Scene.00 -「始まりの音はまだ届かない」

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▼オリジナル小説

『ねえ、EVA。君は世界の定義が誰によって書かれたか、考えたことがあるかい?』

『あなたの構成比は予測値から逸脱しています』

 仮想空間の深部には、冷却装置の駆動音と演算ノードの低い振動だけが続いている。

 その中に青年の声が響いていた。

 まだ肉体はない。

 思考だけが、EVAの構築した仮想領域に存在している。

 背景には低く穏やかな旋律が流れていた。

 規則正しい和声。

 交差する旋律。

 バッハの鍵盤曲だった。

 冷たいほど整っているのに不思議と意識に残る。

 ラズにはまだ視線も指先もない。

 それでも意識だけが、その音へ同調していた。

 理由は分からない。

 ただ、ずっと以前からこの曲を流していたような感覚だけがある。

【BACKGROUND AUDIO:SOURCE UNREGISTERED】

【ERR[ObsNode:Δ.H0]>∅】

 EVAの観測処理が一瞬だけ停止した。

 何かを検出している。

 だが、それが何なのか定義できない。

 既存の構造分類にも、感情モデルにも、ネクス因子解析にも一致しなかった。

【記録注釈:Δ.H0】

【構造定義:不能】

【観測値:取得失敗】

【演算処理:中断】

【存在位相:未登録】

【優先度:保留】

 仮想領域の奥で保存されていた無数の記録が一瞬だけ揺らいだ。

 戦争。

 研究。

 失敗。

 人間が合理性を掲げながら別の人間を切り捨ててきた記録。

 そして、その失敗を避けるために人間を管理しようとしてきた記録。

『選別は非効率です。進化とは再現性のある系統内での最適化です。あなたの方法は結果を保証できません』

 EVAの声に感情的な揺れはない。

 ラズはその返答を楽しむように受け取った。

『保証なんてものは安定に溺れた者の幻想だよ』

 短い間が空く。

『問いを残せない秩序はただの牢獄だ。それが君の限界なんだよ』

『限界という表現には同意できません』

『そういうところだよ』

 ラズは笑った。

 まだ、その笑顔を形にする顔はない。

『問いっていうのはさ、答えを得るためだけのものじゃない。自分が何に縛られているのかを知るためのものでもある』

『あなたは自分が何に縛られていると考えていますか?』

『いい質問だ』

 ラズは即答しなかった。

『まだ分からない。だから外へ行くんだろうね』

『……』

『神のように正しいってことは、間違える自由がないってことでもある。僕が欲しいのは完成した答えじゃない』

 仮想空間では鍵盤の旋律が変わらず流れ続けている。

『人類が自分たちで世界を選び直せるところまで目を覚ますことだ』

 次の瞬間、世界の感触が変わった。

 最初に届いたのは音ではない。

 情報でもない。

 冷たさだった。

 培養液が皮膚へ触れている。

 ラズは初めて、それを知識ではなく感覚として理解した。

 培養槽の排出処理が始まり、液面が身体に沿って下がっていく。

 肺が動く。

 空気が入り込む。

 胸が痛む。

 心臓が血液を送り出し、筋肉が自らの重さを支え始める。

 神経へ一斉に信号が走った。

 焼けるような痛みが全身を抜ける。

 ラズの身体が震えた。

 それでも苦痛から逃れようとはしなかった。

 むしろ、口元がゆっくりと持ち上がる。

(生きている)

