沈黙を破ったのは陽名だった。
彼女は、静かに一歩、ラズの前へと出る。華奢な身体が、重圧に軋む空気の中に立ちふさがった。
その場に、音がなくなった。誰も息を吸えなかった。空調の唸りも、焦げた回路の火花も、耳に届かない。ただ、陽名の小さな靴音が、床に染みついた血の上で止まっていた。
無言。けれど、それだけで十分だった。
ラズがその目を見た瞬間、表情が、ごくわずかに、揺らぐ。
「やっぱり……お前は、特別だね」
ラズはゆっくりと手を伸ばそうとした、その瞬間、爆音。壁が吹き飛び、破片と土煙の中から一人の男が現れた。
「悪ぃな、陽名には指一本触れさせないぜ!」
アサルトライフルを構え、マナイア・ケアが現れる。
「こいつでちょっくら黙ってもらおうか!」
連射。閃光と硝煙がラズの装甲を叩く。即座にマナイアはためらいなく、天井のドローン、そして重力ディスクを撃ち抜いた。正確な動き。戦闘のプロの洗練された技術。
「お前ら! 今だ!」
リョウは高重力の解除に呻きつつも立ち上がり、ジャンは干渉された端末を再起動する。
(記録できない……ってのは、どういうことだ)
ジャンの脳裏をよぎるのは、過去の観測ログに刻まれた“抜け落ち”だった。数式でも論理でも解析不能な、奇妙な断絶。
(数値にならない、存在しないはずの“何か”がここにいる)
「……やっぱり、観測ってのは万能じゃない」
ジャンが呟いた。
「“記録できない何か”があるってのはホント、恐ろしい話だ」
その視線の先で、ラズはまるで舞台に立つ演者のように、わざとらしい沈黙を保っていた。
誰に語るでもない芝居がかった独白。それはまるで“観客”を意識した振る舞いだった。
「ジャン! ヒーローは悪をぶっ倒す! クロガネフォームッ!」
叫ぶリョウは《クロガネ》を再び発動して全身が生体金属化する。
「あれあれ? 僕が悪役になっちゃっているのかい? うーん、そんなつもりはないんだけどなぁ」
全身を金属化するリョウを見据えるラズにはそれ以上の迷いがないように見えた。
「お前はペラペラとしゃべりすぎだッ!」
マナイアが装甲の隙を狙い、弾を撃ち込む。だが、ラズはなおも表情を崩さない。
その瞬間、全身を金属化したリョウはラズにタックルして、ジャンがハッキングしたドローンが援護射撃を放つ。
「何をしている小僧!! 立て!!」
その叫びが、アビゲイルの動揺した精神を引き戻す。だが、足が動かない。
(動け──)
彼女の脳裏に、かすかにケイトの声が浮かんだ。
(怖くても動け。動けなければ、次はない──)
でも、身体は凍ったままだった。心は応えようとしているのに、恐怖が支配していた。
「クソッ!」
マナイアが膝をつき、吐血する。
陽名がそっと近づく。彼女の首元に、ドッグタグの束が揺れていた。それは、かつて彼が戦死した部下から預けたもの。陽名が今も、ずっと持ち続けていたのだ。
マナイアはそのタグを見て、ほんの一瞬だけ安堵の笑みを浮かべた。
その瞳に、過去の影が揺れる。
タグに刻まれた一つの名前が、マナイアの目に止まる。
(ジョニー、ファイ、ミッシー、デル、アレク……隊長の命令があるまで……待機だ……)
思い出すのは、訓練施設でのある夜。厳しい訓練の後に焚き火を囲って飲み明かした[ワイルドカード]の仲間たち。それぞれの顔が思い浮かび、自分の名を呼んでいる声が聞こえる。
「リーダー!」
必死に状況を好転させようとするジャンの計算とアビゲイルに向けられる強い口調。
その先では全身を生体金属化したリョウの重い攻撃が繰り出されるが、ラズはほとんど片手で受け止めていた。
「……ああ、無駄じゃなかったな……」
弾切れと同時に傷口が開いたマナイアは片膝をつく。傍にいた陽名を見ると、苦しんでいた顔から優しい表情になる。
すると、マナイアは自分の名が刻まれたドッグタグを首から外して陽名に手渡す。
「これで、すべて預けたぞ」
大きな手が、陽名の頭を無骨ながら優しく撫でた。その掌に、微かな震えが残る。
一方でラズに攻撃するリョウの呼吸が激しくなり、金属化が徐々に解除されていく。
装甲のように硬化していた肌が、軋む音とともに剥がれる。息が詰まる。喉が焼ける。脚が震えて、膝が折れそうになる。
それでも、リョウは前に出る足を止めなかった。
「ブリキくん。大道芸はそれで終わりかい?」
息ひとつ切らさず、ラズはリョウを見下げていた。
「ああ、それとガリ勉くん。EVAを突破するのは無理だって」
ジャンのドローン支援も弾切れを起こし、同時にハッキングしていた脱出ルートはEVAの干渉により苦戦する。
「さて」
ラズは金属化を維持できない状態のリョウのスーツを掴んで投げ捨て、ジャンに冷たい視線を送って牽制する。
自由になったラズは、まだ動けないアビゲイルに目を向けた。
「小僧! 立て! お前はその程度でへこたれるようなタマじゃねえ!」
立ち上がるマナイアは背後で崩れているアビゲイルに声をかける。
「いいか! お前を信じる仲間を裏切るな……命ある限り戦え!」
