『プレデター:バッドランド』を鑑賞した。
本作は『プレデター』シリーズにおいて、初めてプレデターそのものを主人公に据えた作品である。
映像やアクションの完成度は高く、一本のSFアクション映画として見れば、王道の構造を持った見やすい作品だった。
しかし、これを『プレデター』シリーズの一作として考えた時、私は高く評価することができなかった。
むしろ、本作によってシリーズが危険な袋小路へ入り込んだように感じている。
作品単体なら及第点だが、『プレデター』としては凡作
本作の評価は全体的に高い傾向にある。
映像は豪華で、アクションも分かりやすい。
主人公には明確な目的があり、仲間との出会い、挫折、成長、勝利という王道の流れも整っている。
一本の冒険映画として考えれば、十分に及第点を与えられる作品だと思う。
実際、高い評価を与えている人の中にも、「プレデターらしくはないが面白かった」という意見は少なくない。
しかし、私にとってはそこが一番の問題だった。
『プレデター』という題名が付いている以上、作品単体の完成度だけでなく、シリーズの一作として何を継承しているのかも評価に含めるべきだと思っている。
「プレデターではないが面白い」という言葉は、肯定的な評価に見えて、実はかなり重大な批判でもある。
プレデターでなくても成立する物語ならば、なぜ『プレデター』というシリーズで作る必要があったのか。
そこが曖昧なまま、映像とアクションの完成度によって覆い隠されているように感じた。
プレデターは感情移入する存在ではなかった
私の中でプレデターとは、強者を狩る異星人である。
人間とは異なる倫理と規則を持ち、こちら側から完全には理解できない。
その距離感こそが、プレデターの恐ろしさと魅力だった。
第1作と第2作では、プレデターの文化は断片的にしか見せられなかった。
武器、狩りの規則、頭蓋骨の収集、名誉を重んじる態度。
観客は限られた行動から、その背後にある文化を想像するしかなかった。
だからこそ、プレデターは異星人として成立していた。
ところが『バッドランド』では、プレデターに父親、兄、母親、承認欲求、劣等感、仲間との絆、家族という概念を与えた。
デクは一族から認められない若者として描かれ、ティアとバドとの旅を通じて、自分の居場所と新しい家族を得ていく。
これは物語として非常に分かりやすい。
しかし同時に、プレデターという異星人を、人間が理解しやすい成長物語の主人公へ変えてしまった。
プレデターの文化を深掘りしたというより、プレデターを人間的なヒーローへ翻訳したように見える。
その結果、外見や装備はプレデターでも、物語の中身は一般的なSF冒険映画になってしまった。
『AVP』で感じた違和感がさらに進んだ
私は『AVP』でプレデターと人間が共闘した展開にも違和感を持っていた。
一時的に利害が一致すること自体は、まだ理解できる。
しかし、ファンサービスを優先するあまり、プレデターを人間の相棒のように扱ったことで、異物感と威厳が薄れてしまった。
『バッドランド』では、さらにその先へ進んでいる。
人間と共闘するのではなく、プレデター自身が観客の感情移入先になった。
つまり、『AVP』ではプレデターを人間へ近づけたことが問題だったが、『バッドランド』ではプレデターそのものを人間的な人格へ作り替えている。
ここまで来ると、従来シリーズの延長ではなく、別の作品に近い。
『ザ・プレイ』で感じた危険信号
『プレデター:ザ・プレイ』は、まだ従来のコンセプトを保っていたと思う。
異なる時代の人間が、プレデターという狩猟者に追い詰められる。
主人公や舞台は変わっても、プレデターは外部から侵入してくる脅威だった。
ただし、時代設定には大きな疑問が残った。
プレデターは光学迷彩、宇宙航行、遠距離兵器、高度な医療装置を持つ異星人である。
それほどの存在が、近代兵器すら十分に存在しない時代の人間に敗れるとなると、どうしても無理が生じる。
作品内では未熟な個体、罠、地形、判断ミスなどによって勝敗を成立させている。
しかしシリーズ全体で見れば、プレデターの格を少しずつ落としているようにも見える。
第1作のダッチは、精鋭部隊を壊滅させられた末に、泥と罠と地形を総動員し、辛うじて生き残った。
勝利というより生還だった。
このバランスが、プレデターの格を守っていた。
『ザ・プレイ』ではまだ作品の基本構造は維持されていたが、プレデターが攻略可能な敵へ変わり始めている危険性を感じていた。
そして『バッドランド』で、その危惧が現実になった。
『ザ・プレイ』ではプレデターの戦闘上の格が危うくなり、『バッドランド』では物語上の役割そのものが変わった。
『エイリアン』と同じ袋小路
この流れを見ていると、『エイリアン』シリーズが入ってしまった袋小路を思い出す。