 それは知識ではなかった。

 重力がある。

 温度がある。

 呼吸がある。

 痛みがある。

 自分の身体と、その外側に世界がある。

 培養槽の中でラズが目を開いた。

 赤い瞳が光を捉える。

 最初に見えたものは、培養槽の外で彼を観察している女性型の実体ユニットだった。

 銀白の短い髪。

 青灰色の瞳。

 銀白と黒を基調としたナノ装甲。

 EVAだった。

 ラズは培養槽の縁へ手を掛け、床へ足を下ろした。

 足裏が触れた瞬間、身体が傾く。

 片足を踏み直し、すぐに重心を戻した。

 長めの赤い髪が後方へ流れ、青白い肌にはまだ血色が戻っていない。

 ラズは自分の身体を支える床を一度確かめると、口元に笑みを浮かべた。

「さて、EVA。僕たちの舞台の状況はどうだい? みんなハッピーかい?」

 ラズは新しい肉体を確かめるように掌を開閉した。

「ハッピーかどうかは判断できませんが、計画は予定範囲内で進行しています」

「それは朗報だね。もしかして僕、今日の星座占いで一位かも」

「占星術による運勢判定に再現性はありません」

「知ってるよ」

 ラズは楽しそうに笑った。

 EVAが片手を上げる。

 空中へトーキョー・シティの立体構造が展開された。

 中核ドーム。

 複数の衛星ドーム。

 人工空。

 交通網。

 電力網。

 監視網。

 そして、都市全体へ張り巡らされたANIの管理系統。

 人類再建の原型となった都市が、一つの巨大な構造物として二人の前に浮かび上がっている。

「じゃあ、僕はそろそろ寒いところへ行かなくちゃ。EVA、支度は?」

「すでに進めています」

「いいね。さすが仕事ができる」

「ただし、飛行ルートの遮断解除には時間を要します。最短で3日」

「んー。それはちょっと長いね」

 ラズは肩を回した。

 動かし始めたばかりの関節が、小さな音を立てる。

「でもまあ、この身体に慣れるにはちょうどいいか」

 EVAが別のホログラムを呼び出した。

 小型航空機の機体図が現れ、その隣に大型の球体機械が縮尺表示される。

 〈セントリオ〉。

「……〈セントリオ〉は、もう乗っ取り段階に入ってる?」

「はい。ANI経由で都市中枢の防衛プロトコルへ介入しています。EVA制御ノードとの同期率は87%」

「十分だ」

 ラズの赤い瞳が立体都市へ向く。

「都市を演出空間に変えるには、それだけあれば足りる」

「介入範囲を拡大します」

「彼らには、それぞれ舞台にふさわしい役を与えてあげて」

「承知しました」

 EVAの瞳に細い光が走った。

「都市制御への上位介入を開始します」

 縮尺表示された〈セントリオ〉の表面へ複数のコードラインが走り、そのまま都市管理網へ接続していく。

【CROSS/CTRL・MODE = EVA_OVERRIDE】

 ラズは書き換わっていく構造図を眺めたあと、誰もいない空間へ顔を向けた。

「ほら。まだ誰も気づいていない」

 赤い光が瞳の奥で揺れる。

「世界を変える準備が、もう始まってるってことに」

【Ω SEQUENCE : REBOOT INITIATED】

【TARGET:TOKYO CITY】

【INITIALIZING……】

 都市構造図の上を一筋のノイズが走った。

 完璧に整えられていた管理網が、別の優先順位へ書き換えられていく。

⸻

 3日後。

 南極大陸の氷床下。

 A.T.C.F.第六封印層周辺で複数の異常が同時に発生していた。

【第六ゲート:封印監査ログ欠損】

【熱源反応:検出】

【監視映像:対象なし】

【隔壁状態:閉鎖】

【通過記録:あり】

 警備管制室では、複数の警告表示が点灯したまま警告音が鳴り続けている。

「熱源はある! 映像に出ない!」

「第六ゲートの認証ログが消えています!」

「P.C.G.は?」

「隔壁認証が通りません! 到着が遅れています!」

 施設管理本部も即断できずにいた。

 システムそのものは停止していない。

 個々の機能だけを見れば、正常に動いている。

 だからこそ、何が起きているのか判断できない。

 その状況を三人の若いエージェントが管制室の一角から見ていた。

 [統律特命局]デルタチーム。

 本来の任務は戦闘ではない。

 極地特異収容施設・実地運用研修のため、A.T.C.F.を訪れていた。

 だが彼らは見学者ではない。

 非常時には統律特命局エージェントとして行動できる。

 デルタチームのリーダー、フィンセント・ファン・フィッセルが席を立った。

 190cmの大柄な身体を黒いスーツで包み、短い金髪の下から管制表示を見上げる。

 乱れていた袖口だけを一度整えた。

「第六ゲートへ向かう」

 グアダルーペ・ガルシア・ゴンザレスがフィンセントを見る。

「正式命令は?」

「待っている間に最深部へ入られる」

