風が通りすぎた。
崩れた高層建築の間を風が抜け、ひび割れたコンクリートへ砂を運んでいる。
壁面には焦げた跡が残っていた。
戦闘の音は。
もうない。
負傷者も。
[ガンマチーム]も。
[スペリオルズ]も。
この場所から離れている。
残っているのは。
瓦礫と。
風。
その中に。
一人。
男が座っていた。
リク・ロクジョウ。
白髪。
深い皺。
若さを取り戻していた肉体は。
完全に元へ戻っている。
肩口から繋がったままの左義手には青白い高出力光がない。
リクは指を動かしてみた。
関節は動く。
だが。
戦場で見せた力は。
もうない。
左義眼も。
戦術表示を止めている。
視界補助。
最低限。
それだけ。
リクは瓦礫へ背を預けていた。
肩の位置をずらしても身体を起こすところまではいかなかった。
疲れていた。
身体だけではない。
長い時間。
ずっと。
疲れていたのかもしれない。
無意識に右手を腰へ伸ばす。

指はいつもの位置を探り、何も掴まずに止まった。
大型リボルバーは。
ジャンへ渡した。
その手を尻ポケットへ回す。
そこにも金属の硬さはなかった。
スキットルは。
リョウへ渡した。
「……ああ」
小さく。
声が漏れる。
「そうだったな」
自分で渡した。
必要だと思ったから。
もう。
手元に戻すつもりもない。
アビゲイル。
クロス型ペンダント。
ケイト。
あれを。
どう受け取るか。
自分には決められない。
それも。
本人へ返した。
リクは。
灰色の空を見る。
「……終わったんだよな」
返事はない。
Ωは止まった。
ラズは消えた。
戦闘も終わった。
なのに。
終わったという感覚だけがうまく身体へ入ってこない。
腰から戻した右手を置いても、何かを探す動きがまだ指に残っていた。
全部が終われば。
何かが戻ると。
どこかで。
思っていたのかもしれない。
ケイトがいた時代。
黒須がいた時代。
ホフマンがいた時代。
まだ。
取り返せるものがあるような。
そんな未来。
「……馬鹿だな」
小さく笑う。
戻るわけがない。
最初から。
そんな未来は。
まぼろしだった。
リクは。
目を閉じない。
ただ。
遠くを見る。
風。
また。
通りすぎる。
その時。
「働きすぎよ、リク」

声。
リクの眉が。
僅かに動く。
声のした方へ顔を向けると隣に女が座っていた。
ケイト・クロス。
若い。
白衣。
あの頃のまま。
静かに。
笑っている。
リクは。
しばらく見る。
本当に。
そこにいるのか。
風が作った幻なのか。
疲れた頭が。
昔の記憶を置いただけなのか。
確かめる気にはならなかった。
リクは背を預けたままその顔を見ていた。
「……そうかもな」
ケイトが笑う。
責めない。
問い詰めない。
何かを許したとも。
言わない。
昔から。
そうだった。
選ぶのは。
最後まで。
本人。
「俺は」
リクが言う。
続きが出ない。
口を開いたまま一度息を吐いた。
ケイトは続きを促さずに待っている。
「……何やってたんだろうな」
「さあ?」
「そこは答えろよ」
「自分で考えなさい」
「変わってねぇな」
「あなたもね」
リクの口元が。
少しだけ。
上がる。
風。
白衣の裾が揺れた。
はずだった。
次。
別の姿。
ケイトの少し後ろ。
車椅子。
モニター。
難しい顔。
ヘンリック・ホフマン。
リクは。
目を細める。
「……お前までいるのか」

返事はない。
ホフマンは。
モニター越しに。
こちらを見ている。
昔と同じ。
何を考えているのか。
分かりにくい顔。
ただ。
最後に。
ほんの僅か。
頷いた。
それが。
何を意味するのか。
リクには分からない。
分からなくていい。
今。
目の前にいるホフマンが。
本物であるはずもない。
本人が。
最後に何を考えていたのか。
リクは知らない。
これは。
自分が覚えている。
ヘンリック・ホフマン。
それだけ。
さらに。
奥。
男がいる。
黒須蔵人。
「……」
そこだけ。
戦場ではないように見えた。
机。
小さな鉢。
黒須が。
枝へ触れている。
盆栽。
少し傾いた幹。
途中で欠けた枝。
黒須は。
それを切らない。
別の枝だけを。
少し。
整える。
リクは枝を整える手を見ていた。
欠けた枝が残されているのを確かめてから口を開く。
「お前なら」
一拍。
「そうするか」

黒須は。
何も言わない。
目だけが。
リクを見る。
そして。
小さく頷く。
それ以上。
何もない。
Ω。
第一の鍵。
第二の鍵。
未来。
選択。
今さら。
黒須本人から。
答えを聞くことはできない。
目の前にいる男も。
答えではない。
自分の中に残った。
黒須蔵人の姿。
それだけ。
リクは。
息を吐く。
ケイトを見る。
ケイトも。
こちらを見ていた。
笑っている。
「……おかえり」
リクの目。
一瞬だけ。
止まる。
長い。
時間。
20年以上。
帰る場所なんて。
もうないと思っていた。
それでも。
その言葉だけは。
昔と同じように聞こえた。
「ただいま」
短く返す。
声にしたあともケイトから目を離さなかった。
それだけ。
⸻
風が吹く。
ケイト。
ホフマン。
黒須。
三人の輪郭が。
少しずつ。
風景へ混じっていく。
消えたのか。
最初から。
いなかったのか。
リクには。
もう。
どうでもよかった。
左義手。
内部。
小さな音。
カチリ。

出力の落ちた関節が。
自重で僅かに動いた。
リクが。
その音へ視線を落とす。
そして。
一瞬だけ。
昔から知っているような。
妙な感覚。
声。
夢。
幻覚。
誰もいない場所で。
何かが近くにいたような。
長い間。
何度も感じた。
説明できない気配。
今。
それは。
もう。
ほとんど感じない。
「……お前も」
リクが。
どこへともなく言う。
続きは。
口にしない。
相手が。
誰なのかも知らない。
名前も知らない。
あの気配が少女の姿を得ていたのかさえ。
リクには結びつけられない。
ただ。
何かが。
ずっと近くにいたような気がしていた。
それだけ。
風が。
もう一度。
通りすぎる。
リクは。
灰色の空を見る。
動かない。
眠っているわけでもない。
立ち上がろうとも。
しない。
どれほど。
そうしていたのか。
分からない。
この場所には。
もう。
誰もいない。
リクが。
そのあと立ち上がったのか。
どこかへ歩いていったのか。
そのまま。
動かなくなったのか。
見た者はいない。
記録も。
残っていない。
ただ。
戦場には。
風だけが吹いていた。
終わったものを。
戻すためではなく。
何かを。
未来へ運ぶためでもなく。
ただ。
風として。
通りすぎていく。
リク・ロクジョウが。
その風のあと。
どこへ行ったのか。
誰も知らない。


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