同時刻。
トーキョー・シティ地下。
ガンマチームが一時的に使用している旧医療区画。
先ほどまで続いていた戦闘は終わっている。
〈セントリオ〉中央中枢が停止した影響で、都市防衛網は区画ごとに分断されていた。
照明は半分ほど落ちている。
アビゲイルは端末の光が届く位置でジャンの報告を聞いていた。
遠くで、局地系統へ切り替わった設備の駆動音が続いていた。
「〈レイヴン〉との中継、戻りました」
ジャン=ジャック・ジャカールが端末を操作する。
「中央マップは使えません。でも、車両側の記録とボク自身が通った経路を合わせれば、ここから先の退路は取れます」
アビゲイル・エイミー・アームストロングが画面を見る。
「使える経路は?」
「南東の保守通路」
ジャンが一本の線を表示する。
アビゲイルは指された出口から合流地点までを目で追った。
「途中から〈レイヴン〉側の中継範囲へ入ります」
「閉鎖の可能性は?」
「あります。局地ノードがそれぞれ別判断を始めてますから」
「監視を続けて」
「了解」
少し離れた壁際。
リョウは携行食のパウチを空にしていた。
「足りねぇ……」
袋を逆さに振る。
何も落ちない。
「さっきから食べてるでしょう」
ジャンが言う。
「戦っただろ」
「食べる前から言ってましたよね」
「戦う予定だったからだ」
「便利な理屈ですね」
「おう」
リョウは空袋を丸めた。
その短いやり取りだけが、止まった区画に普段の空気を少し戻していた。
アビゲイルは二人から視線を外す。
少し前まで一緒にいた男の姿が頭に残っている。
リク・ロクジョウ。
旧記録に残るエージェント・ゼロ。
青白く光る左義眼。
黒銀の左義手。
迷いのない身体操作。
理由は分からない。
ただ。
見た瞬間から、何かが引っ掛かっている。
アビゲイルは無意識に胸元へ手を伸ばした。
クロス型のペンダント。
冷たい金属を指の腹で押さえる。
それ以上は考えない。
今は任務中だ。
視線を戻す。
陽名が、少し離れた場所に座っている。
白い服。
胸元にはまだ何もない。
陽名はジャンを見る。
リョウを見る。
最後に、医療区画の奥へ顔を向けた。
立ち上がる。
「陽名?」
アビゲイルが呼ぶ。
陽名が振り返る。
「どこへ行くの?」
「おじさん」
その一言で分かった。
マナイア。
旧医療室の一番奥で休ませている。
アビゲイルは一瞬だけ考えた。
以前なら。
保護対象だから動くな。
そう言っていたかもしれない。
「……分かった」
陽名が瞬きをする。
「私も行く」
「ひとりで行けるよ?」
「知ってる」
アビゲイルは立ち上がった。
「でも、私も教官に用がある」
陽名は頷いた。
陽名が先に歩き出す。
アビゲイルはその隣へ並び、二人で奥へ向かった。
⸻
旧処置室。
マナイア・ケアは簡易ベッドへ身体を預けていた。
黒い戦闘服は腹部だけ切り開かれ、止血材と固定材が重ねられている。
外側の出血は抑えられている。
それでも。
顔色は悪い。
呼吸も浅くなっていた。
陽名の足音に気づいたのか。
マナイアが片目を開ける。
「……よう」
「起きてた」
「今起きた」
「ほんと?」
「半分くらいな」
陽名がベッドの横へ立つ。
マナイアは小さく笑った。
入口。
アビゲイルはそこで止まる。
完全に離れはしない。
だが。
二人の間へ入る必要もない。
陽名の視線が、マナイアの左腕へ移る。
褐色の肌。
そこに刻まれたマオリ由来のタトゥー。
「それ」
「ん?」
「前から気になってた」
「こいつか」
マナイアが左腕を少し持ち上げる。
すぐに力が抜けた。
腕が寝具へ戻ると陽名は身をかがめて模様を見た。
「祖父が死んだ時に入れた」
「おじいさん?」
「ああ」
マナイアは左腕の模様を見る。
「あの爺さんが背負ってたもんを今度は俺が背負うってな」
「痛かった?」
「そりゃ痛ぇよ」
「なんでやったの?」
「忘れねぇためだ」
陽名がタトゥーを見る。
「忘れないため」
「人間ってのは案外簡単に忘れる」
マナイアが息を吐く。
「名前も」
「顔も」
「何をしてた奴だったかもな」
少し間を置く。
「だから残す」
陽名を見る。
