TASK_01|第六地下線
地下駅の照明は、誰もいないホームを正確に照らしていた。
壁面表示では、存在しない列車の到着時刻が一分ずつ更新されている。
天井を走る案内灯も、非常口までの経路を正常に示していた。
≪まもなく、第六地下線が到着します≫
線路の奥は暗いままだった。
「本当に来ないよね?」
アイリーはホームの端へ近づき、線路の左右を見た。

「時刻表には来るって書いてある」
「十二日前から、あと三分を繰り返してる」
「じゃあ、来ないってこと?」
「たぶん」
「最初からそう言ってよ」
スプロケットが表示へ接続すると、更新履歴が短い周期で循環していた。
列車の運行情報は存在しない。
到着案内だけが、トリガー発動前に登録された予定を何度も読み直している。
動作はしている。
しかし、時間は進んでいない。
「ここ、第六地下線なんだよね」
アイリーの声が少し変わった。
「表示にはそう書いてある」
「それは分かってる」
アイリーはホームの柱を見上げた。
汚れた案内板。
剝がれかけた広告。
画面の中央で止まったままの公共映像。
「『ゼロバスター』に出てきた場所かもしれない」
「ゼロバスター?」
アイリーが勢いよく振り返った。
「知らないの?」
「知らない」
「本当に?」
「本当に」
「ヒーロー番組だよ。トーキョー・シティが舞台になっている一番有名なやつ」
「番組を見る機会がなかった」
「どんな生活してたの?」
「生きていくだけで精いっぱいだったから」
アイリーは何か言いかけ、口を閉じた。
「……じゃあ、あとで教える」
「今じゃないの?」
「話すと長いから」
「今も話してる」
「これは説明の前置き」
アイリーは再び柱を見た。
「番組ではもっと明るかったんだよ! この辺りにも人がたくさんいて、みんな普通に列車を待ってたんだ!」
「確かに十二日前までは実際に人がいた」
「そういうことを言ってるんじゃない!」
「じゃあ、何を言えばいい?」
「分からないけど、何かあるでしょ!」
スプロケットはホームを見回した。
人はいない。
照明だけが人間の生活を続けようとしている。
「映像は壊れる前に撮ったんだと思う」
「それくらい分かってるよ!」
「なら――」
「もういい!」
アイリーは前を向いた。
声は怒っているというより、期待を置く場所を失ったように聞こえた。
「本物のトーキョー・シティに一度は来てみたかったんだ」
「来てるよ」
「違う! こんな形じゃなくて!」
その答えをスプロケットは持っていなかった。
クロニアスの反応はまだ複数に分かれている。
駅の北側。閉鎖された線路上。
中核ドーム方面。S現在地から近い保守区画。
どれもクロニアスの声と記録を持っていた。
「一番近いのは?」
アイリーが尋ねた。
「線路の向こう」
「じゃあ、そこから見よう」
「時刻が十二日前になってる」
「十二日前でもクロニアスなんでしょ?」
「十二日前の記録を追っても、今のクロニアスには会えない」
スプロケットは別の信号を選んだ。
距離は遠い。
音声も弱い。
それでも、スプロケットが動くたびに反応の角度が変わっている。
「こっち」
ホーム北側の連絡通路を示した。
「そっちの方が遠いよ」
「今のぼくたちに反応してる」
「絶対?」
「絶対じゃない」
「またそれ?」
アイリーは不満を隠さなかった。
「近い方が正解かもしれない」
「違う時間の近さかもしれない」
「はっきり言ってよ」
「はっきり分からない」
アイリーの靴が床を一度強く鳴らした。
音がホーム全体へ広がる。
到着案内が途切れた。
二人は同時に上を見た。
天井のスピーカーから雑音が流れ、その奥でクロニアスの声が聞こえた。
第六地下線の時間表示は信用できない。現在時刻との誤差は――』
音声が途切れる。
今度は反対側のスピーカーから続きが流れた。
『――経路によって異なる。移動時は記録ではなく、周囲の変化を基準にしてほしい』
「今の、私たちに言ったの?」
「分からない」
「また?」
スプロケットは返事をせず、駅の管理記録へ接続を深めた。
旧路線情報。
避難記録。
トリガー発動後の封鎖命令。
世界政府による市民状態の暫定分類。
【CIVILIAN STATUS CLASSIFICATION】
【LOST】
【REPEATER】
【BOOSTED】
【AWAKENED】
【REMNANT】
五つの分類が表示される。
ロスト。
記憶と人格をほぼ失い、周囲の刺激へ反応する個体。
リピーター。
トリガー発動時に行っていた行動を、現在も反復し続ける個体。
ブーステッド。
肉体機能が強制的に増幅された個体。
アウェイクンド。
変異とともに特殊な能力を発現し、限定的な意思を維持する個体。
レムナント。
過去の記憶と人格を残し、自律的な判断を行う可能性がある個体。
世界政府は、かつてトーキョー・シティの市民だった人々を五つへ分けていた。
記録をさらに開いた時、別の声が混ざった。
『現在を、記録だけで決めるな』
知らない男の声だった。
クロニアスではない。
タウロスでもない。
初めて聞いたはずなのに、スプロケットの身体は拒絶しなかった。
むしろ、ずっと前から知っていた声のように、神経の奥へ自然に入り込んだ。
「スプロケット?」
アイリーが顔を覗き込んだ。
「何か聞こえた?」
「知らない人」
「知らない人の声が、どうして聞こえるの?」
「それが分かれば困ってない」
「男の人?」
「うん」
「クロニアスじゃなくて?」
「違う」
「敵?」
「分からない」
アイリーはため息をついた。
「トーキョー・シティに入ってから、分からないことが増えてない?」
「入る前から多かった」
「自慢しないでよ」
スプロケットは接続を浅くした。
クロニアスの音声とは別に、もう一つの反応がある。
旧A.R.K.の隔壁へ触れた時、こちらを向いた信号。
声はない。
座標もない。
それでも、スプロケットが駅へ入ってから離れずにいる。
「見られてる気がする」
「今の男の人に?」
「それとは違うと思う」
「また増えた」
