【<SPRK-VIS.LOG> : CONNECTION PARTIAL — 実行コード断片/観測同期不安定】
──ゴーグル内HUD表示中
【視界入力:不明】
【音声信号:断片】
【記録モード:パッシブ(自動ログ)】
【記録断片|#delta-H1】
「正しさが……分裂していく……」
──神経同調:ノイズあり/外部干渉?
【補足記録:本体意識消失中/生命反応微弱/記録継続】
仄暗い研究棟ホール。
天井の蛍光灯は半数が落ち、残された灯りが断続的に明滅していた。照明カバーの内側で火花が散り、焦げた電子の匂いが空気を濁らせる。
床には、スプロケットが横たわっていた。彼女の身体からは煙のようなものが立ち上っており、神経共鳴ユニットが不安定に点滅している。呼吸は浅く、鼓動のリズムも一定ではなかった。
ホール全体に漂う薬品と焼けた金属の混ざった臭気が、酸素の濃度すら鈍らせるかのように重く、淀んでいる。
その傍らにはポイゾナスが、無言で腰を下ろしていた。汗に濡れた紫色の髪を、指で耳の裏へと払う。そのとき、黒曜石のような質感のイヤーカフがわずかに光を弾いた。
彼女はそっと、スプロケットの手を握るようにして、また離した。その仕草には、迷いも、祈りも、涙もない。 ただ、感情を失ってしまわなければ自我を保てない、限界点を超えた者だけが見せる、静けさがあった。
「……だから言ったろ。もう限界だって」
低く沈んだ声が、部屋の隅から響いた。フェイズだった。
壁際に背を預け、腕を組んだまま、冷めた視線を床に落としている。
「“あのお方”からの指示も途絶えてる。ラズの動きも、結局、全部仕組まれてたんじゃねぇのか……?」
「……そんなはず、ない」
ポイゾナスが小さく反応する。その声に宿るのは、力強さでも信念でもなかった。 ただ、何か一つでも信じるものを。それが嘘でも探そうとするかすかな意志。
「この子(スプロケット)だけは……私たちが守らなきゃ」
フェイズが顔を上げた。目は、疲れと苛立ちを重ねたような色を帯びている。
「その“私たち”って、誰のことだ? ……もうオレは、誰の顔も信じられねぇ」
沈黙が落ちる。
そのとき、重い鉄の扉が、音もなく開いた。 足音も立てずに歩みを進めてきた白衣の女が、ホールの入り口に現れる。その瞳だけが、凍てつく刃のように空気を裂いた。
「……来たのね」
ポイゾナスが顔を向ける前に、呟くように言った。
揺れる声。その中に、覚悟と怯え、再会への嫌悪と渇望。すべてが同居していた。
女は、唇の端をほんのわずかに歪める。
「こんな形で再会するなんてね。……マリカ」
その名に、部屋の空気がわずかに凍りついた。
フェイズの目が動く。
「……誰だ、お前」
女は淡々と名乗った。
「ミーラ・マリク。世界政府の科学部門に属している。そして、あなたたちにとっては“あのお方”の敵になるわね」
その言葉にフェイズはすぐに反応し、苛立ちから怒りの表情へ染まる。
「“敵”だと? その敵が何しに来た?」
フェイズが低く問い返す。
ミーラは答えず、ポイゾナスの前に歩み寄り、ひざをつく。
手にした端末をスプロケットの腕に接続すると、わずかな反応音とともに、神経インジケータが微かに点灯した。
「神経パルス安定。脳波も微弱だけれど、回復傾向にある」
まぶたは閉じたままだったが、わずかに睫毛が震えた気がした。
何かを夢見ているように、呼吸のリズムが一瞬だけ変わる。
(……この仕草、昔も……)
ポイゾナスの脳裏に、まだ穏やかな表情を見せていた頃のスプロケットが過った。
無邪気さと無垢さ、そのどちらも忘れてしまったかのような今の彼女に、それでも微かな残像が重なって見えた。
ポイゾナスが目を見開いた。
「……本当に、助けられるの?」
「解除コードの原型は手に入れてある。完全ではないけど、延命はできる」 ミーラは迷うを一切見せない即答にポイゾナスは希望を見出す。
「……ふざけんなよ」
フェイズが立ち上がる。
「なぜオレたちは“敵”であるあんたを信用する?」
フェイズのもっともな意見にミーラは慌てずポイゾナスを見る。
「マリカ・マリク。別の名をポイゾナス。そう、私の妹よ」
ミーラの言葉にフェイズだけではなく、終始無言だったタウロスも驚く。
「妹だと? 本当か?」
フェイズの血走った目が向けられ、腕組みするタウロスも返答を待っていた。
すると、ゆっくり立ち上がったポイゾナスは、紫の髪をかき分け、耳にある黒曜石製のイヤーカフを見せる。
「このイヤーカフはペアになっている。同じ物はこの世にはないわ」
ポイゾナスの誘導により、ミーラはポケットから無造作に黒曜石製のイヤーカフを取り出し、フェイズに投げ渡した。
「マジかよ……」
フェイズのなんとも言えない表情に対し、手の中のイヤーカフを見たタウロスは無言のまま一切表情を変えない。

