Scene.04 ―「火は名前を知らない」

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オリジナル小説

 夜が明けきらぬ[トーキョー・シティ]第21区。
 かつて物流の拠点として栄えた地下倉庫は、今や瓦礫と沈黙に埋もれた空洞と化していた。空気は乾いているのに、微かにカビのような鉄の匂いが漂っていた。遠くで軋む機械音が響いている──だが、それすらもこの場所には届かない。

 すべてが凍ったように静かだった。まるで時間ごと、封じられているかのように。シャッターの内側に転がる、倒れた自販機。壁には剥がれかけた政府のポスターが斜めに貼られている。
 “正しき統律、輝ける未来”──ひび割れと埃にまみれたその標語は、もはや皮肉にしか見えなかった。天井から垂れ下がる配管は鉄のように冷たく、鈍く光を反射している。

 その中で、ただ一点だけ穏やかな灯りがあった。非常用ランプ。オイル式の旧式品。揺れる橙色の光が、床に腰を下ろした男の横顔をぼんやりと照らす。
 マナイア・ケア。トーキョー・シティにて要人救出の為に投入された[ワイルドカード]と呼ばれた特殊部隊の隊長で最後の生き残り。重い装備を脇に置き、背中を壁に預けたまま、しばし静かに息を吐いた。

 腕のアーマーには焦げ痕が走り、ナイフで刻まれたような古傷が金属表面を削っていた。呼吸の合間に、わずかに顎を引く癖。それはかつて仲間を守る前の癖だった。
 その向かいには、一人の少女。  陽名――“ヒナ”と呼ばれるその少女は、掌に乗せた缶詰のフタをじっと見つめている。

「……腹は減ってねぇか?」

 葉巻を噛んだまま、マナイアが問いかけた。
 陽名は首を横に振った。ひどく静かな仕草だった。

「食べたら……眠くなっちゃいそうで。今は、起きてたい」

「へぇ……言うねぇ」

 マナイアは苦笑を漏らしながら、缶詰を手に取った。フタを引き剥がし、しょっぱい魚の加工品をそのまま口へ運ぶ。舌に残る保存料の味が、舌ではなく記憶を刺激した。

「んまい! やっぱ戦場の飯は、塩気が命だな」

「しょっぱいの……好きなんだ」

「そりゃあな。“涙で味つけるのは嫌い”なんだよ、俺は」

 誰かと火を囲んだ夜の記憶が、ふと脳裏に過る。
 名も知らぬ隊員と、焦げたパンを分け合ったあの瞬間──あれも塩の味だった。

「塩なら自分で足せる。でも泣いてもしょっぱくなるだけだ。意味ねぇ」

 陽名は黙り込んだ。  缶詰のフタに映る灯りが揺れ、彼女の目元をかすかに照らす。

「……でも、誰かのために泣いた塩なら、ちょっとくらい味になるかも」

 マナイアは一瞬だけ食べる手を止め、それから不意に吹き出した。

「へっ、言うじゃねぇか。見た目より芯あるな、お前」

「おじさんも……怖くない?」

「怖いさ。ただ……怖がってるだけじゃ、陽が昇らねぇだろ?」

 缶詰の残りを口にかき込んだマナイアは呑み込んでから一拍置いてから話す。

「俺はな、暗がりにいたらまず“火を点ける”主義なんだ。心にな」

 その言葉に、陽名はふっと笑った。
 だがその笑みの奥に、名づけようのない影が揺れていた。
 マナイアは照れ隠しに葉巻を取り出したが、火は点けなかった。  煙を立てれば敵に見つかる。それでも――吸うふりだけはしてみせる。

「おい、嬢ちゃん。ヒナって名前、誰がつけた?」

 陽名は、不意を突かれたように顔を上げた。

「……わからない。でも、たぶん、昔の誰か。優しい人だった気がする」

 マナイアを見ているようで何かを思い出しているような瞳。

「ほとんど覚えていない……ただ、呼ばれた時に、安心したことだけは……覚えていて」

 その声は、耳よりも胸に触れるようなかすれ方だった。
 マナイアは少しだけ目を細めた。

「ヒナ、ね……へぇ、漢字の名前か。珍しいな。最近の旧日本じゃ、カタカナばっかりだと思ってたが」

 陽名は、わずかに瞬きをする。

「“陽の名”か。そいつは、あったかい名前だ。お前に似合ってるよ」

 陽名はそっと頷いた。その頬に、非常灯の光が筋を描き、きらめいた。  マナイアは首元の戦闘服の奥から、小さな銀色の束を取り出す。
 それは傷だらけの金属片──ドッグタグ。失われた仲間たちの名が、そこに刻まれている。

「ヒナ……見せたいだけだ。これは俺にとって命のようなモノだ」

 ネックレスチェーンに束ねられた五枚の金属片から擦れ合う金属音。マナイアはぶっきらぼうながら大事そうに持っている。

「傷だらけで汚れても、こいつらがいたってことを──少しでいい、覚えててくれ」

 陽名の指が、タグにそっと触れた。

「……ちいさな鈴の音……それに、冷たいはずなのに、あったかい。朝の空気に、似てる」

 彼女は目を伏せ、タグの表面を撫でるように指を滑らせた。
 マナイアの脳裏に、最後に見た隊員たちの背中がよぎる。通信がノイズに変わった瞬間。名前だけが、最後まで残った。