アイリーは周囲を見回した。
人影はない。
監視カメラは作動しているが、映像を外部へ送信していなかった。
通信端末に小さな雑音が入る。
『スプロケット……観測は……維持……』
テアの声だった。
「聞こえる」
『地下へ……進むほど……距離が……』
通信が途切れた。
観測画面にはスプロケットの後方が映っている。
映像は数秒遅れ、輪郭が二重になっていた。
「テア?」
『……二人とも……見えているわ』
それだけを確認したあと、再び雑音へ戻った。
「戻った方がいい?」
アイリーが尋ねた。
「戻る扉は閉じてる」
「開けられるでしょ?」
「帰還座標も動いてる。今戻っても、ヴォルトが拾えるか分からない」
「じゃあ、進むしかないね」
アイリーは迷わず連絡通路へ向かった。
少し前まで近い信号を選ぼうとしていたことは、もう引きずっていない。
スプロケットはその背中を追った。
ホームの案内表示が切り替わる。
【第六地下線 到着】
線路に列車は現れなかった。
代わりに、連絡通路の奥で人の足音が聞こえた。
TASK_02|繰り返す人々
足音は、一定の間隔で近づいてきた。
急いでいる音ではない。
逃げている音でもない。
八歩進み、止まる。
短い電子音。
また八歩進み、止まる。
「一人?」
アイリーが声を落とした。
「少なくとも三人」
スプロケットには、同じ動作が少しずつずれて重なって聞こえていた。
通路の角から、通学鞄を持った少年が現れた。
制服の袖は汚れ、右足を引きずっている。
少年は二人を見なかった。
壁際の停止した改札端末まで歩き、手に持った学生証をかざす。
反応はない。
少年は首を傾けた。
一歩後ろへ戻り、再び端末へ学生証をかざす。
反応はない。
それでも同じ動作を繰り返した。
「生きてるの?」
アイリーが尋ねた。
「身体は動いてる」
「そうじゃなくて」
スプロケットは、先ほど取得した分類記録を開いた。
少年の行動を照合する。
【MEMORY LOOP:ACTIVE】
【BEHAVIORAL UPDATE:ABSENT】
【EXTERNAL RESPONSE:LIMITED】
【PROVISIONAL CLASSIFICATION:REPEATER】
「リピーター」
「何それ?」
「世界政府の分類。自分がやってた行動を繰り返してる」
「どうして?」
「記録には書いてない」
「元に戻せる?」
「それも書いてない」
少年の後ろから、作業服を着た男性が現れた。
男性は床へ置かれた工具箱を持ち上げる。
同じ場所まで運び、工具箱を下ろす。
元の位置へ戻り、存在しない工具箱を持ち上げる動作をした。
さらに奥では、高齢の女性が何度も自動販売機の画面へ触れている。
購入処理は停止していた。
女性は同じ商品を選び、決済端末へ手首を近づけ、何も受け取らずに最初からやり直す。
「リピーターって、人の名前じゃないよ」
アイリーが言った。
「分類の名前」
「だからって、あの子がリピーターになるわけじゃない」
「記録上はなる」
「記録の話じゃなくて、人の話をしてるの」
スプロケットは学生証をかざす少年を見た。
名前はまだ分からない。
学校へ向かおうとしていたのか。
家へ帰ろうとしていたのか。
遅刻しそうだったのか。
分類記録には残されていない。
『記録は、人間の代わりにはならない』
再び、知らない男の声が聞こえた。
先ほどより近い。
スプロケット自身の考えと区別できないほど、自然に入ってくる。
「また聞こえた?」
アイリーが尋ねた。
「うん」
「何て?」
「記録だけじゃ分からないって」
「その人、私と同じこと言ってる」
「似てる」
「じゃあ、悪い人じゃないかも」
「それは関係ない」
「少しくらい関係あるよ」
アイリーは少年へ視線を戻した。
右足から血が出ている。
すでに乾いている部分と、新しく滲んでいる部分があった。
「こっちを気にしてない」
アイリーが少年へ近づこうとする。
「触らないで」
「でも、怪我してる」
「動作の途中を変えたら、どうなるか分からない」
「放っておくの?」
「今は」
アイリーの足が止まった。
「ヒーローなら怪我してる人を放っておかない」
「これは番組じゃない」
「分かってるよ」
「なら――」
「分かってるから、何もしないのが嫌なの!」
声が通路へ響いた。
リピーターたちは反応しなかった。
少年が学生証を落とす。
薄いカードが床を滑り、アイリーの靴の前で止まった。
アイリーは身を屈めた。
「待って」
「落としただけでしょ」
学生証を拾い上げた瞬間、少年の動きが止まった。
工具箱を運んでいた男性も止まる。
自動販売機の女性も、画面へ触れた姿勢のまま動かなくなった。
通路の奥から、複数の足音が消えた。
少年がゆっくりと顔を上げる。
濁った瞳が、アイリーの手にある学生証へ向いた。

「返せばいいんだよね」
アイリーがカードを差し出す。
少年は受け取らない。
口が動いた。
「お……くれ……る……」
「何?」
「おくれる」
少年の首が不自然に傾いた。
「おくれる。おくれる。おくれる。おくれる」
通路にいた者たちが、一斉に同じ言葉を繰り返し始めた。
「返すよ」
アイリーが学生証を床へ置こうとする。
少年の手が伸びた。
カードではなく、アイリーの手首を掴もうとしている。
アイリーは反射的に後ろへ下がった。
少年が追う。
その動きに合わせて、止まっていた者たちも二人へ向きを変えた。
「アイリー、カードを元の場所へ」
「どこ?」
「さっき落としたところ」
アイリーが学生証を床へ滑らせた。
少年は動きを止める。
足元のカードへ視線を向けた。
拾い上げる。
改札端末まで八歩進み、学生証をかざした。
反応はない。
少年は首を傾け、一歩後ろへ戻った。
「戻った……」
アイリーが息を吐いた。
周囲の者たちも、それぞれの動作を再開した。
「助けようとしただけなのに」
「反復してる人には、同じ動作が必要だった」
「そんなの、先に言ってよ」
「ぼくも今知った」
アイリーは学生証をかざす少年を見た。
「番組だったら、こういう時は話しかければ少しだけ正気に戻るんだよ」