「皮膚でも」
「物でも」
「頭ん中でもいい」
「覚えてる奴が一人いりゃ、全部消えたことにはならねぇ」
陽名は静かに聞いていた。
「お前もそうだ」
「わたし?」
「ああ」
マナイアは笑う。
「どっから来たのか」
「なんでここにいるのか」
「俺にはさっぱり分からん」
「……うん」
「だが」
マナイアは陽名を見る。
「陽名は陽名だ」
少女の目が少し開く。
「それで十分だろ」
沈黙。
陽名が小さく頷いた。
「うん」
マナイアの右手が胸元へ動く。
指が少し震えている。
金属音。
五枚のドッグタグ。
以前マナイアが陽名へ見せていた五枚だった。
まだ名前を与えられて間もない頃のことだ。
「覚えてるか?」
陽名がタグを見る。
「デルロイ」
マナイアの指が一枚へ触れる。
「デルロイ・ブラッドショー」
次。
「ファイシル・シャリフ」
次。
「キャメロン・アン・ステュディ」
「アレクセイ・ハベンスキー」
最後。
「ジョイ・チャン」
五枚。
マナイアの部下だった人たち。
「覚えてる」
陽名が答える。
「そうか」
マナイアは五枚を握る。
「俺はこいつらを帰せなかった」
笑わない。
表情が消える。
アビゲイルは入口からその顔を見ていた。
指揮官として感情を押さえる時の顔を何度も見てきた。
「隊長失格だと思ったこともある」
陽名は黙っている。
「それでも」
五枚を見る。
「こいつらがいたことまで失敗にする気はねぇ」
マナイアがタグを持ち上げる。
「陽名」
「うん」
「今度はお前が覚えてろ」
陽名の目がタグへ落ちる。
「わたしが?」
「ああ」
「五人とも?」
「五人ともだ」
「忘れない?」
「忘れたら思い出せ」
マナイアが軽く笑う。
「名前ってのはそのためにもある」
陽名が身体を少し前へ出す。
マナイアは自分の首からチェーンを外した。
陽名が頭を下げるのを待ち、五枚のタグをその首へゆっくりとかける。
金属が白い服の胸元へ落ちる。
陽名は両手でタグを受け止める。
一枚ずつ見る。
「重い」
「だろ」
「うん」
「持っとけ」

陽名が五枚を握る。
指の間から金属の端がのぞいた。
「分かった」
マナイアが頷く。
その直後。
「……っ」
身体が小さく強張った。
「おじさん?」
右手が腹部へ動く。
息が乱れる。
入口にいたアビゲイルがすぐに近づく。
「教官」
通信を開く。
「ジャン、来て」
『すぐ行きます』
マナイアが目を閉じる。
「騒ぐな……」
「黙ってください」
「偉くなったな、小僧」
「喋らないで」
「命令か?」
「そうです」
「なら聞いとくか」
だが声は弱い。
数十秒もせず。
ジャンとリョウが処置室へ入ってきた。
アビゲイルはベッドの脇を空け、陽名を自分の側へ寄せた。
「どいてください」
ジャンが端末を接続する。
止血材。
脈。
血圧。
生体反応。
表示を確認する。
表情が変わった。
アビゲイルには、それだけで分かった。
「ジャン」
「……内部出血が進んでます」
「処置は?」
「ここでは止められません」
ジャンが固定材を確認する。
「外側の止血は維持しています。でも内部が持ってない」
「〈レイヴン〉まで運べば?」
ジャンはすぐには答えなかった。
「搬送だけでは足りません」
「医療施設まで――」
「間に合いません」
アビゲイルの言葉が止まる。
ジャンは端末を見たまま続けた。
固定材を確かめていた手はまだベッドから離れていない。
「現場でできることはもうやっています」
マナイアが小さく笑う。
「ブッチャーがいたら……怒られただろうな」
ジョイ。
五枚のタグの一人。
陽名が胸元のタグへ触れる。
「教官」
アビゲイルの声が低くなる。
「気にすんな」
「できます」
「できねぇこともある」
「……」
「それを分からねぇ奴に、隊長は務まらん」
リョウが拳を握っている。
サングラスの奥は見えない。
マナイアがそちらを見る。
「リョウ」
「……なんだよ」
「拳」
「は?」
「もう分かってんだろ」
リョウは黙る。
「殴るだけじゃねぇ」
マナイアが息を整える。
「守るために使え」
短い沈黙。
「……言われなくても」
「ならいい」
