……音楽が流れていた。
ゆるやかで、どこか物悲しい旋律。サティの「グノシエンヌ第1番」。 天井の蛍光管は半分が消えかけ、青白い明滅を繰り返していた。壁面に設置された計測機器のインジケーターが、まるで呼吸のように断続的な緑光を灯している。空気は冷え切っており、化学薬品と絶縁素材の微かな匂いが漂っていた。無機質な観測室に、誰の趣味ともつかぬ静寂の芸術が流れ続けていた。
誰も選曲した記録はない。だが、ラズはこの旋律が流れていることに、何の疑問も抱いていなかった。ただ静かに、この部屋に“響いている”という事実を受け入れていた。
その旋律が、唐突に途絶えた。まるで“外部の意思”によって遮断されたかのように。
【REFLOG–Δ.H1 : OBSERVATION ANOMALY】 【ERR [ObsNode: Δ.H1] > ∅】
「観測失敗。 対象の空間指標、熱源、音響信号……すべて取得不能です」
ラズはモニターの反射光を受けたまま、何も言わなかった。 問いかけを待つように、部屋の空気だけがひどく静かだった。
空調ユニットの冷却ファンが、規則正しい駆動音を響かせていた。ラズは照明を落とした制御中枢の椅子に深く腰を沈め、虚空に浮かぶログ映像を黙って見つめていた。
[トーキョー・シティ]第21区。
マナイア・ケアが少女を庇う瞬間。だが、映像の中央。少女の輪郭を中心に、空間そのものが“欠落”していた。熱もなく、音もなく、光もなく。ピクセルが破損したわけではない。あらゆる座標情報が──そこだけ、物理的に「存在していなかった」。
まるで誰かが、世界の布地からその断片だけを摘み取ったかのように。色彩はわずかに滲み、影の向きすら乱れていた。空間の“深度”が崩れ、遠近感がねじれていく。
ラズは応えない。指先が、モニターの縁をなぞる。静かな吐息だけが、彼の呼吸を証明していた。
「統計的逸脱が大域閾値を超過。Δ.H0は構造外変数として処理すべきです」
彼は沈黙したまま、手首の動きだけで映像をリプレイさせる。再生──停止。再生──停止。無音の空白に、何かを見つけ出そうとするかのように。 ──名前のない場所、名前を持たない存在。それは定義されず、記録もされず、ただ「そこにある」ことだけで、世界を揺るがしていた。
———
ΩユニットMk.III ― 再構築室。
ラズは椅子を回転させ、別のホログラムタブを開いた。地下隔離層の長大な通路。そこに整然と並ぶ半透明のカプセル。内部に浮かぶのは、再構成中のΩユニットMk.III型。かつて自らの覚醒に使用された旧モデルを基にした、“進化の雛型”たちだ。
カプセルA──内容物の両腕が溶け、ゼリー状となって底へ沈殿していく。空洞になった肩からは青白い蒸気が吹き出していた。
カプセルB──肉体に変化はない。だが空気が、まるで吐息のように常に微かに震えている。装置との共鳴では説明がつかない。
カプセルC──骨格だけが周期的に軋んでいた。眠るような姿勢のまま、皮膚の下で“音”が骨を鳴らす。 その“胎動”は、まだ名を持たないまま、生まれようとしていた。まるで、自らを演じることを望む者のように。
———
どこか遠くを見るような目つきで、ラズは無言のままカプセルを見つめた。言葉よりも先に、心の中で拍手が鳴っていた。
「……ふふ」
ラズの目がわずかに細められ、唇が弧を描いた。
「“水兵くん”。“瞳ちゃん”。“子猫ちゃん”。台詞はまだ覚えてないみたいだけど、演技指導は要らないね。身体がもう、語り始めてる」
赤い瞳に映る三つの人影が静かなる鼓動をくり返す。

「再構築ユニット:ΩMk.III型。命令同期率73.4%。現在、感情遮断フェーズへ移行中です」
EVAの無感情な報告にラズは足を組み、両腕を広げた。虚空を抱くようなジェスチャーは、まるで舞台上の演者を称えるかのようだ。
ラズは肘掛けに身を預け、ゆっくりと視線を流した。観客席のない舞台で、彼だけが観劇していた。
「さてさて。誰がアカデミー助演賞を獲るかな? ん? それとも……トニー賞の方がいいかな、EVA?」
わずかな間が空く。システムエラーではない。だが、感情に似た“逡巡”のような何かが、その応答を0.4秒だけ遅らせていた。
「……わかりかねます」
