Scene.15 ―「ゆがんだ正しさが歩いてくる」

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▼オリジナル小説

【<SPRK-VIS.LOG> : CONNECTION PARTIAL — 実行コード断片/観測同期不安定】

──ゴーグル内HUD表示中

【視界入力:不明】
【音声信号:断片】
【記録モード:パッシブ(自動ログ)】

【記録断片|#delta-H1】

「正しさが……分裂していく……」

──神経同調:ノイズあり/外部干渉?

【補足記録:本体意識消失中/生命反応微弱/記録継続】

 仄暗い研究棟ホール。
 天井の蛍光灯は半数が落ち、残された灯りが断続的に明滅していた。照明カバーの内側で火花が散り、焦げた電子の匂いが空気を濁らせる。
 床には、スプロケットが横たわっていた。彼女の身体からは煙のようなものが立ち上っており、神経共鳴ユニットが不安定に点滅している。呼吸は浅く、鼓動のリズムも一定ではなかった。

 ホール全体に漂う薬品と焼けた金属の混ざった臭気が、酸素の濃度すら鈍らせるかのように重く、淀んでいる。
 その傍らにはポイゾナスが、無言で腰を下ろしていた。汗に濡れた紫色の髪を、指で耳の裏へと払う。そのとき、黒曜石のような質感のイヤーカフがわずかに光を弾いた。
 彼女はそっと、スプロケットの手を握るようにして、また離した。その仕草には、迷いも、祈りも、涙もない。  ただ、感情を失ってしまわなければ自我を保てない、限界点を超えた者だけが見せる、静けさがあった。

「……だから言ったろ。もう限界だって」

 低く沈んだ声が、部屋の隅から響いた。フェイズだった。
 壁際に背を預け、腕を組んだまま、冷めた視線を床に落としている。

「“あのお方”からの指示も途絶えてる。ラズの動きも、結局、全部仕組まれてたんじゃねぇのか……?」

「……そんなはず、ない」

 ポイゾナスが小さく反応する。その声に宿るのは、力強さでも信念でもなかった。  ただ、何か一つでも信じるものを。それが嘘でも探そうとするかすかな意志。

「この子(スプロケット)だけは……私たちが守らなきゃ」

 フェイズが顔を上げた。目は、疲れと苛立ちを重ねたような色を帯びている。

「その“私たち”って、誰のことだ? ……もうオレは、誰の顔も信じられねぇ」

 沈黙が落ちる。
 そのとき、重い鉄の扉が、音もなく開いた。  足音も立てずに歩みを進めてきた白衣の女が、ホールの入り口に現れる。その瞳だけが、凍てつく刃のように空気を裂いた。

「……来たのね」

 ポイゾナスが顔を向ける前に、呟くように言った。
 揺れる声。その中に、覚悟と怯え、再会への嫌悪と渇望。すべてが同居していた。
 女は、唇の端をほんのわずかに歪める。

「こんな形で再会するなんてね。……マリカ」

 その名に、部屋の空気がわずかに凍りついた。

 フェイズの目が動く。

「……誰だ、お前」 

 女は淡々と名乗った。

「ミーラ・マリク。世界政府の科学部門に属している。そして、あなたたちにとっては“あのお方”の敵になるわね」

 その言葉にフェイズはすぐに反応し、苛立ちから怒りの表情へ染まる。

「“敵”だと? その敵が何しに来た?」

 フェイズが低く問い返す。

 ミーラは答えず、ポイゾナスの前に歩み寄り、ひざをつく。
 手にした端末をスプロケットの腕に接続すると、わずかな反応音とともに、神経インジケータが微かに点灯した。

「神経パルス安定。脳波も微弱だけれど、回復傾向にある」

 まぶたは閉じたままだったが、わずかに睫毛が震えた気がした。
 何かを夢見ているように、呼吸のリズムが一瞬だけ変わる。

 (……この仕草、昔も……)

 ポイゾナスの脳裏に、まだ穏やかな表情を見せていた頃のスプロケットが過った。
 無邪気さと無垢さ、そのどちらも忘れてしまったかのような今の彼女に、それでも微かな残像が重なって見えた。

 ポイゾナスが目を見開いた。

「……本当に、助けられるの?」

「解除コードの原型は手に入れてある。完全ではないけど、延命はできる」  ミーラは迷うを一切見せない即答にポイゾナスは希望を見出す。

「……ふざけんなよ」

 フェイズが立ち上がる。

「なぜオレたちは“敵”であるあんたを信用する?」

 フェイズのもっともな意見にミーラは慌てずポイゾナスを見る。

「マリカ・マリク。別の名をポイゾナス。そう、私の妹よ」

 ミーラの言葉にフェイズだけではなく、終始無言だったタウロスも驚く。

「妹だと? 本当か?」

 フェイズの血走った目が向けられ、腕組みするタウロスも返答を待っていた。
 すると、ゆっくり立ち上がったポイゾナスは、紫の髪をかき分け、耳にある黒曜石製のイヤーカフを見せる。