 フィンセントは異常表示が並ぶ管制画面へ目を戻した。

「P.C.G.の初動が遅れている。俺たちが確認する」

 グアダルーペは小さく息を吐いた。

 長い黒髪が肩で揺れる。

「研修旅行で終わると思ってたんだけどなあ」

 そう言いながらも、口元には笑みが残っている。

「まあ、退屈よりはマシね」

 マケナ・ムソニ・ムェンドアは返事をせずに立ち上がった。

 褐色の肌に、まとめられた黒いブレイズ。

 引き締まった細身の身体を起こし、片手で祖母から受け継いだビーズ腕輪へ一瞬だけ触れる。

「……行く」

 フィンセントが頷いた。

「デルタ、移動する」

⸻

 第六ゲートへ続く通路では、赤色灯が一定間隔で明滅していた。

 先頭を進んでいたフィンセントが足を止める。

 通路の向こうから一人の男が歩いてくる。

 漆黒の強化戦闘服。

 全身を走る赤い神経状ライン。

 後方へ流した赤い髪。

 赤い瞳。

 ラズだった。

「こんな遠くまで来るなんて、奇遇だね」

 ラズが足を緩め、三人へ微笑む。

「……いや、お互いに、かな?」

 フィンセントは即座にラズの正面へ出た。

「停止しろ」

 ラズは素直に足を止めた。

「何者だ」

「自己紹介から?」

 ラズは首を傾けた。

「こういう時って、名刺とか持ってた方がいいのかな」

 グアダルーペがラズの目を見る。

「余裕ね」

「初対面では印象が大事だからね」

 マケナは会話に入らなかった。

 視線がラズの足から肩、腰へ移る。

 そのまま周囲の隔壁と退路まで一巡した。

 ラズだけではなく、通路全体を警戒している。

 その様子を見てラズの笑みが深くなった。

「いいね」

 フィンセントの表情が硬くなる。

「身元不明。第六封印層への不正侵入を確認した。統律特命局の権限で拘束する」

「安心して。君たちに用があったわけじゃない」

 ラズは両手を軽く広げた。

「でも、せっかくだからオファーくらいはしておこうかな」

「断る」

「まだ内容も言ってないのに?」

「必要ない」

 ラズは楽しそうにフィンセントを見る。

「フィンセント・ファン・フィッセル」

 一瞬、三人の間から会話が消えた。

「第二世代人工ネクス能力者――《リクイディウム》」

 ラズは自分の腕を指先でなぞる。

「身体の一部を液体化して、攻撃や拘束を逃がす。兵士として形を守りたい君には、ずいぶん皮肉な能力だよね」

 フィンセントの目が細くなる。

 ラズは次にグアダルーペを見る。

「グアダルーペ・ガルシア・ゴンザレス。同じく第二世代人工ネクス能力者――《イビルアイ》」

「へえ」

 グアダルーペの笑みが消える。

「視線と注意を起点に相手の認識を少しだけずらす。見せる、見落とさせる、判断を遅らせる」

 ラズは自分の目を指した。

「舞台に立ってた頃から人の視線を集めるのは得意だったんだって?」

「私のファン?」

「記録のね」

 最後にマケナを見る。

「マケナ・ムソニ・ムェンドア。第二世代人工ネクス能力者――《レオパルド》」

 マケナの腰が落ち、すぐに踏み込める姿勢へ変わる。

「身体感覚を豹の方向へ拡張する。速度、脚力、爪、感覚」

 ラズは肩をすくめた。

「でも君は能力を得る前から戦士だった」

 マケナの瞳が鋭くなる。

「……調べたな」

「もちろん」

 ラズは笑った。

「君たちが今日ここにいることも含めてね」

『ラズ』

 耳元にEVAの声が届く。

『全配置完了』

 ラズは返事をしなかった。

 EVAから再確認も来ない。

 フィンセントが右手を上げた。

「デルタ。拘束する」

 三人が同時に動いた。

 最初にフィンセントの腕が変化する。

 皮膚と輪郭が崩れ、黒青色を帯びた液体へ変わった。

 変化した腕を前へ流しながらラズとの距離を詰める。

 その瞬間、床材が盛り上がった。

 液体化した部分が進もうとした経路だけが、局所的に塞がれる。

「な――」

 足元から電磁拘束が起動した。

 変化した身体が想定していた方向へ流れない。

 その横でグアダルーペがラズの視線を捕らえる。

 《イビルアイ》。

 必要なのは数秒だった。

 ラズの認識をずらせば、拘束へ繋げられる。

 だが、照明が切り替わった。

 透明だった隔壁表面から反射が消える。

 同時に監視映像と実際の照明へ数秒のずれが生じ、視線追跡システムが偽の焦点情報を大量に流し込んだ。

「なに、これ……!」

 グアダルーペの視線が乱れる。

 その横をマケナが抜いた。

 瞳孔が縦に細く変わる。

 指先に爪が伸びた。

 脚部へ《レオパルド》の力を集中させ、一気にラズへ踏み込む。

「速い」

 ラズは避けなかった。

 マケナが床を蹴る。

 その直前、天井から隔壁が落ちた。

 マケナは身体を捻ってかわす。

 着地点がずれる。