「これで信用してもらえるかしら?」
返答を待つミーラはポイゾナス、妹のマリカを見ていた。
「本当にこの子(スプロケット)を助けられるのね?」
強い眼差しのポイゾナスに、ミーラは黙って頷いた。
「ちょっと待てよ!」
フェイズはその間に割って入る。その声は震えていたが、怒りの矛先はミーラではなかった。
「オレたちは命張って“戦争”してたんだ。真実も知らされずにな……それなのに、今さら“取引”だと?」
喉の奥に詰まった感情が、彼の言葉を震わせる。
信じたものに裏切られた時間の重さが、そのすべてに滲んでいた。
ミーラはフェイズに視線を向け、強い口調で言葉を投げかける。
「ええ。これはあくまで利害の一致。“感情”の問題ではないわ」
そして──ほんのわずか、視線を落としたまま、言葉を選ぶように沈黙する。
「……私も、正しさがどこにあるかなんて、もうわからない。ただ……それでも、選ばなければならないのよ」
ホールに緊張が走る。
「私は、世界政府が隠蔽してきた極秘データ。Ω計画、ネクス理論、そのすべてを公表するつもり。でも、その記録は政府中枢にある。そして、その道中には、“あのお方”が支配する観測不能領域が存在する」
ミーラは、彼らに向けて言う。
「解除コードも、そこにある。私ひとりでは不可能。でも、あなたたちなら到達できる」
フェイズが、低く唸った。
「それが、本当に“正しさ”か?」
「定義上の“正しさ”なら、とっくに破綻してる。……でも、人はそれでも、“次の基準”を探すのよ」
ミーラは一瞬だけ目を逸らし、口を結ぶ。
「“正しさ”は、後から意味づけられる幻想。誰かが定めるものじゃない」
彼女は、それ以上何も言わなかった。ただ、マリカ──ポイゾナスの瞳を見つめた。
「私には、もう妹はいない。でも……マリカが選ぶ道なら、信じる価値はある」
フェイズの視線が揺れる。
「クソッ……お前らがどうなろうと知ったことか。でもな、“正しさ”ってのは、壊れてからじゃ遅いんだよ」
フェイズはイヤーカフをミーラに手渡し、その一言を残して、彼は視界から一瞬で姿を消した。移動能力の発動。
ホールに再び沈黙が戻る。
タウロスが、無言のままスプロケットの身体を抱き上げた。彼の腕には、じわじわと血が滲んでいる。だが、その動きに一切の迷いはない。
「……タウロス?」
ポイゾナスが問う。
彼は、短く呟いた。
「スプロケが、生きているなら行くべきだ」
ミーラが目を細める。
「その判断、正しいわ」
それでも、ポイゾナスは言葉を見つけられずにいた。
ミーラは静かに告げる。
「正しさなんて、後でついてくる。問題は、何を手放すか」
ミーラはスプロケットを心配するポイゾナスを見る。
(私はもう、“妹”を手放した。その結果を、誰にも伝えていない)
あの時、選ばなかったのは私だ。
妹を“救う”ことよりも、“研究”を選んだ正しさという幻想のために。たとえ、その選択が誰かの命を救う礎になろうと、妹を置いてきたという事実だけは、決して消えなかった。
遠い昔に捨てたはずの感情がまだ自分に残っていたと悟る。
(……あの人に言われたことがある)
『選ぶことを恐れないで。たとえ何度でも、やり直せるなら、それは価値があるわ』
誰も声を発さず、時間だけが止まったように流れていた。それなのに、ふと背筋をかすめるような感覚が、数人の体を通り過ぎる。
言葉にできない“気配”。
この場に存在しないはずの誰かが、こちらを見ている。そんな錯覚。
──ホールの隅。
誰も気づかなかった椅子の上から、ひとつの影が立ち上がった。それは、“最初からいなかった”かのように存在感が希薄だった。影のような衣を纏い、ベールをかぶった顔。
オラトリオ。
そこだけの空気が一瞬震え、温度が下がる。
「命の選択……それは、音のない楽譜。奏でられる前に、失われることもある」
その言葉に、冷えた笑いがかぶさる。
甲高い、狂気を帯びた別の声。
「あっはっはっ! 選べるだなんて、よく言うわ。壊れるだけのものを、真顔で選ぶなんて滑稽、滑稽! 涙も出やしない!」
声は嗤っているのに、芯には感情がなかった。
「でも……悪くないわね。こういう茶番、ほんと、好き。続きを見たくなるのも、運命ってやつかしら?」
やがて、その存在は音もなく消えていった。そこに残されたのは、“興味”だけだった。感情ではない、ただの観察者の目。
【<SPRK-VIS.LOG:補足断片>】
【Δ.H0通過痕跡/人格因子:重複/干渉判定:分類不能】
【記録継続中/本体意識未回復/復旧レート:0.4%】
──誰の正しさも、確かではない。
それでも信じようとした者たちの、歪んだ希望だけが残された。
音のない共鳴が、断片的な記録の奥で、まだ微かに揺れていた。


コメント