Scene.6a -「観測断片:Δ.H0」

スポンサーリンク
▼オリジナル小説

【補助観測ログ M-04】

【所属:世界政府中央科学研究院/特殊解析部門】

【記録方式:自動送信】

【対象:Δ.H0該当区間】

【再現率:0.02%】

【信頼値:算出不能】

【映像・音声・熱源データ:部分欠損】

 衛星通信は安定していた。

 ──少なくとも、数分前までは。

 観測室の空調は正常。

 冷却ファンも規定値内。

 端末との接続にも異常はない。

 それでも、再生できない記録が一つある。

 複数の映像ログがモニターへ並んでいる。

 その中の一つだけ再生処理が途中で停止する。

【PERSON DETECTED】

【ID:UNRESOLVED】

【TRACKING LOCK:FAILED】

 映像そのものは存在している。

 データ容量も異常なし。

 チェックサムも一致。

 それなのに、人物追跡だけが成立しない。

 私は再生位置を数秒戻した。

 トーキョー・シティの変異区域。

 複数の変異市民が路上を移動している。

 その中に少女が一人立っていた。

 映像では見える。

 輪郭もある。

 服装も確認できる。

 だが、識別枠が重ならない。

 一度固定しても、次のフレームで外れる。

 熱源追跡も同じだった。

 反応は存在する。

 しかし数フレームだけ、少女に対応する値が欠ける。

 周囲の変異市民にも不自然な挙動があった。

 少女の近くまで来た個体が、視線を別方向へ滑らせる。

 別の個体はその位置を避けるように進路を変えた。

 全個体ではない。

 完全な再現性もない。

 それでも偶然として切り捨てるには、同じ傾向が多すぎる。

 ──Δ.H0。

 旧封鎖記録の中で、分類不能ログへ暫定的に付与されていた識別記号。

 対象の名称ではない。

 能力名でもない。

 観測側が説明できなかった現象へ置いたラベル。

 それが再び画面へ現れている。

 私は三つの仮説を並べた。

──A:複数センサー間の時刻同期不良。

──B:人物識別・追跡処理の競合。

──C:意図的な記録消去、または対象に付随する記録処理異常。

 どれも単独なら成立する。

 だが、すべての欠損を同時には説明できない。

 映像。

 人物識別。

 熱源。

 移動予測。

 異なる系統が、同じ対象付近だけで不安定になる。

「……興味深いわね」

 声に出してから、自分で気づいた。

 恐怖より先に、探究心が動いていた。

 私はこの感覚を知っている。

 既存理論だけでは処理できない記録。

 欠損しているのに、欠損そのものが情報を持っている状態。

 若い頃にも似たものを見た。

 私はかつてケイト・クロスの助手だった。

『あなたは何のために研究するの?』

 あの人はそんなことを聞いた。

 当時の私はうまく答えられなかった。

 研究する理由など、結果を出すためで十分だと思っていた。

 2059年。

 ケイトは死んだ。

 その後も研究は続いた。

 2065年。

 ヘンリック・ホフマンが消えた。

 そこからクロス・レガシーの実務解析は私の仕事になった。

 現在の肩書きは、クロス・レガシー解析室長。

 管理責任者。

 観測官ではない。

 それでも、やっていることは変わらない。

 残された断片を読む。

 欠けた記録を繋ぐ。

 そこに何があったのかを考える。

 進化の果てを語る者は多い。

 だが、実際にそこへ到達した者を私は知らない。

 黒須蔵人は何かを見た。

 ホフマンは何かへ届こうとした。

 ケイトは問いを残した。

 私はその痕跡を読んでいる。

 まだ答えには届いていない。

 だから、分析を続ける。

 端末上へ私的な暫定ラベルを展開した。

【PRIVATE ANALYSIS / TEMPORARY LABEL】

【RΩ/ラズ】

 高変動。

 トーキョー・シティ異常との関連性が高い。

 行動目的は未確定。

【EΩ/EVA】

 ホフマン関連存在。

 自律性、処理範囲、現在の介入規模とも評価保留。

【AΓ/アビゲイル】

 現場統率能力、高。

 環境変化への適応速度、高。

【JΓ/ジャン】

 記録照合、情報解析、戦術支援。

 大量情報下でも処理精度を維持。

【RΓ/リョウ】

 高出力近接型。

 部分変成による前衛制圧。

 継戦時の消耗、大。

【MW/マナイア】

 負傷。

 戦闘継続能力、低下。

 現時点で観測優先度を下げる。

【Z/リク】

