白衣の裾が、扉の向こうをすり抜けた。視界の端に、たしかに“誰か”の輪郭があった。赤い非常灯がわずかに揺れ、その揺らぎの奥に、白くなびく衣が確かに存在した。
アビゲイルの網膜には〈0.3秒先の残像〉が焼きついていた。周囲の空気は、何かが“触れた”あとのようにざらついていた。冷たい空調の流れも、鉄骨の軋みも、ほんの一瞬だけ止まっていたように思えた。息をするのすらためらわれるような“間”があった。
しかし扉の向こうに気配はなく、空気はあくまで沈黙していた。彼女は反射的に、胸元のペンダントへ指を伸ばす。何かが始まろうとしている──そんな直感だけが、骨の奥で静かに鳴っていた。
———
【補助記録ログ #Δ.H1】
【記録元:統律特命局/自律観測ノード・H1】
【対象因子:不定義コード Δ.H0】
【記録状態:断片/不完全】
【整合率:0.02%】
【エラー:対象の存在証明──取得不能】
【エラー:因子の空間位置──補足不能】
【エラー:接続試行──全チャンネル遮断 再試行中……】
———
静寂の中、何かが“そこにいる”気配だけが、確かにあった。それは音でも視線でもない。ただ空気の“揺らぎ”。
アビゲイルが反射的に振り返ったとき、何もなかった。だが彼女は、見えない何かが背後に触れたような錯覚を振り払えなかった。
地下の旧医療施設。震災時に仮設使用された“廃区画”。冷却の効かない空調孔が唸りを上げ、鉄骨の梁に水滴が打ちつけられていた。錆の匂いと消毒液の残り香が入り混じり、室温はわずかに人体の熱を反響するだけ。それなのに、室内はどこか“音”が足りなかった。まるで、世界そのものが息を潜めているように。
アビゲイル・エイミー・アームストロングは、無言のままベッドを見下ろしていた。そこには、腹部を止血されたマナイア・ケアが横たわっている。浅い呼吸。だが意識はある。
そして、彼のすぐ傍らには小さな少女が、膝を抱えて座っていた。
──陽名(ひな)。
白いシャツの肩に埃をかぶりながら、彼女はただ黙ってそこにいた。まるで“部屋の構造そのもの”に混ざっているかのように、影と光の輪郭すら曖昧だった。
「……ヒナ……心配、いらねぇよ……」
マナイアがかすれた声で呟く。少女は目を上げない。ただ、その声を“受け取る”。ジャン=ジャック・ジャカールが、通信端末の再起動を試みていた。 網膜HUDには、いつものように複数のログウィンドウが並ぶ。だが、全てが同じ応答を返していた。
【ERROR:∅】
【空アドレス】
【通信チャンネル:全断】
【構造データ:消失】
「おかしい。まるで……最初から存在してなかったみたいな反応ですね」
「まさか……幽霊、なんてことねーよな?」
リョウがポテチの袋を差し出す。陽名は迷いなくそれを一枚取り、音を立てて咀嚼する。リョウは疑うような言葉とは裏腹に食べる少女が確かに存在していると感じている。
「ジャン君、今の──取ったよな?」
「ええ……たしかに“見えた”とは言えますが、データはまったく反応していません」
「いやいや、ちゃんと音が聞こえているだろう?」
口をモグモグと動かす少女にリョウとジャンの視線が釘付けになる。
──その瞬間、空気が反転した。
赤黒い粒子が静かに螺旋を描き、視界がノイズ交じりに揺れた。
──仮面のような無表情。男の顔が空間から浮かび上がる。

「……!?」
アビゲイル、ジャン、リョウは中空に現れるはっきりしない顔を見る。
『……分類コード:未定義──通達一件』
機械的なメッセージの通知が流れ、アビゲイルはジャンと目を合わせ頷く。その横ではリョウは無意識にポテチを頬張っていた。
『受信識別:ガンマチーム。再生プロトコルを実行』
Mr.X。世界政府の中枢にして、“記録に残らない命令系統”の権限保持者。
「観測不能因子を至急移送せよ。必要に応じて、排除も許可する。記録は残すな。以上だ」
火の点いた煙草が揺らめき、空間は崩れるように沈黙した。ジャンが静かに告げる。
「……指揮系統ごと、切られてるってことか」
「命令ってのはな、聞くもんじゃねえ。……選ぶもんだ」
マナイアが吐き出すように呟いた。 アビゲイルはゆっくりと立ち上がる。
『……守って……』
胸の奥に微かな声。名前すら思い出せない、けれど確かに温かい声。陽名が静かに歩み寄り、小さな手を差し出した。
彼女は、ずっと黙っていた。言葉も、表情も、過去の記憶すらも何一つ持っていないかのように。けれどその手だけは、誰かの温もりを今、ここにある“確かさ”を求めるように、そっと動いた。