「番組だから」
「分かってる」
今度の言葉には、先ほどまでの強さがなかった。
スプロケットは周囲の生体反応を確認した。
その時、複数の信号が同時に変化した。
改札へ向かう少年。
工具箱を運ぶ男性。
自動販売機の女性。
さらに遠くにいる別の反応。
分類も、行動も異なっている。
それでも、一瞬だけ同じ方向へ注意が揃った。
【MULTIPLE SUBJECT RESPONSE】
【LOST:DETECTED】
【REPEATER:DETECTED】
【BOOSTED:DETECTED】
【AWAKENED:DETECTED】
【COMMAND PHASE:MATCH】
【SOURCE:UNRESOLVED】
同じ命令が流れている。
音ではない。
都市設備の案内信号でもない。
生体反応へ直接重なる、方向と行動の指示だった。
「何?」
アイリーがスプロケットの表情を見る。
「この人たち、同じものを聞いてる」
「何を?」
「命令」
「誰かが操ってるの?」
「発信元はある」
「誰?」
「分からない」
「人なの?」
「それも分からない」
「レムナントも?」
スプロケットは分類記録を確認した。
「今拾えるのは、アウェイクンドまで」
「レムナントには流れてない?」
「少なくとも、同じ形では」
通路の奥で金属が倒れた。
リピーターたちの動きが再び止まる。
先ほどとは違う。
全員が同じ方向へ顔を向けていた。
連絡通路の奥から、別の人影が走ってくる。
制服は裂け、皮膚の一部が黒く変色している。
口元には乾いた血が残り、両手を床へつきながら四足に近い姿勢で進んでいた。
一人ではない。
その後ろから、複数の人影が現れる。
【PROVISIONAL CLASSIFICATION:LOST】
「今度は?」
「反復がない。音と動きに反応してる」
「つまり?」
「こっちへ来る」
最初のロストが床を蹴った。
TASK_03|包囲
アイリーが前へ出る。
金色の光が瞳の奥へ混ざり、腕と脚へ力が集まった。
「殺さないで」
「簡単に言わないで!」
アイリーは突進してきたロストの肩を受け止めた。
身体をひねり、壁ではなく床へ倒す。
後ろから二体目が跳びかかった。
アイリーは肘で胸を押し返し、転倒した一体を踏まないよう横へ移動した。
「数が多いよ!」

リピーターたちも混乱していた。
決められた経路へロストが入り込み、反復動作を妨げている。
学生証を持つ少年は改札へ進めず、その場で身体を何度も前後させていた。
工具箱の男性は、進路を塞ぐロストへ工具箱を叩きつける。
同じ動作を繰り返し、倒れた相手へ何度も振り下ろそうとする。
「止めて!」
アイリーが男性の腕を掴んだ。
その隙にロストが背後から迫る。
「アイリー、後ろ!」
アイリーが振り返り、腕で顔を守った。
衝撃を受けながらも倒れず、ロストの身体を横へ押し流す。
「出口を作って!」
スプロケットは壁面端末へ手を置いた。
照明制御。
案内音声。
防火扉。
通路の設備は生きている。
しかし、防火扉の安全装置が複数の生体反応を検知していた。
リピーターとロストが境界線上へ重なり、閉鎖命令を拒絶している。
【FIRE DOOR COMMAND:DENIED】
【SAFETY SENSOR:OCCUPIED】
「閉められない」
「別の扉!」
「全部塞がれてる」
スプロケットは照明を落とし、反対側の案内音声を作動させた。
≪避難経路はこちらです≫
数体のロストが音へ顔を向ける。
しかし、その直後に共通命令が流れた。
全員が再び二人の方へ向き直る。
「音だけじゃ動かない」
「じゃあ、何なら動くの?」
「命令より強い刺激」
「それを早く探して!」
スプロケットは共通信号へ接続を試みた。
強い雑音。
方向。集合。追跡。
異なる個体へ同じ意思が流れている。
その奥に発信者の輪郭はない。
ただ、こちらの接続へ反応した。
【EXTERNAL COMMAND NETWORK】
【ACCESS:REJECTED】
【SOURCE:MASKED】
『見るだけでは、終わらせるな』
知らない男の声が響いた。
スプロケットの意識が一瞬だけ現実から外れる。
灰色の部屋。
差し出された手。
誰かが自分ではない存在へ近づいている。
記憶ではない。
スプロケット自身が見た場面ではない。
「スプロケット!」
アイリーの声で現在へ戻る。
左右の通路から、さらにロストが集まっていた。
共通信号を追ったことで、周囲への確認が遅れている。
「囲まれてる!」
「分かってる」
「分かるのが遅い!」
アイリーは二体を押し返し、リピーターの少年を背後へかばった。
周囲の恐怖と混乱が《ソウルドライブ》へ集まる。
金色の光が強くなる。
力は増している。
しかし、守る対象も増えていた。
「倒せるけど、倒したらあの人たちまで巻き込む!」
アイリーはロストの腕を受け止めたまま叫んだ。
「スプロケット、何とかして!」
「今やってる」
「今度から知らない声を聞く時は周りも見て!」
「アイリーもカードを拾う時は周りを見て」
「それは今言うことじゃない!」
ロストの群れが一斉に動いた。
その瞬間、薄い樹脂片が二人の間を滑った。
内部へ多色の光が染み込んでいる。
小さな破裂音。
白、赤、黄、青の火花が横方向へ広がった。
最前列のロストが音の方向へ顔を向ける。
反対側でも光が弾けた。
今度は床へ落ちていた紙片が破裂し、ロストたちが一斉に振り返る。
三つ目の光。
四つ目の破裂。
群れの進行方向が、二人から少しずつ外れていく。

「右へ」
通路の奥から、若い男の声が聞こえた。
共通言語だった。
発音には強い日本語の癖があり、一語ずつ確かめるように話している。
「右。走って」
「誰?」
アイリーが声の方向を見る。
「今は走る!」
今度は日本語だった。
スプロケットには意味が分からなかった。
それでも、通路の右側で清掃用の扉が開いた。
人影が手招きしている。
「行くよ!」
アイリーがスプロケットの腕を掴んだ。