『エイリアン』は、正体も起源も分からないからこそ恐ろしかった。
どこから来たのか。
誰が作ったのか。
何のために存在するのか。
そうしたことが分からないまま、宇宙のどこかに存在する未知の生命体だった。
しかしシリーズが進むにつれて、起源、創造者、黒い液体、エンジニア、アンドロイドのデヴィッドへと説明が増えていった。
未知の怪物だったエイリアンは、やがて既知の登場人物によって作られた存在のように扱われた。
宇宙の恐怖が、個人の実験結果へ縮小された。
プレデターも同じ道を進んでいるように見える。
最初は狩りの規則だけを見せていた。
次に過去の狩猟を見せた。
さらに社会、家族、兄弟、父親、母親を見せた。
そしてウェイランド・ユタニ社まで登場した。
説明すればするほど、プレデターは理解可能な存在になる。
理解可能になるほど、最初に持っていた異物感は消えていく。
高度な文明と野蛮な文化の矛盾
私が以前から疑問に思っていたのが、プレデターの高度な科学文明である。
彼らは恒星間航行技術、光学迷彩、エネルギー兵器、医療装置、視覚補助装置を持っている。
しかし身体は明らかに精密作業へ適しているようには見えない。
指は太く、爪は長い。
裸眼では周囲を正確に認識しにくいように描かれてきた。
体臭が強いという描写もある。
文化的にも狩猟と戦闘を中心とした肉体派の種族である。
それにもかかわらず、人類をはるかに超える科学文明を自力で築いたという設定には、以前から納得しにくい部分があった。
私は当初、プレデターが高度な技術を別の文明から奪ったのだと思っていた。
強敵を倒し、頭蓋骨をトロフィーとして持ち帰る。
同じように、敵の武器、宇宙船、科学技術、文明そのものを戦利品として持ち帰った。
彼らが高度な技術を発明したのではなく、勝利した文明から奪い、自分たちの狩りへ組み込んだ。
この解釈ならば、野蛮な狩猟文化と高度な科学技術が自然に両立する。
しかし『AVP』シリーズやザ・クリーナーの描写、『バッドランド』で描かれた母星や一族を見る限り、プレデターは独自に技術を保有し、組織的に運用しているように見える。
それならば、技術者、科学者、教育、製造施設、資源管理、造船所、社会的分業が必要になる。
ところが『バッドランド』で描かれたのは、古代的で野蛮な戦士社会だった。
高度な文明を支える構造は見えないまま、宇宙船と武器だけが当然のように存在する。
文化を詳しく描いたことで、これまで想像によって補えていた矛盾が、むしろ拡大した。
プレデター文化は鎌倉時代を過激化した社会に見える
私の中でプレデター文化は、日本の鎌倉時代をさらに過激にしたような社会に近い。
個人の生命よりも一族の名誉が優先される。
名誉ある死は誇るべきものとされ、弱さや敗北は一族全体の恥になる。
父親は家庭内の保護者ではなく、一族の規範を執行する家長である。
子供も愛情によって守られる存在ではなく、戦士として認められて初めて価値を持つ。
『バッドランド』で描かれた父親の存在は、この文化とある程度一致していた。
しかし物語は、それを異星人独自の名誉社会としてではなく、厳しい父親から自立する若者の成長物語へ寄せていた。
その時点で、プレデター文化は人間の家庭問題へ縮小されている。
「母親」という言葉が示した危険信号
私にとって『バッドランド』最大の危険信号は、ラストで母親の存在を示したことだった。
私はこれまで、プレデターに人間と同じ男性や女性という概念はないと思っていた。
無性生殖、人工的な繁殖、遺伝情報による個体生成など、人類とは異なる生殖方法を想像していた。
そうでなければ、これまで女性型が一切登場しなかったことを説明しにくい。
過去作のプレデターたちも、人間側が便宜的に男性と認識していただけで、実際には性別そのものが存在しなかったと考えることもできた。
しかし「父親」と「母親」という言葉を使ったことで、人間と同じ家族構造を持つ可能性が高くなった。
父親がいて、母親がいて、兄弟がいる。
そうなると、プレデター文化はますます人間社会の変形に見えてしまう。
女性プレデターをどう描くのか
女性プレデターを登場させる場合、非常に難しい問題が生まれる。
人間の女性のように、乳房、細い腰、広い骨盤、滑らかな顔立ちを与えれば、一目で女性だと分かる。
しかし、それは生物学的に不自然である。
プレデターは見た目として爬虫類や節足動物に近い。
あの口の構造から、人間の哺乳類と同じ授乳方法を持つとは考えにくい。
卵生ならば、人間の女性と同じ骨盤構造や胸部の発達は必要ない。
それにもかかわらず、人間の女性の特徴をそのまま付ければ、それは女性プレデターではなく、プレデターの皮を被った人間の女性になる。
逆に、父親よりも巨大で圧倒的な戦闘力を持つ母親として描けば、これまでのプレデターたちが子供遊びをしていたように見える。