 所在不明。

 現行データ不足。

 統計対象から除外。

 人間をすべて理解する必要はない。

 研究上は、行動、能力、結果へ分解できる。

 必要な因子だけを抽出すれば、比較は成立する。

 [ワイルドカード]もそうだった。

 彼らが何を望んでいたかではない。

 どこまで到達できるか。

 何を突破できるか。

 何を残すか。

 私はそれを見ていた。

 だが。

 Δ.H0だけはその方法では整理できない。

 該当フレームを演算モデルへ入力する。

 予測誤差が増える。

 条件を変える。

 再計算。

 同じ。

 入力順序を変える。

 再計算。

 また誤差が増える。

【Δ.H0】

【市民登録:該当なし】

【現地呼称:取得不能】

【人物追跡:不安定】

【熱源追跡:部分欠損】

【映像欠損:断続】

【危険度:算出不能】

 名前がないのではない。

 こちらの記録に名前が残っていないだけ。

 存在しないのでもない。

 映像にはいる。

 人間は見ている。

 接触した記録もある。

 それでも、記録系だけが同じ位置で躓く。

「観測不能……ではない」

 私は表示された記号を見る。

「観測はできている」

 問題は、その後だ。

 固定できない。

 分類できない。

 既存のデータ構造へ置いた瞬間に、何かが欠ける。

 それが対象そのものの性質なのか。

 現在のシステム側に原因があるのか。

 まだ判断できない。

 クロス・レガシーの断片と照合した時だけは違った。

 類似する欠損パターンが複数現れる。

 偶然。

 そう判断することもできる。

 だが、私はそれを選ばなかった。

 ポケットの中で指先が硬いものへ触れた。

 黒曜石。

 小さなイヤーカフ。

 幼い頃、マリカと対で持っていた片割れ。

 何十年も前のものだ。

 何の機能もない。

 研究資料でもない。

 それなのに、捨てていない。

 ポケットから取り出し、指先で形を確かめる。

 誰のものだったかは分かっている。

 なぜ今も持っているのか。

 その問いに答える必要はない。

 少なくとも今は。

 イヤーカフをポケットへ戻した。

 端末に通知が走る。

【外周エリア:変異市民群の移動パターン逸脱】

【複数群:同時刻に進路変更】

【局所制御波形:断続検出】

 私は座標ログを拡大した。

 三つの群れ。

 離れた区画。

 別々に移動していた変異市民が、ほぼ同時刻に進路を変えている。

 目的地は一致していない。

 だが、移動開始のタイミングが近すぎる。

 偶発的な徘徊では説明しづらい。

「……誘導されている?」

 仮説。

 まだ事実ではない。

 局所制御波形も断続的で、発信源は追えない。

 それでも、都市内部で何かが複数の対象へ同時に作用している可能性は残る。

 私はもう一度Δ.H0の記録へ戻った。

 記録の欠損も、結果だ。

 追跡失敗も結果。

 観測系が不安定になるなら、その不安定そのものを記録すればいい。

 だが。

 それでも足りない。

 未来演算モデルは壊れていない。

 入力された情報も大部分は正常。

 なら。

 モデルではなく、前提の方が間違っている可能性がある。

 既存分類へ入らないものを、無理に分類しようとしている。

 私は椅子から立ち上がった。

 観測対象へ近づけば、観測条件は変わる。

 当然、観測者自身も系の中へ入る。

 それは避けるべき誤差だ。

 本来なら。

「……記録だけでは足りない」

 口にした瞬間、自分の判断が決まった。

「私自身が観測する」

 その時。

 端末の音声波形が跳ねた。

【AUDIO INSERT:UNREGISTERED】

【SOURCE:UNKNOWN】

【ANALYSIS:FAILED】

 再生していない音声データ。

 入力記録にも存在しない。

 ノイズの中に、一つだけ人間の声に近い波形がある。

 私は再生した。

『……こ、えて……』

 途切れた少女の声。

 もう一度。

『……こ、えて……』

 意味は取れない。

 名前なのか。

 警告なのか。

 単なるノイズの誤認なのか。

 解析結果は変わらない。

【SOURCE:UNKNOWN】

【ANALYSIS:FAILED】

 私は画面を見たまま動かなかった。

 理由は説明できない。

 それでも。

 この声を以前にも聞いたことがあるような気がした。

【補助観測ログ M-04/終了】

コメント

タイトルとURLをコピーしました