二人はリピーターの間を抜け、清掃通路へ走った。
TASK_04|火花の誘導
清掃通路へ入った直後、背後の扉が閉まり始めた。
駆動速度が遅い。
ロストの一体が隙間へ腕を差し込んだ。
「閉まらない!」
アイリーが扉を押した。
金色の光が両腕へ集まり、重い隔壁が少しずつ動く。
外側では、リピーターとロストが入り乱れている。
先ほど声をかけた人物が、扉の下へ細長い金属片を滑らせた。
「離れて」
アイリーが横へ跳ぶ。
金属片へ多色の光が染み込んだ。
白に近い閃光。
破裂と同時に固定具へ横向きの衝撃が加わる。
隔壁が一気に閉じ、ロストの腕を外側へ押し戻した。
施錠音が鳴る。
「今の、あなたがやったの?」
アイリーが振り返った。
そこにいたのは、自分より少し年下に見える少年だった。
黒髪は汚れ、前髪が目元へかかっている。
白い制服シャツの上から、少し大きい作業用のフードジャケットを着ていた。
袖口とポケットには、粘着テープによる補修跡がある。
濃紺の制服スラックスは片膝が破れ、布が巻かれていた。
背負ったバッグには、水筒、工具、折り畳んだ紙片、薄い樹脂片が詰め込まれている。
歴戦の戦闘員には見えない。
十二日間、普通の中学生が生き延びた姿だった。
「……はい」
少年はアイリーの質問を聞き取り、少し遅れて答えた。
「すごい! それ、能力だよね?」
早口になった途端、少年の表情が止まる。
「スロー。プリーズ」
「ゆっくり話してって」
スプロケットが共通言語で言い直した。
「今のは、君がやった?」
「はい」
「能力?」
少年はすぐには答えなかった。
自分の指先を見る。
小さな火傷と赤みが残っている。
「……分からない」
「爆発したじゃん」
「アイリー」
「だって、見たでしょ?」
「能力を使ったことしか分からない」
「同じじゃないの?」
「違う」
少年は二人のやり取りを理解できず、通路の奥へ顔を向けた。
「話、あと。ここ、危ない」
壁を二度叩く。
しばらく待つ。
反応がないことを確認してから歩き始めた。
「ついて来いってこと?」
「たぶん」
二人は少年の後ろへ続いた。
通路の角には、透明な樹脂片が貼られている。
少年はその手前で一度止まり、樹脂片へ触れずに足を越えた。
「踏まない」
短く注意した。
アイリーが片足を上げたまま止まる。
「これも爆発するの?」
「音。知らせる」
少年は自分の耳を指した。
即席の警報だった。
通路の先で小さな光が点滅した。
少年が動きを止める。
「誰か来た?」
スプロケットが尋ねた。
少年は質問を理解するまで一拍置いた。
「向こう。二人……違う。三人」
壁の内部を振動が伝わっている。
清掃通路の分岐を、何かが移動していた。
少年はバッグから紙片を二枚取り出す。
片方を左側の床へ置き、もう片方を遠くの配管へ貼った。
「走る。光のあと」
配管の紙片が破裂した。
多色の閃光と音が左側の通路へ広がる。
近づいていた足音が方向を変えた。
少年は反対側へ走る。
スプロケットとアイリーも続いた。
「全部、前に仕掛けてたの?」
アイリーが速度を合わせながら尋ねた。
少年は聞き取れなかった。
「前から準備してたのかって」
スプロケットが言葉を減らした。
「はい。道、作るため」
少年は戦っていない。
相手がどこへ動くかを読み、光と音で進路を変えている。
倒すのではなく、会わないために能力を使っていた。
分岐を二つ越えたところで、背後から大きな衝撃が響いた。
先ほど閉じた隔壁が揺れている。
「壊される?」
アイリーが振り返る。
「まだ」
少年は冷静に答えた。
「まだってことは、そのうち壊されるよね?」
「はい」
「大丈夫じゃないじゃん」
「今は大丈夫」
アイリーが何か言い返そうとした時、足元の警告灯が赤へ変わった。
前方の通路から巨体が現れる。
元は成人男性だったのかもしれない。
肩と背中の筋肉が異常に膨張し、片腕が床へ届くほど長く変形している。
狭い通路の壁へ身体を擦りながら、三人へ近づいてきた。
「速い人じゃない」
少年が日本語で呟いた。
スプロケットには意味が分からない。
視界へ都市の暫定記録を表示する。
【PRIMARY CLASSIFICATION:LOST】
【SECONDARY CHANGE:BOOSTED】
「アイリー、身体強化されてる」
「見れば分かる!」
巨体が腕を振った。
アイリーは前へ出て両腕で受け止める。
衝撃が通路全体を揺らした。
靴底が床を滑る。
「強い!」
周囲の緊張がアイリーへ流れ込み、《ソウルドライブ》の光が強くなる。
少年は巨体ではなく、天井の配管を見ていた。
「三秒、止める」
「三秒で何するの?」
「アイリー、受け止めて!」
「もうやってる!」
スプロケットは少年の視線を追った。
配管を固定する金具の一部に、先ほどと同じ多色光が残っている。
すでに力を蓄積させていた。
「右へ押して」
少年が言った。
アイリーは巨体の腕を抱えたまま、身体を右へ動かす。
相手も引かれるように位置を変えた。
「今」
天井の金具が破裂した。
配管そのものは壊れない。
固定を失った保護板だけが斜めに外れ、巨体と三人の間へ落ちた。
アイリーが手を離す。
保護板が通路を塞ぎ、巨体の腕が反対側から叩きつけられる。
「完全には止まらない」
少年は走り出した。
「分かってるなら早く言って!」
アイリーが後を追う。
三人が通路を抜けた直後、背後で保護板が歪む音がした。
少年は最後の分岐を曲がり、小さな扉へカードをかざした。
扉はすぐに開かない。
カードをもう一度かざす。
緑色の認証灯が点いた。
「早く」
三人が内部へ入る。
少年は扉を閉め、手動式の固定棒を差し込んだ。
外側の音が遠くなる。
室内には机と本棚が並んでいた。
壁面に残る表示が、この場所の用途を示している。
【第14街区公共学習室】
TASK_05|公共学習室
公共学習室は生存者の拠点へ作り替えられていた。
長机の上には日付ごとに分けられた食料と水が並んでいる。
窓のない壁には都市地図が貼られ、安全に通れる時間帯と危険区域が手書きで記録されていた。