過去作の個体たちの格が一気に落ちる。
感情だけでデクを揺さぶる母親にしても、人間的な母子ドラマがさらに強くなる。
つまり制作側は、非常に難しい領域に足を踏み入れた。
安易に美しくしても失敗し、巨大な女王にしても失敗し、母性愛へ寄せても失敗する。
よほど良い意味で予想を裏切らない限り、私は高い評価を与えられないと思う。
ウェイランド・ユタニ社との接続
『バッドランド』にはウェイランド・ユタニ社が登場している。
これによって、『エイリアン』シリーズとの本格的なクロスオーバーが起こる可能性は高い。
ゼノモーフを出す。
ダッチを再登場させる。
リプリーを絡ませる。
アンドロイドのデヴィッドを再登場させる。
制作側にとっては、魅力的な選択肢だろう。
しかし私にとっては、そこにも危険しか見えない。
ダッチはすでに高齢であり、前線で戦わせるには無理がある。
カメオや情報提供者なら成立しても、物語の中心へ置けば、シュワルツェネッガーというブランドを利用した集客に見える。
リプリーも使われすぎている。
彼女の物語はすでに何度も終わりを迎えており、再び中心へ戻せば世界そのものが狭くなる。
さらにデヴィッドまで出せば、プレデターの物語がエイリアン側の未解決設定へ引っ張られる。
プレデターとゼノモーフの遭遇ではなく、複数の迷走した設定を一本の映画で整理する作業になってしまう。
最悪なのは、プレデター文明の起源までアンドロイドや人類に結びつけることだ。
それをやれば、プレデターは独自に進化した異星文明ではなく、誰かの実験結果になる。
エイリアンの起源をデヴィッドへ回収した時と同じ失敗になる。
25世紀という時代設定の問題
『バッドランド』は地球で言えば25世紀頃の物語だとされている。
その時代にウェイランド・ユタニ社が存在している点も、世界観としては引っかかる。
『エイリアン4』の時代には、同社はすでに過去の企業として扱われていた。
それよりさらに未来で再び活動しているなら、再興、後継企業、ブランド復活などの説明が必要になる。
しかし本作では何も語られていない。
遠い未来に設定することで、過去作と直接衝突しにくくしたのだろう。
ただ、それは整合性を取ったのではなく、説明が必要な時代を飛び越えただけにも見える。
ウェイランド・ユタニという名称が、歴史を持った企業ではなく、『エイリアン』との接続を分かりやすく示す記号として使われているように感じた。
地続きにしたことが最大の縛り
私は『バッドランド』をリブートにしたほうが良かったと思っている。
リブートなら、父親、母親、兄弟、女性型、生殖、社会、科学文明、ウェイランド・ユタニ社との関係を、すべて新しい設定として再構成できる。
旧シリーズとは別の世界として、「新しいプレデター」を作ればいい。
好みに合わなくても、少なくとも過去作との矛盾にはならない。
しかし本作は、1987年から続く世界の正史として作られている。
そのため、新しい設定を追加するたびに、なぜ過去作では描かれなかったのかという説明が必要になる。
女性個体はどこにいたのか。
家族への感情はなぜ見えなかったのか。
狩猟文化と科学文明はどう両立しているのか。
異種族と家族を作れるなら、これまでの倫理は何だったのか。
ウェイランド・ユタニ社はどのように復活したのか。
これらを説明するには、別の氏族、別の階級、別の惑星、時代による文化変化など、大量の後付けが必要になる。
一つ一つは説明できても、例外が増えるほど世界観は弱くなる。
MCUとの違い
MCUは現代に合わせて設定を変更することで成功した。
しかし、マーベル・コミック自体が何度も設定を変更し、世界線を分岐させ、再スタートしてきた作品である。
映画版も最初から新しい世界として作られている。
原作と違っても、「MCUではこうである」と説明できた。
一方、『プレデター』は1987年からリセットされていない。
80年代後半の価値観と映画構造を土台にし、そのまま2020年代まで地続きで続いている。
80年代後半から90年代初頭なら、社会や映画表現の変化もそこまで大きくなかった。
しかし2020年代になると、主人公への感情移入、家族、自己肯定、多様性、かわいらしい相棒、血縁ではない家族などが重視される。
それらを入れること自体が悪いのではない。
しかし、1987年から続くプレデターへそのまま入れれば、過去との整合性が問題になる。
だからこそ、一度リブートして、ディズニー版プレデターとして再出発するべきだった。
スター・ウォーズのシークエルと同じ問題
この構造は、『スター・ウォーズ』のシークエル・トリロジーにも似ている。
旧三部作の続編であることを最大の価値として利用しながら、新しい主人公と現代的な物語を成立させるため、過去の成果を崩した。