「このイヤーカフはペアになっている。同じ物はこの世にはないわ」

 ポイゾナスの誘導により、ミーラはポケットから無造作に黒曜石製のイヤーカフを取り出し、フェイズに投げ渡した。

「マジかよ……」

 フェイズのなんとも言えない表情に対し、手の中のイヤーカフを見たタウロスは無言のまま一切表情を変えない。

「これで信用してもらえるかしら?」

 返答を待つミーラはポイゾナス、妹のマリカを見ていた。

「本当にこの子(スプロケット)を助けられるのね?」

 強い眼差しのポイゾナスに、ミーラは黙って頷いた。

「ちょっと待てよ!」

 フェイズはその間に割って入る。その声は震えていたが、怒りの矛先はミーラではなかった。

「オレたちは命張って“戦争”してたんだ。真実も知らされずにな……それなのに、今さら“取引”だと?」

 喉の奥に詰まった感情が、彼の言葉を震わせる。
 信じたものに裏切られた時間の重さが、そのすべてに滲んでいた。
 ミーラはフェイズに視線を向け、強い口調で言葉を投げかける。

「ええ。これはあくまで利害の一致。“感情”の問題ではないわ」

 そして──ほんのわずか、視線を落としたまま、言葉を選ぶように沈黙する。

「……私も、正しさがどこにあるかなんて、もうわからない。ただ……それでも、選ばなければならないのよ」

 ホールに緊張が走る。

「私は、世界政府が隠蔽してきた極秘データ。Ω計画、ネクス理論、そのすべてを公表するつもり。でも、その記録は政府中枢にある。そして、その道中には、“あのお方”が支配する観測不能領域が存在する」

 ミーラは、彼らに向けて言う。

「解除コードも、そこにある。私ひとりでは不可能。でも、あなたたちなら到達できる」

 フェイズが、低く唸った。

「それが、本当に“正しさ”か?」

「定義上の“正しさ”なら、とっくに破綻してる。……でも、人はそれでも、“次の基準”を探すのよ」

 ミーラは一瞬だけ目を逸らし、口を結ぶ。

「“正しさ”は、後から意味づけられる幻想。誰かが定めるものじゃない」

 彼女は、それ以上何も言わなかった。ただ、マリカ──ポイゾナスの瞳を見つめた。

「私には、もう妹はいない。でも……マリカが選ぶ道なら、信じる価値はある」

 フェイズの視線が揺れる。

「クソッ……お前らがどうなろうと知ったことか。でもな、“正しさ”ってのは、壊れてからじゃ遅いんだよ」

 フェイズはイヤーカフをミーラに手渡し、その一言を残して、彼は視界から一瞬で姿を消した。移動能力の発動。

 ホールに再び沈黙が戻る。
 タウロスが、無言のままスプロケットの身体を抱き上げた。彼の腕には、じわじわと血が滲んでいる。だが、その動きに一切の迷いはない。

「……タウロス?」

 ポイゾナスが問う。

 彼は、短く呟いた。

「スプロケが、生きているなら行くべきだ」

 ミーラが目を細める。

「その判断、正しいわ」

 それでも、ポイゾナスは言葉を見つけられずにいた。

 ミーラは静かに告げる。

「正しさなんて、後でついてくる。問題は、何を手放すか」

 ミーラはスプロケットを心配するポイゾナスを見る。

(私はもう、“妹”を手放した。その結果を、誰にも伝えていない)

 あの時、選ばなかったのは私だ。
 妹を“救う”ことよりも、“研究”を選んだ正しさという幻想のために。たとえ、その選択が誰かの命を救う礎になろうと、妹を置いてきたという事実だけは、決して消えなかった。
 遠い昔に捨てたはずの感情がまだ自分に残っていたと悟る。

(……あの人に言われたことがある)

『選ぶことを恐れないで。たとえ何度でも、やり直せるなら、それは価値があるわ』

 誰も声を発さず、時間だけが止まったように流れていた。それなのに、ふと背筋をかすめるような感覚が、数人の体を通り過ぎる。
 言葉にできない“気配”。
 この場に存在しないはずの誰かが、こちらを見ている。そんな錯覚。

──ホールの隅。

 誰も気づかなかった椅子の上から、ひとつの影が立ち上がった。それは、“最初からいなかった”かのように存在感が希薄だった。影のような衣を纏い、ベールをかぶった顔。
 オラトリオ。
 そこだけの空気が一瞬震え、温度が下がる。

「命の選択……それは、音のない楽譜。奏でられる前に、失われることもある」

 その言葉に、冷えた笑いがかぶさる。
 甲高い、狂気を帯びた別の声。

「あっはっはっ! 選べるだなんて、よく言うわ。壊れるだけのものを、真顔で選ぶなんて滑稽、滑稽! 涙も出やしない!」

 声は嗤っているのに、芯には感情がなかった。

「でも……悪くないわね。こういう茶番、ほんと、好き。続きを見たくなるのも、運命ってやつかしら?」

 やがて、その存在は音もなく消えていった。そこに残されたのは、“興味”だけだった。感情ではない、ただの観察者の目。

【<SPRK-VIS.LOG:補足断片>】
【Δ.H0通過痕跡/人格因子:重複/干渉判定:分類不能】
【記録継続中/本体意識未回復/復旧レート:0.4%】

──誰の正しさも、確かではない。

 それでも信じようとした者たちの、歪んだ希望だけが残された。
 音のない共鳴が、断片的な記録の奥で、まだ微かに揺れていた。

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