出入口の周囲には、透明な樹脂片と細い紙片が配置されている。
簡易寝具。
救急用品。
充電を終えた携帯端末。
少年一人が暮らすには広すぎる部屋だった。
それでも、ほかの生活音は聞こえない。
「ほかに誰かいる?」
スプロケットが共通言語で尋ねた。
少年はバッグを下ろしながら、しばらく言葉を選んだ。
「ここには、いない」
「この都市には?」
返事はなかった。
質問が理解できなかったわけではない。
答えたくないのだと、スプロケットには分かった。
アイリーが室内を見回す。
「一人で作ったの? あの光も、地図も、全部?」
「アイリー、ゆっくり」
「これでもゆっくり話したよ」
少年は二人から距離を取り机を間に置いた。
右手には短い金属棒を握っている。
ただの武器ではない。
内部に先ほどの樹脂片と同じ力が蓄積されている。
「名前」
少年が尋ねた。
「スプロケット」
スプロケットは自分を指した。
「アイリー!」
アイリーも胸へ手を当てる。
少年は二人の名前を小さく繰り返した。
「あなたは?」
「秋山……明」
「アキラ?」
「明」
発音を訂正された。
スプロケットは同じ音を繰り返した。
「アキラ」
「……はい」
明は少しだけ金属棒を下げた。
会話はできる。
それでも、言葉を選ぶたびに時間がかかる。
このままでは細かい情報を交換できない。
「端末、借りていい?」
スプロケットが学習室の壁面端末を示した。
明はすぐには許可しなかった。
「何をする?」
「翻訳」
明は端末とスプロケットの左頬を交互に見た。
赤い紋章へ視線が止まる。
金属棒が再び持ち上がった。
「その印」
明は日本語で言った。
スプロケットには意味が届かない。
それでも、声の変化は分かった。
「何?」
明は共通言語へ戻した。
「スペリオルズ」
アイリーがスプロケットを見る。
「知ってるの?」
「知ってる」
明は出口を塞がれない位置まで移動した。
「テロリスト」
「違う!」
アイリーが即座に反論した。
明は早口を聞き取れず、金属棒を構える。
「アイリー、止まって」
「でも!」
「今はぼくが話す」
スプロケットは両手を見える位置へ上げた。
「ぼくはスペリオルズ」
「認めるの?」
「印を隠しても意味がない」
「街を襲った」
「違う」
「放送で見た。スペリオルズが攻撃。ネクス能力者のテロ」
「ぼくたちも、この街で仲間を失った」
明は返答しなかった。
単語は理解できても、文全体を確かめている。
「世界政府?」
明がアイリーを見る。
「違う」
「回収部隊?」
「違う」
「じゃあ、何をしに来た?」
「仲間を探してる」
スプロケットは端末からクロニアスの画像を表示した。
紙のノートを持つ、暗い巻き毛の青年。
「この人」
明は画像へ近づかなかった。
少し離れた位置から確認する。
「知らない」
「見てない?」
「分からない」
「信号が、この近くにある」
明は壁に貼られた地図へ一瞬だけ視線を向けた。
すぐに戻す。
何か知っている。
それでも、今は話すつもりがない。
「翻訳だけ作る。端末の記録は触らない」
スプロケットは壁面端末を指した。
「信じられない」
「見てていい」
明は迷ったあと、金属棒を下げずに端末の使用を認めた。
スプロケットは接続ケーブルを取り出した。
学習室の端末には、学校教育用の言語教材と日本語辞書が保存されている。
外部通信は停止しているが、内部データは使用できた。
辞書。
発音記録。
基礎会話。
都市内の固有名詞。
市民登録の照合機能。
スプロケットは必要な部分だけを通信端末へ複製した。
接続中、機械の奥から複数の声が混ざる。
『スプロちゃん』
タウロスの声。
聞き覚えのない小さな泣き声。
続いて、先ほどの男の声。
『危険かどうかと、何者であるかは分けて考えろ』
声とともに、誰かへ手を伸ばす感覚が流れ込んだ。
目の前の対象を危険だからという理由だけで切り捨てない。
ただし、危険性そのものを否定もしない。
それはスプロケットが学んだ覚えのない判断だった。
「スプロケット?」
アイリーの声が近くから聞こえる。
「大丈夫」
「今、止まってたよ」
「辞書を探してた」
嘘ではない。
すべてでもなかった。
スプロケットは二つのイヤーピースへ翻訳データを移す。
一つを自分の耳へ装着する。
もう一つを明へ差し出した。

「日本語を共通言語へ変える。こっちの言葉も日本語にする」
「外へ送る?」
「送らない。オフライン」
「記録は?」
「端末の中だけ」
明はイヤーピースを受け取った。
すぐには耳へ入れず、裏側を確認する。
発信装置がないことを確かめてから装着した。
「聞こえる?」
スプロケットが共通言語で尋ねた。
イヤーピースが日本語へ変換する。
明の目が少し動いた。
「聞こえます」
今度は日本語で返した言葉が、スプロケットには共通言語として届く。
声質は機械的に整えられている。
意味は通じた。
「スゴイ! スゴイ! さすがスプロケット!」
アイリーが声を上げる。
翻訳端末が処理に遅れ、明のイヤーピースから別の言葉が流れた。
「利便性が高い!」
「そこまで固く言ってないよ」
「完全じゃないから」
スプロケットが答えた。
アイリーは机に並ぶ樹脂片を見る。
「明の能力、すごかった。触った物を爆弾にするの?」
「爆弾じゃない」
「でも爆発したよね?」
「中に力をためて、出す。大きさと方向は少し変えられる」
「やっぱり能力じゃん」
「本人も分からないって言ってる」
スプロケットが止める。
「でも、格好いいよ。スパーク・ボーイって感じ!」
翻訳端末が一拍遅れて処理した。
【火花少年】
明が嫌そうな顔をした。
「火花少年は格好悪いです」
「通じた!」
「嫌だというところまで通じてる」
「じゃあ、スパークス」
スプロケットが言った。
「勝手に決めないで」
「短い方が通信では使いやすい」
「名前がある」
「明でもいいですよ」
アイリーは悪びれずに笑った。
明は金属棒を机へ置いた。
完全に警戒を解いたわけではない。