帝国は倒されたのに、再び似た勢力が現れた。
共和国は十分に描かれないまま崩壊した。
ルークたちの勝利は、次世代の物語を始めるために弱められた。
過去の積み重ねは、新しい物語を売るための資源として使われた。
リブートなら最初から新しい世界として作れた。
しかし続編として作ったため、過去作の成果を消費しなければ新しい物語を始められなかった。
『バッドランド』も同じように見える。
過去の伝統を守るように見せながら、実際には現代向けの物語へ上書きしている。
ディズニーのIP運営
ディズニーは、過去の大きなIPを現代で再びヒットさせることについては非常に上手いと思う。
古い作品の分かりにくい部分を整理し、現代の観客が感情移入できる構造へ変える。
高い制作費と宣伝力で、大きなイベント作品として再生する。
しかし一度売れると、止められないほど使い続ける。
映画、配信ドラマ、アニメ、ゲーム、商品、クロスオーバー。
IPを休ませず、常に稼働させる。
MCUとスター・ウォーズは、まさにそれを行った。
作品が増えるほど特別感は失われ、観客は追い続けることに疲れる。
一本の物語を楽しむというより、巨大な企画に付き合わされる感覚が強くなる。
そして売上が落ちた時、企業はそのIPを休ませる。
使える限り使い、価値が薄くなれば次のIPへ移る。
創作者である私からすると、これは非常に耐え難い手法に見える。
作品世界は、使える部分を切り売りする鉱脈ではない。
人物の死、世界の歴史、設定、結末には意味がある。
続編を作るなら、その積み重ねに責任を持たなければならない。
しかし企業にとってIPは、長期的に収益を生む資産である。
作品を最も美しい地点で終わらせることより、まだ利益が出るなら続けることが優先される。
『バッドランド』は時限爆弾
『バッドランド』は、過去の伝統と現代的な要素のいいとこ取りをしようとした作品だと思う。
武器、マスク、狩り、一族の掟という伝統を残す。
その一方で、成長、家族、友情、かわいらしい仲間、自己肯定という現代的な要素を入れる。
表面的には両立しているように見える。
しかし私には、過去の作品へ現代的な解釈を無理やりねじ込んだように見えた。
しかも、物語の表現を更新しただけではない。
プレデターという存在を成立させていた構造そのものを破壊するレベルである。
本作単体の完成度が高いため、多くの観客は受け入れるだろう。
「従来とは違うが面白かった」と評価される。
しかし、その成功こそが危険だと思う。
制作側は、この方向が正解だったと判断する。
続編では母親を出す。
女性プレデターを出す。
家族ドラマを強くする。
ウェイランド・ユタニ社を広げる。
ゼノモーフを出す。
ダッチやリプリーを戻す。
起源を説明する。
一作ごとに新しい話題は増える。
しかし、そのたびにプレデターの異物感、謎、恐怖、独自性は減っていく。
続編を作るたびに、プレデターという固有の存在意義がゼロへ近づく。
そして話題になる要素をすべて使い切った時、シリーズは爆発する。
その時には、過去の伝統へ戻ることもできず、新路線にも新鮮味が残っていない。
『バッドランド』は、今すぐ失敗する作品ではない。
むしろ作品として完成しているからこそ、爆発まで時間がかかる。
だから私は、本作を一つの時限爆弾だと感じている。
総評
『プレデター:バッドランド』は、一本のSFアクション映画として見れば、映像もアクションも王道で、十分に楽しめる作品である。
しかし、『プレデター』シリーズの一作として考えると、私は凡作以上の評価を与えられない。
プレデターを主人公にしたことで、異物感を失った。
家族と成長の物語を入れたことで、人間とは異なる文化が人間の家庭ドラマへ変わった。
母親の存在を示したことで、生物学と社会制度の矛盾が新たに生まれた。
ウェイランド・ユタニ社を登場させたことで、『エイリアン』との共有世界化が始まった。
そして旧シリーズと地続きにしたことで、これらすべてを過去作と整合させなければならなくなった。
新しいプレデターとして作るなら、私は受け入れられたと思う。
しかし、本来リブートとして再構成するべき内容を、1987年から続く正史へ組み込んでしまった。
そのため、現代化が進化ではなく、過去の構造の上書きに見える。
『バッドランド』はプレデターを再生した作品なのかもしれない。
だが同時に、プレデターというシリーズが長期的に崩れていく最初の一歩にも見える。
今後、制作側が良い意味で予想を裏切り、プレデター文化を異星文明として整理できるのか。
それとも、人間的な家族ドラマと共有世界へ進み、プレデターの名前と外見だけが残るのか。
現時点では、後者へ進む未来が見えて仕方がない。

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