Scene.25 ―「未来という名の、まぼろしだった」

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▼オリジナル小説

──風が、通りすぎた。

 ……その風は、もはや熱も匂いも、誰にも届けようとはしていなかった。  乾いた瓦礫の上をなぞるように、細かく砕けた粒子を巻き上げては、ただ世界の記憶を遠ざけていく。

──何もかもが過ぎ去ったあとの空気だった。

 崩れかけた高層の残骸。ひび割れたコンクリ。焦げ跡の残る壁面。
 そこに残されたのは、ただ空虚な色彩だけだった。

 瓦礫の間をすり抜けるように、砂粒と熱がさざめき、どこからか、どこかへと運ばれていく。
 そのただなかに、ひとり、男がいた。
 リク・ロクジョウ。
 かつて“伝説”と呼ばれた男は、今はただ静かに、その場に座っていた。白髪は乱れ、老いた肉体は動かすたびに軋んだ。義手は沈黙し、義眼もまた、何も映してはいない。
 それでも彼は、背を丸めることなく、まっすぐに、座っていた。誰かに見せるためではなく、最後の一点だけ残った誇りのように。
 風の粒子がすれ違う中で、小さな音がした。金属がどこかで触れ合うような、微かな余韻。
 リクはその音に気づいたように、わずかに目を細めた。

(ああ、そうだったな)

 かつて、手にしていたものがあった。だが今、手元には何もない。
 彼はすでに、それらを託してきた。拳銃も、酒も。そして、世界を。

「……終わったんだ、だよな」

 ぽつりと漏れた独り言は、誰に届くこともなく、風にさらわれた。
 彼は、目を閉じなかった。
 ……世界を託したあとに、なお残ったのは、ただの“在り方”だった。
 戦いも、痛みも、後悔も、もう遠くにある。だが、だからこそ彼は目を閉じなかった。それは意地でも、抗いでもない。
 “終わる”という感覚すら、どこか実感を欠いたまま、風の中に解かれていくような気がしていたのだ。
 ただ、遠くを見るように、ゆっくりと息を吐いた。

 そのときだった。隣に、気配が生まれた。
 風の流れが変わる。温度が、わずかに和らぐ。
 視線を向けると、そこにいた。
 ケイト・クロス。
 若き日のままの姿で、白衣の裾を揺らして、そっと腰を下ろしていた。その顔には、笑みがあった。それは、責めでも憐れみでもない。静かな、ただの、笑顔だった。

「働きすぎよ、リク」

 リクは、驚いたように眉を動かしたが、やがて、ふっと目尻をゆるめた。

「……そうかもな」

 その言葉を口にしたとき、胸の奥にあった小さな棘が、不意に抜け落ちたような気がした。
 誰かに赦されたわけでもない。ただ、ようやく“帰ってこれた”という感覚が、そこにはあった。
 その声を聞いた瞬間、胸の奥に小さな波紋が広がった気がした。

 リクは、もう驚くこともなかった。けれど、どこか懐かしいぬくもりが、風の背中に乗って届いてくる。
 ああ、そうだ。彼女は、いつもそうだった。問い詰めるのではなく、許すのでもなく──ただ、受け止めてくれる者だった。それだけの会話だった。だが、それで足りた。

 その背後には、別の男の影があった。
 ヘンリック・ホフマン。車椅子のモニター越しでいつも小難しい顔をする男。だがその瞳の奥には、言葉にしない何かがあった。
 戸惑い、痛み、そして……理解。リクと視線が合うと、ホフマンはほんのわずかに頷いた。
 あの眼差しは、かつて多くを見逃し、多くを理解し損ねた者の瞳だった。けれど、今は違う。
 ようやく理解にたどりついた者だけが持つ静けさが、そこには宿っていた。

 さらにその奥、誰とも話さず、ただ手を動かしている影があった。
 黒須蔵人。机の上に小さな鉢植えを置き、静かにその枝を整えていた。古風な盆栽。均整ではなく、自然のままの“ゆがみ”を残したまま。
 未来とは、育てるものではなく、共に在るものだとでも言うように。
 黒須の盆栽は、小さな光のなかに置かれていた。枝ぶりは決して整ってはいない。むしろ傾き、歪み、途中で折れた枝もそのまま生かされている。だが、その不格好な形に、どこか“美しさ”が宿っていた。
 過去を否定せず、未来を押し付けず、ただ“共に在る”。黒須の選んだこの構造は、リクが命を賭して選んだ“共存”と、どこかで響き合っていた。それは、ケイトが遺した「選ばせる未来」の思想に、静かに連なるものだった。  黒須は、声高に語ることはなかったが、誰よりも、彼女の“問い”に答えようとしていたのかもしれない。
 目が合うとゆっくりと頷いていた。誰も、言葉を交わさなかった。その沈黙こそが、対話だった。
 リクは、灰色の空を見上げる。ひと息静かに吐いた。

「……おかえり」

 ケイトが、笑顔で声をかける。

 そして、ごく短くリクは答える。

「ただいま」

──それだけだった。

 空気がまた、すれ違った。熱くもなく、冷たくもなく。
 音もなく、ただ空気がすれ違うようにして。ほんのわずかに、空気の粒が揺れた。
 見えない何かが、そこに立っていた気がした。影ではなかった。光でもなかった。
 ただ、誰かがそこに“いたような”感覚だけが、確かに残った。

──そして、誰かが、それを見届けていた。

 風の粒子が、ふとひとつ揺れた。
 その方向に、明確な“影”はなかった。ただ空気の密度が、ごくわずかに変わる。

 ……視線。いや、それとも“記憶”だろうか。誰かの意思が、確かにそこにあった。
 残されたものを見届けようとする、透明な存在のようなそんな気配。
 それは、ただ静かに、風の背に乗っていた。
 金属の音が、ふたたび微かに鳴る。

──カチリ。

  風の粒子が、その音に応えるようにわずかに震えた。それはまるで、“忘却”と“記憶”が、境界線で触れ合った音だった。
 誰にも気づかれぬまま始まり、誰のものでもなく終わっていく。

 それでも確かに、ひとつの物語が、ここで閉じたのだと告げる音だった。 それはもう、誰の動作でもなかった。なのに、なぜか懐かしさだけが、確かに胸に届いていた。まるで、誰のものでもないはずの記憶が、空気を震わせたようだった。ただ、“記憶される”ことを告げる音。
 その気配は、しばらくその場にとどまって。そして、また風と共に遠ざかっていった。リクは、その気配に視線を向けたが、もう何も見ようとはしなかった。

 目を閉じることもなく、言葉を探すこともなく、ただ、そのまま風とともに、静かに、そこから遠ざかっていった。
 背を向けたわけでもない。歩いたわけでもない。けれど、確かに、彼の“在りか”は、もうそこにはなかった。ただ、微かに残された。
 風のなかで鳴る、小さな金属音。それだけが、そこに“いた”ことを証明するかのように、静かに揺れていた。

 それは、誰かがそこに「いた」証ではなく、誰かがそこに「在ろうとした」証だった。
 誰かが立ち止まり、何かを残そうとし、そして、その“残そうとした意志”だけが、記憶として空気に刻まれていく。
 リクの在り方もまた、そんな“通りすぎていく意志”のひとつとなり、この場所に、輪郭のない温度だけを残していった。

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