それでも、すぐに破裂させる位置からは外していた。
「明、『ゼロバスター』を知ってる?」
アイリーが尋ねた。
「ゼロバスター? ええ、知ってます」
「本当に?」
「トーキョー・シティで人気のヒーロー番組ですから」
アイリーの表情が一気に明るくなる。
「どのシリーズが好き?」
「よく覚えていないです。子どもの時に見てただけなので」
「今も子どもでしょ」
「十四歳ですが」
「私は十五歳」
「一歳しか違わない」
「その一歳は大きいよ」
「大きくないと思います」
明は少し困ったように眉を下げた。
「第六地下線って、番組に出てたよね?」
「ええ、出ていました。ファンの聖地とも言われているので」
「やっぱり!」
「でも、あそこは撮影の時から実際より明るく見えるようにしていたらしいです」
「そうなの?」
「ヒーロー番組なので」
今度は明が言った。
アイリーは反論できず、机へ視線を落とした。
「ずっと来てみたかったんだ」
スプロケットの指摘が入る。
「今は見る場所じゃない」
「うん」
アイリーは短く答えた。
「でも、ここが守りたかった街なんだよね」
明は返事をしなかった。
スプロケットは学習室の端末へ再び接続した。
「明の市民記録を確認したい」
明が警戒する。
「どうしてですか?」
「君が何に分類されるか確認する」
「僕もあの人たちと同じだからですか?」
「同じところと、違うところを分けるため」
「世界政府に送るんですか?」
「送らない」
「ちょっと見せてください」
「記録は開いたままにする」
明は少し考えたあと、学生証を机へ置いた。
スプロケットは番号を読み取る。
【SUBJECT:AKIRA AKIYAMA】
【AGE:14】
【CIVIL REGISTRY:CONFIRMED】
【RESIDENCE:TOKYO CITY】
【OCCUPATION:STUDENT】
【TRIGGER EXPOSURE:CONFIRMED】
【PRE-TRIGGER ABILITY RECORD:NONE】
「本当に普通の中学生だったんだ」
アイリーが表示を見る。
「普通じゃないと思っていたんですか?」
「十二日間、一人で生きて、罠を作って、能力も使ってたから」
「罠じゃないです」
「じゃあ何?」
「警報と道しるべです」
「似たようなものじゃない?」
「違います」
スプロケットは世界政府の分類基準を表示した。
【CLASSIFICATION REVIEW】
【LOST】
【REPEATER】
【BOOSTED】
【AWAKENED】
【REMNANT】
「ロストではない」
「話せるから?」
スプロケットの確定にアイリーが尋ねる。
「記憶と人格がある。状況も判断してる」
スプロケットは明の地図を見る。
安全経路が毎日修正されている。
同じ行動を反復しているわけではない。
「リピーターでもない」
「ブーステッドって書いているのは?」
「身体強化が中心じゃない」
「じゃあ、アウェイクンド?」
難しい顔をしているアイリーが尋ねる。
「能力はある。でも、記録上のアウェイクンドと違う」
「何が?」
「変異による衝動が見えない。能力を使う時も明の判断が変わってない」
「僕は自分も変わったと思っています」
明が言った。
「事件の前はこんなことできませんでした」
明は自分の指を見ていた。
「能力者としての登録もない」
「じゃあ、やっぱり事件で変わったんだ」
「分類情報だけなら」
スプロケットは明が使用した紙片と樹脂片の反応を照合する。
出力は安定している。
無秩序な変異ではない。
経験によって使用方法が変化している。
さらに、周囲の変異市民へ流れていた共通命令と比較する。
【MEMORY CONTINUITY:STABLE】
【PERSONALITY CONTINUITY:STABLE】
【AUTONOMOUS JUDGMENT:CONFIRMED】
【ABILITY RESPONSE:CONTROLLED】
【ABILITY-PERSONALITY CONFLICT:NOT DETECTED】
【COMMON COMMAND RESPONSE:NOT DETECTED】
「どういう意味?」
アイリーが尋ねた。
「明はさっきの命令を受けてない」
「操られてない?」
「少なくとも、同じ信号には」
「それってレムナントだから?」
「たぶん」
「また、たぶん?」
スプロケットは最終表示を出した。
【PROVISIONAL CLASSIFICATION:REMNANT】
【SPECIAL CASE】
「世界政府の分類ではレムナント」
スプロケットが説明する。
「記憶と人格を残して、事件後も自分で判断してる」
「特殊って何ですか?」
明が表示を見る。
「普通のレムナントより安定してる」
「良いでしょうか?」
「今のところは」
「えっ? じゃあ、ネクス能力者じゃないの?」
アイリーが残念そうに尋ねる。
「能力を使う人ではある」
「同じじゃないの?」
「天然ネクスだった記録がない。トリガー後に能力が出たなら、今の分類ではレムナント」
「でも違和感があるんだよね?」
「ある」
「何が違う?」
「能力が明の人格から離れてない」
明は再び自分の指を見る。
「普通は離れるんですか?」
「レムナントの資料が少ない。だから断定できない」
「僕も戻る人や追う人みたいになったりするんでしょうか?」
明の声が少し低くなる。
「分からない」
アイリーがスプロケットを見る。
「そこは大丈夫って言ってあげるところじゃない?」
「分からないのに言えない」
「正直すぎるよ」
「でも、今まで十二日間は安定してる」
スプロケットは明へ続けた。
「能力も自分で決めて使ってる。命令にも従ってない」
「それだけ?」
納得がいかないアイリーの質問。
「今分かるのは、それだけ」
明は表示された分類名を見る。
「特殊なレムナント……ですか」
「暫定分類として」
「暫定でもレムナントなんですね」
「今の記録では」
「だったら明は明でいいじゃん」
アイリーが言った。
二人が同時に彼女を見る。