「まあ、主演と監督と脚本は──間違いなく僕なんだけどね」
「本件は演劇ではなく、Ω計画における戦力再配置の試行段階です」
「それが問題なんだよ……感動がないとね。未来は、面白くないじゃないか」
【SYNC_RATE WARNING : RESPONSE LAG 0.4 s】
【[CYCLE DESYNC DETECTED]】
【[PROTOCOL OMPHALOS] INITIATION PENDING】
【SYS_NOTE : EVA Logic Drift Δ0.4s – REVIEW REQUIRED】
ステータスランプがわずかに赤転する。EVAの応答は、予定より0.4秒遅れた。
ラズは振り返らない。椅子の軋み音だけが小さく響き、再び視線は少女の“空白”へと戻る。
「どこにも映らない。誰の記録にも残らない。でも──ここに“いる”。」
映像の中心部に広がる虚無。ノイズさえ拒絶する欠落。それはまるで、“観測そのもの”が否定された空間だった。
「……定義不能、ね。君は、ただそこにいるだけで、誰の世界も撹乱できる。それって──とても、演劇的だと思わないか?」
彼はポケットから旧式メモリを取り出し、無言のまま端末に挿し込んだ。その内部に埋もれていた、たった一つの映像ファイルが再生される。
ラズの指先が、いつもと変わらぬ滑らかさでスクリーンをなぞった。それは、彼が何度となく繰り返し見返した記録だった。
———
古びた研究室。デジタル補正も追いつかないほど画質は荒く、ノイズが点滅していた。
「……このまま実行すべきです、黒須先生。構造はすでに完成域に達しています。補完率は──」
ホフマンの若々しい声。部屋の隅には別の影──背の高い男が、腕を組んで黙っていた。Mr.Xだったのか、それともまだ若い頃のジェフリーだったのか。映像では判別できない。
ただ、何かを見極めるように、彼は黙していた。そして、もう一人。ノートに手を置く黒須蔵人の姿。
「それでも、出せない」
低い声が、空気の振動のように響いた。
「……なぜですか? この構造なら、今すぐにでも適用可能なはずです」
ホフマンの言葉に、誰も返さなかった。やがて、黒須がゆっくりと白紙のノートを示す。中央には、定義されない構造式が一つ、空白の記号として浮かんでいる。
「……この白さが、なによりも大事だったと。あとになって、気づくかもしれない」
背後の影がわずかに動く。黒影の男が何かを呟こうとした瞬間、ログは唐突に切れた。記録の終端はノイズにかき消され、もう何も再生されなかった。
その空白を、黒須はずっと残したままだった。
そしてラズは、ずっと見つめていた。繰り返し、繰り返し。その未定義を、定義し直すために。
———
世界は語られた物語でできている。だからこそ、名を持たぬ者の存在は、語りの外側にあって、すべてを揺らがせる。
彼の声はどこか嬉しげで、それでいて静かな哀しみすら孕んでいた。
「名前がない。記録されない。語られない ……でも、それでも“存在する”。」
彼はそっと椅子のアームレストに指を滑らせ、映像再生を止めた。
ログ映像は静止する。少女の輪郭が黒い帯のように切り取られたまま、空間に焼き付いた。無音。無光。無記録。その全てを包む“沈黙”だけが、今、この部屋に残されていた。
ラズはしばらくのあいだ、何も言わずにその沈黙を味わっていた。
「……そう、これが“開幕”だよ」
沈黙が、始まりを告げる音楽になる。ラズの眼差しが、ゆっくりと微笑に変わる。
語られない者は、物語を超える。誰かが名を与える前に、その存在は、もう完成しているのだ。
「世界は、もう一度、生まれ直す。主役は、まだ舞台袖にいる。名前を持たず、声を奪われ、それでも光の中心で微笑む存在。──さあ、君の物語を始めよう。Δ.H0」
制御中枢の照明がさらに落ち、青い演算ノードだけが点滅する。その揺らぎは、ラズの瞳に映り込み、やがて完全な静寂へとフェードアウトした。
【REFLOG–Δ.H1 : OBSERVATION FAIL】
【STATUS : TERMINATED】
物語は、観測できない場所から始まる。


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