1987年の『プレデター』は、非常に完成度の高い作品だった。
精鋭部隊が正体不明の存在に一人ずつ狩られていく。
人間側は武器、経験、連携のすべてを持っていながら、姿すら満足に捉えられない。
最後にダッチが勝利できたのも、プレデターより強かったからではない。
泥で熱を隠し、行動を観察し、地形と罠を利用し、相手の慢心を突いたからだ。
だからジャングル・ハンターは敗北しても格を失っていない。
問題は、シリーズが続くにつれて、この構造を維持できなくなったことにある。
世界観を広げようとするたびにプレデターの文化や武器が説明され、複数の個体が登場し、人間との距離も近くなっていった。
その結果、プレデターという存在そのものが変わってしまった。
では、『プレデター』は2作目以降、どのように展開するべきだったのか。
これまでの作品を振り返りながら、自分なりの理想的な方向性を考えてみたい。
変えるべきだったのはプレデターではない
シリーズを続けるために、プレデター自身を変える必要はなかった。
変えるべきだったのは、プレデターが狩る人間、舞台、時代、狩猟条件である。
プレデターは人間を上回る身体能力、高度な科学技術、長い狩猟経験を持つ。
人間側は正面から戦えば勝てない。
仲間の犠牲、観察、罠、環境、プレデター自身の慢心が重なり、ようやく一度だけ勝機が生まれる。
この基本構造は、毎回維持してよかった。
同じ構造でも、舞台と人間側の専門性が変われば、戦い方は大きく変えられる。
つまり、『プレデター』は怪物を成長させる物語ではなく、異なる人間社会が絶対的な狩猟者へどう対応するのかを描くシリーズにするべきだった。
『プレデター2』の都市移行は間違っていなかった
『プレデター2』がジャングルからロサンゼルスへ舞台を移した判断は、方向性として正しい。
熱帯雨林に続く狩猟場として、犯罪、銃撃戦、警察、監視網、高層建築が混在する大都市を選んだことには意味がある。
しかし、シティ・ハンターの狩りは全体的に雑だった。
ハリガンの同僚や武装したギャングを倒す場面では、シティ・ハンターは非常に強い。
姿を隠し、相手の反応前に攻撃し、武器を適切に使い分けている。
ところがハリガンとの最終対決になると、急に弱体化する。
光学迷彩や遠距離武器を十分に使わず、何度も接近を許し、スマートディスクを奪われ、自分の宇宙船まで追跡される。
特に問題なのは、ハリガンがスマートディスクを手にしたことで、シティ・ハンターと直接戦えるようになった点である。
ジャングル・ハンターは装備を外しても、ダッチを肉体的に圧倒していた。
一方のシティ・ハンターは、自分の武器を人間に奪われると戦闘が成立してしまう。
これではプレデターの強さが、身体能力や戦術ではなく、武器に依存しているように見える。
都市型プレデターは専門性で差別化するべきだった
ジャングル・ハンターとシティ・ハンターの個体差を描くこと自体は問題ではない。
しかし、その違いは映画内で明確にする必要があった。
ジャングル・ハンターは慎重な隠密狩猟の熟練者。
シティ・ハンターは都市戦、近距離戦、複数目標の処理に特化した個体。
このように専門性として示せば、違いは弱体化ではなく多様性になる。
都市の監視カメラ、警察無線、地下道、高層建築、冷却施設をシティ・ハンター自身が利用する。
人間側も警察、特殊部隊、政府機関、犯罪組織がそれぞれ異なる形でプレデターを追う。
そして全員が少しずつ装備や体力を削り、最後にハリガンが決定打だけを与える。
そうすれば、一人の刑事が単独でプレデターを倒した印象は薄くなる。
複数の犠牲と情報が積み重なり、ようやく一度だけ勝てたという構造にできたはずだ。
個体差は説明されなければ弱体化に見える
後年の設定では、シティ・ハンターは若い個体だったという解釈も可能になった。
しかし映画内でそれが十分に示されていない以上、観客はジャングル・ハンターと単純比較するしかない。
若い個体として描くなら、未熟さを物語上の設定として示すべきだった。
長老に監視されている。
装備の扱いが荒い。
戦利品が少ない。
狩りの規則を逸脱している。
攻撃性を抑えられず、存在を人間側へ露呈させている。
こうした描写があれば、弱さではなく未熟さとして理解できる。
しかし実際には、高度な装備を使いこなし、政府部隊の対策にも即応している。
その一方で、主人公との対決だけ判断力が低下する。
そのため、若いハンターというより、脚本の都合で能力を変動させられた存在に見えてしまう。
『プレデターズ』の基本企画は正しかった
2010年の『プレデターズ』は、基本企画だけならシリーズの理想に近い。
世界中から殺人や戦闘の専門家を集め、異星の狩猟惑星へ落とす。
傭兵、兵士、暗殺者、ヤクザ、犯罪者、死刑囚。
人間側もまた捕食者であり、「プレデターズ」という題名が異星人と人間の双方を指している。
この発想は非常に面白かった。