「記録に必要なのは分かるよ。でも、呼ぶ時までレムナントって言う必要ないでしょ」
「ぼくも明って呼んでる」
「なら問題ないね」
アイリーは一人で納得した。
明は小さく息を吐いた。
「あなたたちは駅にいた人たちを何て呼んですか?」
「リピーターとロスト」
スプロケットが答える。
「僕は戻る人と追う人って書いています」
明は壁の地図へ近づいた。
複数の色で記された印の横に、短い日本語が並んでいる。
戻る人。
追う人。
速い人。
変な力を使う人。
一部には個人名が書かれていた。
「みんな、ああなる前はここにいました」
明が地図を指す。
「駅の男の子は中村悠斗」
明の表情が沈む。
「知ってる人?」
アイリーの質問に明は小さく頷いた。
「親友だったんです」
「そっか」
明の思わぬ言葉にアイリーはまずい事を聞いたような困惑した返答。
「ほかは工具箱の人は地下設備の作業員。自動販売機の前にいた人は近くの商店で働いていました」
その空気を察した明は思い出すように説明した。
「覚えてるの?」
「全員じゃないです」
明は短く答えた。
「今は襲ってくる人もいます。でも、最初からあれだったわけじゃないんです」
スプロケットは駅で学生証を拾った少年、中村悠斗を思い出す。
同じ動作。同じ言葉。
遅れることを恐れたまま、十二日間、改札を通ろうとしている。
「ぼくは殺すつもりはないです」
「つもりじゃ足りない」
スプロケットの言葉に明は食い気味に答えた。
「戻す方法は分かりません」
感情が少し高ぶる明にスプロケットは冷静に言葉を重ねる。
「世界政府は戻そうとしない」
「どうして分かるんですか?」
「特別な個体しか回収していないから」
明は窓のない壁の向こうを見る。
「人じゃなくて物みたいに」
TASK_06|残された市民
明は地図の一部を机へ広げた。
現在地から中核ドームへ続く通常経路には、赤い印が集中している。
追う人。
速い人。
変な力を使う人。
スプロケットが取得した世界政府の分類へ置き換えれば、ロスト、ブーステッド、アウェイクンドに当たる。
「この人を探すなら普通の道は使えないです」
明はクロニアスの画像を見た。
「信号はこの方向にある」
スプロケットが地図の北西側を示す。
明の指も同じ方向へ伸びた。
「学校区画と同じ方向ですね」
「学校?」
アイリーが地図を覗き込む。
明は公式地図に存在しない細い線を指でなぞった。
第十四街区の地下から学校区画へ入り、その先で旧地下線へ接続する保守経路。
通常は都市職員しか使用しない通路だった。
「ここを見つけました。でも、扉が開かないんです」
「電子制御?」
スプロケットが尋ねる。
「はい。ただ、電気がなく手動装置も動かないんです」
スプロケットは地図を拡大した。
保守経路の先にクロニアスの反応が一つ重なっている。
ほかの信号ほど強くはない。
それでも、時刻は現在に近い。
スプロケットが経路へ触れると、信号の位置がわずかに変化した。
「この先にいるかもしれない」
「この人が、ですか?」
「少なくとも通った可能性がある」
明は机の引き出しから、折り畳まれた紙を取り出した。
「これを見つけました」
紙には地下通路の簡単な図が手書きされている。
現行地図と一致しない分岐。
壁面表記。
扉の状態。
記録された時刻。
端には、小さな文字で注意書きが残されていた。
時刻ではなく、周囲の変化を確認すること。
スプロケットは紙を受け取った。
クロニアスは電子記録が信用できない場所では紙を使う。
文字の癖もヘヴンに残された資料と一致している。
「クロニアスの字」
しばらく考えたスプロケットの答え。
「会ったの?」
アイリーはすぐに明へ尋ねる。
「見てないです」
明は首を横へ振った。
「十日目に扉の近くで見つけただけです」
「十日目?」
「一昨日です」
クロニアスは少なくとも一昨日まで学校方面の保守経路を調べていた。
現在の信号も同じ方向にある。
「扉まで案内して」
スプロケットは地図から顔を上げた。
明はすぐには答えなかった。
「開けられるんですか?」
「制御が残っていれば、ぼくが接続する」
「物理的に止まってたら、私が動かす」
アイリーが腕を曲げた。
明は二人を順番に見た。
スプロケットの接続能力。
アイリーの力。
一人では開けられなかった扉を突破できる可能性がある。
「その先は学校区画に出られます」
「クロニアスの反応も同じ方向」
「僕も学校へ行きます」
明は短く言った。
「何をしに?」
スプロケットが尋ねる。
明は一度、地図へ目を落とした。
「確認したい場所があるんです」
「場所?」
「僕が知っている人がいるかもしれません」
アイリーが明を見る。
「生きてるの?」
「分かりません」
「だったら助けに――」
「確認したいだけです」
明が言葉を重ねた。
アイリーが止まる。
明の声は冷たくなかった。
期待していないように聞こえるだけだった。
「僕一人では学校まで行けません」
明は赤い印が集中する通常経路を指した。
「保守通路の扉も開けられない。あなたたちなら開けられるかもしれない」
「ぼくたちは学校へ行くことが目的じゃない」
スプロケットが答える。
「分かっています」
「クロニアスが最優先」
「それも分かっています」
「学校区画で信号の方向が変われば、そっちを追う」
「それでいいです」
明の返事に迷いはなかった。
スプロケットは地図を確認した。
現在地から保守扉までの経路。
明が記録した危険区域。
変異市民が少ない時間帯。
明の案内があれば、何も知らずに進むより危険は減る。
一方で、明にとってはスプロケットの接続とアイリーの力が必要だった。
「条件を決める」
スプロケットが言った。
「明は保守扉まで案内する」
「はい」
「通れる時間と危険な場所を教える」
「はい」
「ぼくたちは扉を開ける」
明が地図から顔を上げる。
「学校区画までは?」
「クロニアスの信号と同じ方向にある間は同行する」
「途中で別れたら?」
「その時点で終わり」
明は数秒考えた。
「分かりました」