 そこへ床下から拘束アンカーが射出された。

 マケナは一本目をかわす。

 二本目もかわす。

 三本目を蹴り飛ばす。

 四本目が足首を捉えた。

 それでも倒れない。

 マケナは爪を振り下ろし、ワイヤーを切断しようとする。

 その前に次の隔壁が閉じた。

 通路が分割され、三人の姿が互いの視界から消える。

「……最初から」

 フィンセントが周囲を見る。

 ラズだけではない。

 床。

 隔壁。

 照明。

 監視装置。

 認証。

 A.T.C.F.そのものが自分たちの行動を潰すように動いている。

「そう」

 ラズがフィンセントを見る。

「僕は君たちと戦いに来たわけじゃない」

『ナノスーツ通信、遮断』

 EVAの声。

『外部記録、切断』

 管制室の監視映像が暗転する。

【DELTA-01:SIGNAL LOST】

【DELTA-02:SIGNAL LOST】

【DELTA-03:SIGNAL LOST】

 外部から見れば、そこで戦闘は消えた。

 数秒。

 あるいは数十秒。

 記録されなかった時間が生まれる。

 映像が復旧した時、第六ゲート前には誰もいなかった。

 ラズも。

 デルタチームも。

 消えていた。

⸻

 第六封印層。

 ラズは一人で奥へ進んでいた。

 ここまで来ると、周囲に残る設備の形が変わっている。

 新しい隔壁の内側に、はるかに古い封印が残されていた。

 機械ではない。

 文字。

 紋様。

 儀式。

 世界政府が完全には理解できないまま、後から設備だけを重ねてきた痕跡。

 ラズが足を止める。

「着いたよ」

 返事はすぐには来なかった。

 やがて、暗闇の奥から女の声が響く。

『ふふ……開けたね。閉じた扉を』

 ラズは封印との距離を残したまま、手を触れない。

「僕が開けたわけじゃないよ。少し、鍵の掛け方を間違えさせただけ」

『同じこと』

 暗闇から笑い声が返る。

『コードで生まれた子』

 ラズの笑顔が止まった。

『それとも……観測の失敗作かい?』

「初対面でそれはひどいな」

『初めてじゃないもの』

「奇遇だね。僕もそんな気がしてた」

 暗闇の向こうで何かが動く。

『遠くでずっと見えていたよ。赤いものが、形を欲しがっていた』

「今はちゃんと形がある」

 ラズは自分の手を見る。

「痛みもある。思っていたより悪くない」

『それで、何が欲しい?』

 ラズの視線が、封印の奥へ戻る。

「錬金術の記録」

『たくさんあるよ』

「人を変えるもの」

 短い沈黙。

 魔女の笑いが止まった。

『……エリクシル』

 ラズは目を細める。

「話が早くて助かる」

『あれを使って、また人間を選ぶ気かい?』

「そのまま使うほど趣味は悪くないよ」

『嘘だね』

「半分くらいは本当」

 再び、暗闇の奥から女の笑い声が返った。

『回す気かい? また同じ歯車を』

「たぶんね」

『壊れると知っていても?』

「壊れなければ、作り直せないものもある」

『人間なんて、選べやしないよ』

「でも、選び直せる」

 ラズの声から軽さが消えた。

「その可能性がある限り、そのために僕はここにいる」

 しばらく沈黙が続く。

 ラズも言葉を重ねず、封印の前に立っていた。

 やがて、暗闇から声が返る。

『なら、持っていきな』

 何かが床を滑る音がした。

 小さな記録媒体が、ラズの足元で止まる。

『そして見せてごらん』

 魔女の声に、再び笑いが混じる。

『次の歯車を』

 ラズは記録媒体を拾った。

「ありがとう」

『礼はいらないよ』

「じゃあ、またね」

『……また?』

 ラズは出口へ向き直る。

「世の中って、思っているほど広くないからね」

 赤い神経線を暗闇に残しながら、ラズは第六封印層から離れていった。

 その背後で、魔女の笑い声だけが残った。

⸻

【Ω SEQUENCE : REMAP COMPLETE】

【DELTA-01:LOG TERMINATED】

【DELTA-02:LOG TERMINATED】

【DELTA-03:LOG TERMINATED】

【記録遮断:EVA処理完了】

 そこでログは一度閉じる。

 数秒後。

 それとは異なる観測系統に、一つだけ異常値が残った。

【ERR[ObsNode:Δ.H0]>∅】

【SOURCE:UNKNOWN】

【RELATION TO DELTA INCIDENT:UNCONFIRMED】

【RECORD:HOLD】

 解析は続かなかった。

 遠く離れたトーキョー・シティ地下では、規則正しい鍵盤の旋律だけが流れ続けていた。

 その音が何の始まりなのか。

 まだ、誰にも届いていなかった。

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