問題は、上位種のようなプレデターを三体出したことである。
ファルコナー、トラッカー、バーサーカーは、それぞれ異なる狩猟方法を持っている。
しかし三体を出した以上、映画の中で順番に倒さなければならない。
その結果、一体一体がステージボスのように処理され、プレデターの格が下がっていった。
ブラック・プレデターは一体に集約するべきだった
三体の能力は、一体のブラック・プレデターへ統合するべきだった。
猟犬を使う。
空中偵察装置を使う。
罠を仕掛ける。
遠距離武器を使う。
最後に自ら姿を現して圧倒する。
人間たちは大きな犠牲を払いながら、猟犬、偵察装置、光学迷彩、遠距離武器を一つずつ破壊していく。
しかし、それはブラック・プレデターを弱くするのではない。
ようやく本体と直接戦える状態へ近づいただけである。
仲間を何人も失い、装備を削り、行動の癖を分析し、最後にロイスたちが一度だけ隙を作る。
この構造なら、ブラック・プレデターは敗れても格を保てる。
人間が強かったのではなく、全員の犠牲と観察が積み重なった結果として、かろうじて勝利できるからだ。
従来型プレデターの名誉を守る
『プレデターズ』では、従来型のプレデターが捕らえられている。
人間に解放され、ブラック・プレデターへ復讐を挑むが、最終的には敗北する。
これは従来型の格を大きく下げている。
プレデター文化が名誉を重視するなら、捕虜になること自体が大きな恥になる。
さらに人間に解放され、その復讐戦でも負ける。
これでは名誉を回復する機会すらない。
従来型を登場させるなら、ブラック・プレデターへ明確な損害を与えるべきだった。
装甲を破壊する。
光学迷彩を壊す。
武器を一つ失わせる。
深い傷を残す。
最終的に敗れても、人間側が恐れていた従来型が、ブラック・プレデターへ確かな傷を与えれば、双方の格を守れる。
人間との関係も、共闘ではなく利害の一致にとどめるべきだった。
従来型は人間へ感謝するのではなく、自らの恥と復讐のために戦う。
人間はその戦いを利用して脱出の機会を作る。
その距離感なら、プレデターを人間の仲間にせずに関係を描ける。
ノーランドはロイスの未来として描くべきだった
ノーランドは、狩猟惑星で長期間生き残った重要人物である。
プレデターの装備を集め、行動を観察し、狩猟場の構造を理解している。
しかし実際の映画では、説明役として登場し、人間たちを裏切ろうとして、あっさり殺される。
これは非常にもったいない。
ノーランドは、ロイスが仲間を信じなかった場合にたどる未来として描くべきだった。
長年ブラック・プレデターを研究し、倒すための罠と装備を準備している。
しかし他人を信用できず、すべてを一人で完成させようとする。
最後に自爆覚悟でブラック・プレデターへ挑むが、倒せない。
それでも装備を一つ破壊し、戦い方の癖をロイスへ見せる。
ノーランドの敗北が、ロイスの勝利の一部になる。
ロイスがノーランドより強いのではない。
ノーランドが残した答えと、仲間との連携を利用したから、一歩だけ先へ進めた。
この構造なら、人間側の成長とプレデターの強さを同時に成立させられる。
勝利よりも生存を目的にする
プレデター作品で、人間が毎回プレデターを完全に倒す必要はない。
むしろ「勝つ」ことより、「生き残る」ことを目的にしたほうがよい。
一体を倒しても、狩猟システム自体は続いている。
ロイスとイザベルが生き残っても、新しい獲物が投下される。
狩猟惑星は止まっていない。
続編を作るなら、目的はプレデターを全滅させることではなく、惑星から脱出することになる。
ただし、ここでプレデター文明を説明しすぎてはいけない。
宇宙船内部は見せても、母星は見せない。
運搬役や管理役は出しても、家庭や日常は描かない。
人間が脱出に必要な情報だけを観察する。
プレデター社会の全体像は、最後まで分からないままにする。
こうすれば世界観を広げながら、異物感を守れる。
シリーズはアンソロジー形式が最も合っていた
『プレデター』は、同じ主人公を長く追うシリーズより、毎回異なる時代と場所を描くアンソロジー形式が合っている。
熱帯雨林。
大都市。
砂漠。
雪山。
海上施設。
戦争地域。
地下都市。
宇宙植民地。
時代と舞台が変われば、人間側の武器、知識、組織、戦い方も変わる。
プレデターも、その環境に合わせた装備や狩猟方法を使う。
ただし、新しい個体を出すたびに「上位種」「最強種」を作ってはいけない。
強さの階級を増やすのではなく、狩猟方法の違いを見せる。
隠密型。
追跡型。
遠距離型。
罠を重視する個体。
接近戦を好む個体。
それぞれが異なる専門性を持つが、単純な上位互換にはしない。
この方向なら、プレデターという種族の多様性を描きながら、過去作の個体を弱くせずに済む。
歴史物では人間を勝たせすぎない
『ザ・プレイ』のように、時代を過去へ移す発想も面白い。
近代兵器を持たない人間が、どのようにプレデターへ対応するのか。