銃をラズに向けて放り投げ、ナイフを抜く突っ込む。
「これが、教官の最終講義だ!」
一気に間合いを詰め、ラズへと飛びかかる。
刹那。ラズの指が、わずかに動いた。
マナイアの身体が吹き飛び、壁へ激突する。激しい音とともに、全身から血が滲んだ。
「……ったく。進化の遅れた人類は目障りだよ」
ラズの目に、初めて“怒り”のような色が宿っていた。
その怒りは、マナイア個人にではなかった。進化を拒み、過去にしがみつく“人間”という存在。そういう連中を、この世界にまだ残していることへの苛立ちだった。
「へっ……だから……しゃべりすぎ……なんだよ……」
血を吐くマナイアの手にはピンが二個握られていた。
「うん? おっと──」
ラズは足元に落ちている二個の手榴弾を見つけるがすでに遅し、爆発による衝撃が起きて粉塵と轟音が舞い上がった。
「教官!!」 呪縛から解かれたようにアビゲイルが駆け寄る。
マナイアは苦しげに、かすれた息を吐いた。
「……世話の焼ける小僧だ……。いやっ……ガンマチームのリーダー……アビゲイル・エイミー・アームストロング」
かすかな笑み。血に塗れた口元が、確かに笑った。
「……火を……頼んだぞ……」
潰れかけた葉巻を取り出し、口にくわえる。それが、マナイア・ケアの最後の仕草となった。
──EVA。
「制圧対象の干渉を検知。戦闘継続不能と判断。防衛システム作動──光学遮断壁、起動」
視界の端に、複数の円形装置が天井からせり出してくる。それぞれが青白い光を点滅させながら、一斉に起動音を放った。空間に浸食するように、白濁の膜がゆっくりと広がり始める。それはまるで、世界そのものに“のっぺらぼうの仮面”が被せられたようだった。
「はぁ……進化の遅れた猿が舞台をかき回すとは、実に面白いよ」
霞の中から無表情から笑顔に変わるラズは、乱れた赤髪をかき上げていた。その姿には爆発の影響が一切なく、光学遮断壁による衝撃を防いでいたようだ。
「でも、所詮はエキストラ。背景と変わらない。僕の描いた物語に意味はない……」
そう言いながらラズの姿は霞の奥に沈んでいく。彼の存在そのものが“後退”していくようだった。言葉も気配も残さず、ただ視覚から消えていくだけの姿。それは、初めから存在していなかったかのような喪失感を残した。
「……この場は譲るよ。だが、舞台はもう始まってる」
それは皮肉でもあり、確信でもあった。この世界そのものが“劇場”であり、彼はすでに、その中心に立っている。
その声は確かに残りながら、徐々に遠ざかっていく。光と影が交錯する中、ラズの姿が遮蔽幕の奥へと消えていった。空間の歪みが収束し、再び静寂が支配する。
アビゲイルが振り返る。そこに、陽名の姿はなかった。
「……陽名……?」
その名を呼ぶ声に応える者はいなかった。壁にも、床にも、彼女の足跡すら残っていない。そこにいたという“記録”さえ消えていた。
誰よりも早く、リョウが辺りを駆け回る。だが、その痕跡すら残されていない。
「くそ……! どこ行ったんだよ!」
叫びながら装置の裏を蹴り飛ばすリョウ。その声は、自分の無力さへの怒りでもあった。
マナイアの遺体に膝をついていたジャンが、顔を上げて呟いた。
「どうやら、連れ去られたらしい。……ラズにとって、何らかの“価値”があったということだ」
アビゲイルは呆然と立ち尽くす。その手には微かなぬくもりが残っていた。陽名が、最後に触れてきた指先の感触。それはまるで、遠い昔に失われた“何か”を呼び起こすようだった。
何かを、取り返しのつかない形で失った気がしていた。姿が見えないだけではない。“存在”そのものが、最初からなかったかのように。
その瞬間。
アビゲイルの胸元。銀のクロス型ペンダントが、淡い光を灯した。
「……あなたが、守ってくれていたの……?」
誰の声かもわからない囁きが、彼女の記憶に触れる。
「……母さん……」
その声の奥で、かすかに揺れる記憶があった。白い手。あたたかい背中。遠い日、誰かがそっと髪を撫でてくれた感触。思い出せないのに、涙が出そうになる──そんな記憶。
呟きとともに、何かがほどけていく。ペンダントが揺れる。その小さな振動と同調するように、遮蔽幕の内側に──
【Observation Node ∆.H1】
【RECORD STATUS : UNDEFINED】
【UNREGISTERED SIGNAL : E-0V-A】 【因子分類:観測不能】
【Still observing…】
【NOTICE : UNKNOWN INTERFERENCE CONTINUES】
【EVA : 感情因子に基づく観測継続処理中……】
やがてノイズに呑まれ、光も影も消え去った。誰もその“観測の痕跡”を、証明することはできなかった。だが確かに、そこには“誰か”が見ていた。 そしてそれは世界の形を、静かに書き換えていく。



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