それは何の脅しも、懇願もない。ただ“触れたい”という意志だけ。アビゲイルの手が、彼女の手を包み込む。指先が触れた瞬間、《命令》の重さがふっと溶けた。
──その瞬間だった。
(ミーラ・マリクの心の声)
理論だけでは説明できない“何か”が、この世界には確かに存在する。私はただの観測者のはずだったのに、知らず知らずに願っている。この混沌が新しい未来を生むことを。
(彼女の手がわずかに震え、視線が揺れる)
電子ロックが開き、コートの裾が揺れる。白衣に黒のロングコート。ミーラ・マリク。
「……遅かったかしら?」
「……私の前任者が、なぜここまで辿り着けなかったのか。その理由を、今なら少しだけ分かる気がするわ」
その声に、リョウとジャンが同時に振り向く。
「行方不明だったはずじゃ……」
「あなたを、保護対象として確保します」
アビゲイルが即座に一歩踏み出す。
ミーラは言葉を返さない。ただ陽名を一瞥し、深く計測するような視線を向ける。
「“クロス・レガシー”……それが、私が救出される理由よ」
ミーラの思わぬ言葉に全員が表情を変える。
「偉大な超天才・黒須蔵人が遺した最後の記録。私が所持する解析データこそが……未来を左右する、と判断されたの」
沈黙が落ちる。
ジャンが、ぽつりと呟いた。
「……その名前。ボクが最初に見たのは、監視局の深層ログだ。 内容には触れられなかったけど、ハッキングの痕跡だけで独房送りにされた。 ……その扱いで、逆に“本物”だと確信したよ」
「ちょっと待て、それ……」リョウが指を立てる。
「“ゼロバスター”のやつじゃねえか? ヒーロー番組の! 青く光る剣とか、空を飛ぶバイクとか……あれ、全部“クロス・レガシー”の武装って設定だったぞ……つまり、正義の象徴ってやつだ」
「……戦術兵装だけじゃない」アビゲイルが静かに口を開いた。
「再構成技術、エネルギー制御、思考拡張。私が使っている〈高周波刀〉も、その応用群の一つと教えられた。“人類の未来を支える技術”──軍学校では、そう学んだ」
マナイアが、うっすらと目を開けた。
「……あれは……ぶっ飛んでたな……」
微かな息とともに、低く笑う。
「前線で何度か見た。あの腕と、目の光。……“クロス・レガシー”って、そう呼ばれてた」
再び、静かに目を閉じた。
彼らは、それぞれ“知っていた”。だがその全員が、“ほんの一部”しか知らなかった。そしてそれを、知っていると信じていた。それが、一番の誤認だった。
ミーラの視線が、静かに陽名へと向く。
陽名は、何も言わなかった。ただ、じっとミーラを見返す。ほんの一瞬だけ。
目に見えぬ何かが交錯し、そして、拒絶するように、彼女はそっと視線を逸らした。その瞳は、何も語らぬままに、すべてを“知っている”ようでもあった。
刹那、ミーラの中で何かが“過剰に反応”した。まるで、自分の口が勝手に誰かの意志を喋っていたかのような──そんな奇妙な錯覚。
「……またか」ミーラは、誰にも聞こえぬように呟いた。
視線が揺れた。陽名の存在が、自分の記憶のどこかに重なるような錯覚。それが“誰の記憶”なのかさえ分からないのに、なぜか、涙腺がわずかにきしんだ。
誰も言葉を継がない。沈黙の中心にいるのは、ただ“そこにある”存在。
あらゆる記録が擦れ違い、断片だけが語られ、すべてが揺らぎの中にある。それでも、誰かの掌がそこに触れた“余熱”だけは今も、確かに残っている。
【補助観測ノード H1:ログ終了直前記録】
信号干渉を検出……記録継続は不可能。
Δ.H0、再定義試行中。
……判断は、すでに観測対象に委ねられている。
【観測終了】
──地下に戻る。
重なった手の温もりだけが、空気の震動よりも確かだった。そのわずかな熱が、まるで部屋の重心をずらしたかのように、静かに世界の重力を変えていく。誰かが命令し、誰かが従う。そんな構造が、ほんの一瞬だけ、ひっくり返った気がした。
天井がかすかに鳴る。遠雷のような振動。
ジャンが囁く。
「……〈セントリオ〉が、また動き出した……」
非常灯が明滅し、粒子が舞う。塵のすべてが、次の変化を予兆している。その中心にあったのは、名も持たぬ物語の核。
しずかに触れ合った、二つの手のひらだった。


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