リョウの拳が強く握られる。
次。
「ジャン」
「はい」
「分からねぇ時」
「……」
「分かったふりすんな」
ジャンはマナイアを見る。
「お前はそれが言える」
「……努力します」
「そこは了解って言え」
「了解」
「よし」
最後。
マナイアはアビゲイルを見る。
「小僧」
「はい」
「前に言ったな」
アビゲイルは待つ。
「命令は聞け」
一拍。
「だが、目の前を見ずに従うな」
陽名を移送しろという命令が来た時にも聞いた言葉だった。
あの時と同じ声を聞こうとしてアビゲイルは顔を近づけた。
「覚えています」
「なら、もう一つだ」
マナイアの視線が鋭くなる。
瀕死の男ではない。
一瞬だけ。
軍学校でアビゲイルを叱りつけていた教官の目へ戻る。
「生きて帰せ」
アビゲイルは動かない。
「死んだ奴は忘れるな」
陽名の胸元。
五枚のドッグタグ。
「そして」
マナイアが息を吸う。
「最後は自分で選べ」
視界が揺れた。
《ミライメージ》。
数秒先。
複数の分岐。
ここへ残る。
マナイアの側を離れない。
南東の保守通路へ向かう。
陽名を連れる。
ジャン。
リョウ。
退路。
局地ノード。
閉鎖。
遅れる。
分岐が増える。
正解は書かれていない。
能力は未来を見せる。
だが。
どれを選ぶかまでは決めてくれない。
アビゲイルは目を閉じる。
ベッドのそばに足を置いたまま一度だけ呼吸する。
目を開く。
「……了解、教官」
マナイアの口元が少し上がった。
アビゲイルはベッドへ寄せていた身体を起こした。
「ジャン」
「はい」
「南東保守通路を使う」
「了解」
「リョウ」
「おう」
「陽名を中央に」
「任せろ」
「〈レイヴン〉まで戻る」
ジャンが端末を見る。
「局地隔壁が動き始めています」
「残りは?」
「3分弱」
「行くよ」
リョウが動かない。
「……本当に行くのか」
アビゲイルは出口へ向けかけた足を止めた。
マナイアを見る。
答えは分かっている。
マナイアが顎を上げる。
「戦場では何を優先する」
アビゲイルが答える。
「守る対象」
「次」
「仲間」
「次」
「任務」
「最後」
「自分」
「なら動け」
「……はい」
アビゲイルが敬礼する。
ジャンも続く。
リョウは一瞬遅れて。
いつもの雑な動きではなく、まっすぐ敬礼した。
陽名が三人を見る。
少し迷う。
右手を上げる。
見よう見まねの敬礼。
左手で押さえていた五枚のタグが胸元で重なった。
マナイアがそれを見る。
「……上出来だ」

陽名が手を下ろす。
「おじさん」
「なんだ」
「またね」
一瞬。
マナイアは何も言わなかった。
それから。
「……ああ」
陽名は頷く。
アビゲイルが先頭へ立つ。
「行くよ」
三人と陽名が処置室を出る。
アビゲイルは振り返らなかった。
振り返れば。
選んだ未来から足が止まる気がした。
⸻
一人になった処置室。
マナイアは長く息を吐いた。
胸元へ手を伸ばす。
もうドッグタグはない。
「……軽くなったな」
代わりに。
葉巻を一本取り出す。
口へくわえる。
火は点けない。
暗い処置室。
何年も続けてきた癖だけが残る。
「デル」
小さな声。
「ファイシル」
「キャメロン」
「アレクセイ」
「ジョイ」
少し間を置く。
「悪ぃな」
呼吸が浅くなる。
「最後まで……帰せなかった」
それでも。
葉巻を噛み直す。
「でもよ」
誰もいない部屋で。
「名前は残したぞ」

目を閉じる。
葉巻が唇から落ちた。
床へ当たる。
小さな音。
⸻
南東保守通路。
ジャンの端末が一度だけ震えた。
【MANAIA KEA】
【BIO SIGNAL:LOST】
ジャンの足が止まりかける。
傍らを進むアビゲイルの視界にも表示が入った。
何も言わない。
胸元のペンダントを一度だけ握る。
それから前を見る。
「進むよ」
「……了解」
リョウが答える。
陽名も歩く。
五枚のドッグタグを胸元で握ったまま。
歩くたび。
五枚の金属が触れ合う。
カラン。
一度だけ。
乾いた音が、通路に残った。


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