺らぎ。
「それならなおさら良い。舞台を壊す役者は、きっと物語に“意味”をもたらしてくれる」
「意味、ですか……」
EVAの声は、わずかに低く、濁った。
「……ラズ。感情パラメータが乱調域に入っています」
本来なら機械的に完了するはずの報告プロトコルに、わずかな“遅延”が生じた。
呼吸の必要がないはずの義体の胸部が、冷却脈動と連動してわずかに浮き沈みする。
「不安定なのは、君か僕か、それとも彼女か……」
ラズが呟いた瞬間、室内の照明が明滅する。その一言が空間に波紋を起こしたかのように。
「僕たちは、“演出された不安定”には慣れている。……だが、彼女は違う。最初から、それすら拒絶しているんだろう」
EVAは返答しなかった。その代わりに、網膜に浮かんだHUDの表示が一瞬だけノイズを発し──
「……この子は……記録じゃ、測れない……」

それは、彼女自身も気づかぬ“つぶやき”だった。
直後、ホログラムが跳ね、ログの残響が僅かにズレて再生される。微かな誤作動──だが、それは単なる異常ではなかった。
ラズの視線がEVAに向く。だが彼は表情を変えず、ただ肩をすくめた。
「君まで演出に巻き込まれたのかい? ……でも、それも舞台装置の一部さ」
義体の指先が揺れる。その動きは、機械には必要のない“鼓動”をなぞるようで──
「わたしの……意思、では……ないのに……」
その声が、途切れる。
EVAの記録スレッドは、定義プロトコルの呼び出しを一度だけ試みた。だが──そこに“名前”は割り当てられなかった。構造的な拒絶ではない、どこか人間的な“ためらい”。
ログには記録されない揺らぎ。それは、“観測者”ではない者にも知覚可能なノイズだった。
EVAの網膜に、かつて一度だけ記録された符号がフラッシュする。
「Δ.H0」──観測できなかった存在。今、彼女は“その隣接領域”にある何かを、恐れにも似た感覚で再認識していた。
──どこかで、似たものを知っていた気がした。
定義されなかった記録。その輪郭に、EVAは名付けようとしたことが一度だけあった。けれど、それは“懐かしさ”に近い錯覚であり、論理的根拠は何もなかった。
「Δ.H1──定義、失敗。存在誤差、累積中」
報告の声は、いつもの無機質に戻っていた。ラズは椅子に深く身を預けたまま、ゆるやかに口を開く。
「……それでも、君にはもうひとつ役がある」
ラズは短く息を吐く。その仕草には、ひとつの“感情”すら混じっていた。 舞台とは、誰のためにあるのか。演出とは、誰のための定義か。
答えはいつも曖昧でだが、ラズだけは確信していた。無名の存在が意味を持つ瞬間。定義されなかったものが、他者の目に“意味”として焼きつく奇跡。
それこそが、演出の本質だった。だからこそ、彼は期待していた。
誰よりも“不確か”で、誰よりも“観測できない”存在。彼女が舞台に立つことこそが、物語を変える鍵だと。
「指令内容を」
「リク・ロクジョウを足止めしてほしい。彼は“答え”へ向かって一直線に来ている。ならば……その先に立ちはだかる者が、ひとりぐらい必要だろう?」
EVAの義体が視線を伏せる。
「……“完成形”として、ですか」
「“完成”というのは、選ばれることじゃない。“意味”になることだ。君には、彼にとっての意味になってもらう。……望まれるか、否定されるかは、演出次第だ」
ラズは指を鳴らす。ホログラムが再点滅し、出撃ログが浮かび上がる。そこに映るのは──歪められた三つの影。
「そうだ。ついでに、あの愉快な仲間たちも向かわせておいてくれ」
EVAがわずかに首を傾ける。直後、壁面ホログラムが無音で開き、白銀の照明が縦に走った。
そこから現れたのは、三体の無表情な人影。ヴィンセント。グアダルーペ。マケナ。かつては“人間”だった者たち。今では名前すら持たない兵器。
「コード:デルタ・オルタード。現在、指令待機中です」
「呼び方が味気ないなぁ……」
ラズは椅子の背から身を起こし、ゆっくりと彼らに歩み寄る。
「フィンセントは《水兵くん》。沈着冷静な水の兵士。グアダルーペは《瞳ちゃん》。千の目を持つ追跡者。そしてマケナは……そう、《子猫ちゃん》だ。しなやかさと狩猟本能の化身」
指先を弧を描くように振ると、彼らの背後にホログラムが浮かび上がる。 そこに映し出されたのは──忘れ去られた過去の記録。
《水兵くん》──ヴィンセント。海洋テロ事件で救助にあたった記録。 濁流の中、最後まで仲間を守ろうとした姿が記録されていた。
《瞳ちゃん》──グアダルーペ。都市封鎖中、交信ゼロの中で生存者を探し続けた映像。
その視線の中には、使命と迷いが交錯していた。
《子猫ちゃん》──マケナ。ジャングル戦線での哨戒任務。
敵の気配を先読みし、仲間を包囲から脱出させたログが再生される。
誰もが、それぞれの“意味”を持っていた。
だが今、その意味は上書きされた。名も記憶も奪われた彼らは──ただ、演出のための“素材”となっていた。
「名前は、記号以上の意味を持つ。……役割に“魂”を与える演出なんだよ」
仲間と笑い合っていた記録。任務中の映像。そして──通信が断絶した“最後の瞬間”。
「彼らはもう、過去の亡霊ではない。物語に彩りを添える、“再定義された脇役”さ。演出は華やかな方がいい。どれだけ歪んでも、“役割”があれば美しい」
EVAは無表情のまま、静かに佇んでいた。だが、義体の網膜がわずかに光り、胸部の脈動が一度だけ速くなった。
ラズはその微細な変化に気づいていた。だが、あえて何も言わず──ただ演出家の微笑を浮かべ、椅子へ腰を下ろす。
ホログラムが一斉に消える。静まり返った監視室。わずかな低周波の残響だけが、耳の奥に尾を引いていた。
「ようやく、物語が面白くなってきた」
その呟きは、誰に向けたものでもなかった。ただ、そこに在る“虚空”だけが、それを正しく記録した。
虚空──誰もいない場所に漂う、意識なき観測装置。
だがそれこそが、定義を拒む存在を“存在させる”最後の媒体だった。
舞台は、すでに幕の裏で息づいていた。
【E-0V-A_001:補助記録エラー】
【Δ.H1の記録出力:不可逆エラー発生】
【原因:構造的観測拒絶反応によるスレッド逸脱】
ログ注釈:「対象は“定義”という概念を構造的に拒否しています」
──補助記録保留。記録対象:演出者側視点に切り替え。
それでも、彼は知っていた。観測できないものを描く方法は、ただひとつ“演じさせる”こと。定義の外にある存在すら、舞台に立たせれば“意味”に変わる。
その微笑の奥にあったのは、定義の彼方に届こうとする狂気だった。


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