「へっ、面白いこと言うな。鈴か──そうかもな。まだしゃべり足りねぇ連中の声、ってとこか」

「名前があると、音が残る気がする。もう声は出せなくても、ここで鳴ってる……そんなふうに、感じる」

 陽名の独特な感性にマナイアは少し戸惑うが、どこか安心感を与える雰囲気があった。

「……昔な、戦場で瀕死の奴がいた。そいつの名を呼び続けたら、意識が戻ったんだ。奇跡でもなんでもねぇ。ただ──そのなんだ、音が、つなぎとめたんだよ」

 マナイアは軽く頷き、タグを再び首にかけて戦闘服の奥へ収める。

「……返してやる場所が見つかるまでは、俺が持っとく」

 口角をつり上げてしまった場所を軽くトントンと叩く。

「でもお前が“覚えてる”って言ってくれた。それだけで、十分だ」

 彼はタグを戦闘服の上からそっと握りしめた。

「俺は……こいつらの隊長だった。それでも、最後に助けられたのは、俺の方だったのかもしれねぇなぁ」

 狭い空間の天井を見上げるマナイアは隊員たちの顔を思い浮かべていた。

「ヒナ。……今、俺が一番怖いのはな。お前が、誰よりも“人間らしい”ってことだよ」

 突如言われた陽名は目を丸くした。

「……わたし、普通じゃないってこと?」

「いや、逆だ。普通なら、こんな状況で笑えねぇ。飢えて、震えて、泣いて、壊れちまう。 でもお前は……なんか、太陽みてぇなんだよ」

「……うん。でも、ちょっと、あったかい気がする」

「まあ、そう難しく考える必要はねぇ。俺だって自分が何を言っているのか分からないからな」

 ガハハと笑っていたマナイアを見て、陽名も小さく微笑んだ。
 その瞬間──世界を包んでいた透明な膜が、音もなく破れたような感覚が走った。  目に見えない泡が弾け、外の空気が一気に流れ込む。そんな錯覚が全身を包み込む。
 笑みの最中。彼女の視線が、天井に向けて凍りついた。

──異音。

 最初は気のせいかと思った。だが確かに、床が震えていた。鉄骨がかすかに鳴り、壁のひび割れから湿った空気が流れ込む。何かが、ゆっくりと階段を下りてくる音。
 空気が、わずかに反転した。知らない匂い。オイルでも血でもない、“冷たさ”だけを持った気配。 壁の向こうから、誰かに“視られている”。金属が擦れ、止まる。
 次に聞こえたのは、軋むような“呼吸音”に似た、機械の唸りだった。
 陽名は一歩、マナイアの背後へ下がった。

「……おじさん、さっきまで音なんてしなかった」

 さっきまで笑っていたマナイアの表情はそれまで違う緊張感に包まれる。

「ああ。あれは、“本気で探す”時の音だ。無作為じゃねぇ……俺たちを狙ってる」

 マナイアは立ち上がり、葉巻を奥歯で噛み砕いてポケットに入れる。そして手にしたのは、アサルトライフル。グレネード一体型の近未来兵装。赤外線センサーを起動し、無音で構える。

「地上階か。くそ、泡が弾けちまった……」

 マナイアは、こういう場所のことを“泡”と呼んでいた。ほんの数分だけの平穏──だがそれは、いつも壊れる運命にある。

「……泡?」

「外の音も気配も、この倉庫だけは何かが遮ってた。偶然だ。でもな──泡ってのは、いつか弾けるもんだ」

 陽名は不安げにマナイアの背中を見つめた。その背は、揺るがなかった。

「ヒナ。ここからは俺の仕事だ。……お前は、下がってろ」

 一気に緊張感が空間を支配すると、動けないような沈黙が漂っていた。

「いいか」

マナイアの声は低く、だが優しく響いた。

「戦場にはな、火を灯すやつが必要だ。誰かが最初に、それを起こす」

 赤外線センサーは音のする方へ向けられる。

「 ……それが俺の役目だ。今も、昔も、ずっとな」

 陽名は、黙ったままマナイアを見つめていた。その言葉が、火打ち石の火花のように──暗闇の奥で、確かに灯るのを見た。
 マナイアの指先が、タグの感触を確かめるように胸元をなぞる。そこに刻まれた“名”は、もう声では届かない。けれど今も、彼の中で、火種のように灯っていた。

「……へっ、おいでなすったぜ」

 扉の向こうから──“影”がやってくる。
 銀光る球体。赤いセンサー。非人間的な関節。
 それは、〈セントリオ〉の補助個体──〈センチレット〉だった。

「チッ、やっぱ機械か。……ならちょうどいい。試してやるよ」

 マナイアは陽名の前に立ちはだかる。
 屈強な背中が、ただ静かに揺れもせず、火を灯していた。

「ヒナ。次は、俺の番だ」

 陽名は口を結んだまま、ただその背中を見つめていた。
 小さく、指を握る。名前のない火が、まだ、消えないようにと── ひとつまえの夜の夢のように、どこか遠くで灯っているように。

 ……そう、願っていた。

 名前のない火は、誰にも呼ばれずとも、そこにあった。

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