土地の知識、狩猟技術、自然環境をどう利用するのか。
しかし、高度な技術と身体能力を持つプレデターが、過去の人間に簡単に倒されれば格が落ちる。
歴史物で人間が勝つなら、条件を厳しくする必要がある。
プレデターが別の敵との戦いで負傷している。
装備が損傷している。
自然災害や地形が決定打になる。
人間は倒すのではなく、追い払うだけ。
あるいは主人公だけが生き残り、プレデターは再び姿を消す。
人間側は完全勝利しない。
恐怖と痕跡だけが後世に残る。
この終わり方なら、歴史物でもプレデターの格を守れる。
『AVP』は本編と切り離すべきだった
『エイリアンVS.プレデター』を作ること自体は悪くない。
『プレデター2』の宇宙船にあったゼノモーフの頭蓋骨から、多くのファンが対決を期待した。
問題は、その対決を本編の世界観へ強く組み込んだことである。
ゼノモーフをプレデターの成人儀礼の道具にする。
プレデターを未熟な若者として大量に倒す。
人間とプレデターを共闘させる。
人間を戦士として認める。
これらは、対決を成立させるために両シリーズの立場を変えている。
『AVP』は最初から独立したクロスオーバー世界として作るべきだった。
中心は熟練したプレデターとゼノモーフの戦術的な対決。
人間は宿主、目撃者、生存者にとどめる。
人間ドラマは最小限にする。
プレデターを人間の相棒にしない。
決着も人間の核攻撃ではなく、両怪物自身の戦いによってつける。
ザ・クリーナーのような個体を中心にし、プレデタリアンと最後まで戦わせる。
この形なら、ファンサービスとして両シリーズの格を守れたはずだ。
プレデター文化は断片だけでよい
プレデター文化を一切描いてはいけないわけではない。
むしろ『プレデター2』の長老や宇宙船、『AVP2』のザ・クリーナーのように、文化の片鱗を見せることは面白い。
複数の個体が宇宙船にいる。
長老が勝者を認める。
戦利品を収集している。
狩りに一定の規則がある。
失敗した個体を助けない。
技術や痕跡を消す専門家がいる。
ここまでは行動と役割から推測できる。
問題は、それを家族、親子、恋愛、承認欲求、社会制度として詳細に説明することだ。
プレデターの家庭生活を描き、人間と同じ感情構造を与えれば、未知の異星人ではなくなる。
文化は説明するのではなく、装備、職務、行動から見せる。
ザ・クリーナーが優れていたのは、台詞で自分の役割を説明しなくても、事故処理の専門家だと理解できたからである。
プレデターは、理解できそうで完全には理解できない距離に置くべきだった。
プレデターを主人公にするならリブートする
プレデターを主人公にし、家族、氏族、成長、承認を描きたいなら、1987年から続く世界観の中で行うべきではない。
最初から新しいシリーズとしてリブートするべきだった。
旧シリーズとは別の世界。
異なる生物学。
異なる文化。
異なる狩猟規則。
最初からその前提で設計すれば、プレデターを主人公にしても矛盾は少ない。
問題は、過去作の知名度と設定を利用しながら、その本質だけを現代的な家族物語へ置き換えることにある。
変化そのものが悪いのではない。
旧シリーズの積み重ねを残したまま、その土台と相反する方向へ進めることが問題なのである。
大胆に変えるなら、正史を背負わせず、新しい作品として始めるべきだ。
理想的な『プレデター』シリーズ
自分が望んでいた『プレデター』シリーズをまとめると、次のようになる。
一体、またはごく少数のプレデターが登場する。
人間側は、それぞれ異なる専門性を持つ集団で構成する。
毎回、時代と環境を変える。
人間は正面からプレデターに勝てない。
仲間の犠牲、観察、罠、環境利用によって、ようやく生存の可能性を作る。
プレデターの新しい武器は増やしても、最強種や上位種は乱発しない。
個体差は強弱ではなく、狩猟方法と専門性で示す。
人間と友情を結ばせない。
プレデター文化は断片だけを見せる。
母星、家庭、繁殖、親子関係は説明しない。
クロスオーバーは本編と切り離す。
プレデターを主人公にする場合は、明確なリブートとして作る。
結論
『プレデター』シリーズが進むべきだったのは、プレデターを人間に近づける方向ではなかった。
プレデターそのものは変えず、その存在と遭遇する世界を変えるべきだった。
異なる国。
異なる時代。
異なる環境。
異なる職業。
異なる戦術。
そのたびに人間は、理解できない狩猟者を観察し、仲間を失い、わずかな規則を発見する。
しかし、プレデターの社会や感情のすべてを理解することはできない。
その距離こそが、『プレデター』という存在の魅力だった。
一言でまとめるなら、自分が見たかったのは、
「プレデターを変えるシリーズ」ではなく、「プレデターと遭遇する世界を変えるシリーズ」
である。
第1作の構造は、決して古びていなかった。
変えるべきだったのは怪物の内面ではなく、狩りの舞台と、そこに置かれる人間たちだったのだ。

コメント