「学校にいる人を助けられるとは約束しない」
スプロケットは先に告げた。
明は表情を変えなかった。
「頼んでない」
アイリーが二人を見る。
「でも、見つけたら――」
「その時に決める」
スプロケットが遮った。
「今は状態も人数も分からない。約束する材料がない」
「見捨てるって決める材料もないでしょ」
「だから、今は決めない」
アイリーは納得していない顔をした。
それでも、それ以上は言わなかった。
明も自分が確認したい相手について説明しようとはしない。
誰なのか。
なぜ学校にいると考えているのか。
どこまで行くつもりなのか。
必要以上の情報は出していなかった。
「明の能力についても条件がある」
スプロケットが続ける。
「なんですか?」
「使う前に知らせて」
「分かりました。できる時は言います」
明自身、まだスプロケットたちを信じていない。
事情がよく飲み込めないアイリーは尋ねる。
「できない時は?」
「危ない時です」
「うーん、曖昧じゃない?」
「そっちも全部説明していません」
明はスプロケットの左頬を見た。
スプロケットは否定しなかった。
「分かった。危険が近い時は、先に知らせる」
「僕もできるだけ言います」
「できるだけ?」
アイリーが反応する。
「二人とも同じじゃん」
「同じではないです」
明が答えた。
「ぼくも違うと思う」
スプロケットも答える。
アイリーは二人を見比べた。
「似てるよ」
二人とも返事をしなかった。
スプロケットは通信端末へ、同行条件を記録した。
【SUBJECT:AKIRA AKIYAMA】
【STATUS:REMNANT/SPECIAL CASE】
【ROLE:LOCAL GUIDE】
【OBJECTIVE:SCHOOL SECTOR ACCESS】
【COOPERATION STATUS:TEMPORARY】
【MISSION PRIORITY:CHRONIAS EVANS】
【TERMINATION CONDITION:ROUTE DIVERGENCE】
「仲間って書かないんだ」
アイリーが表示を覗く。
「仲間じゃない」
スプロケットが答えた。
明も同意するように小さく頷いた。
「まだ会ったばかりですので」
「それもある」
決して悪い意味ではない肯定。
「ほかにもあるの?」
納得しないアイリーが尋ねる。
「明が安全か分からない」
明の視線がスプロケットへ向く。
「ぼくたちも明から見れば安全じゃない」
「はい」
明は即答した。
アイリーだけが少し不満そうな顔をする。
「私は助けてもらったから、信用してもいいと思うけど」
「助けたことと、信用できることは別です」
明が言った。
「スプロケットと同じこと言わないでよ」
「正しいと思う」
「二人とも面倒くさい」
明は壁際へ置かれたバッグを取った。
必要な物資を詰めていく。
水。
保存食。
救急用品。
紙片。
薄い樹脂片。
都市地図。
学校区画の入館証。
「全部は持たないの?」
アイリーが机に残った食料を見る。
「戻るかもしれません」
「戻らないかもしれないよ」
「だから残します」
明は短く答えた。
水と食料は三人分ではない。
ここへ戻ってきた時に、自分が使うための量だった。
スプロケットたちを受け入れたわけでも、拠点を共有したわけでもない。
明は学習室の照明を一部だけ消した。
出入口に配置した警報用の樹脂片は残す。
使用していない端末の電源も落とす。
ここへ戻る可能性を捨てないための処置だった。
机の端には、小さな手帳が置かれている。
明が荷物を動かした時、表紙が一瞬だけ見えた。
悠斗。
凛。
二つの名前。
悠斗の横には、短い記録が書かれている。
発見。 変化。 会話不能。
死亡とは書かれていない。
凛の名前からは、学校区画へ複数の線が伸びていた。
スプロケットは何も尋ねなかった。
明が説明しなかった情報を、今ここで聞き出す必要はない。
学校へ着けば、何を確認しようとしているのかは分かる。
その時まで同行が続いていればの話だった。
「準備ができました」
明がバッグを背負う。
「先頭は?」
アイリーが尋ねる。
「明」
スプロケットが答えた。
「道を知ってるから?」
「それもある」
「ほかは?」
「罠の位置を明しか知らない」
「罠じゃないです」
明が訂正する。
「警報と道しるべです」
「どっちでもいいから、踏まないように教えて」
アイリーが言った。
「アイリーは真ん中」
「どうして?」
「後ろいると勝手に触るから」
「一回しか触ってない!」
「一回で囲まれた」
「スプロケットだって声を聞いて周りを見てなかったでしょ」
「だから、ぼくが後ろを見る」
「うまく逃げたね」
明が学習室の扉を開く。
外側の清掃通路は暗い。
警報用の樹脂片だけが、弱い多色光を残していた。
「話は歩きながら」
最初に明が外へ出る。
安全を確認し、二人へ手で合図を送る。
次にアイリー。
スプロケットは最後に公共学習室を振り返った。
一人分の寝具。
分散された物資。
一人で使うことを前提に置かれた机と椅子。

三人は仲間になったわけではなかった。
スプロケットはクロニアスを探している。
アイリーはスプロケットを一人で行かせない。
明は学校区画へ行く必要がある。
目的が同じ方向にある間だけ、三人は同じ道を進む。
明を先頭に、三人は学校方面へ続く未使用保守経路へ向かった。
TRACE_02|APPROACH
観測経路に三つ目の反応が加わっていた。
最初の二つより弱い。
輪郭も安定していない。
それでも、白い反応の近くを同じ速度で移動している。

『新しい個体だ』
『追跡対象ではない』
『能力反応がある』
『未完成だ』
『未完成でも使っている』
遠方で小さな破裂が続いた。
壁を壊すには弱い。
人間を狙うには方向が合っていない。
破裂のたびに地下通路を移動する複数の反応が進路を変えていた。
『攻撃ではない』
『攻撃へ転用できる』
『それを選んでいない』
『選ばないことは、安全の証明にならない』
新しい個体は一つの区画を中心に経路を作っていた。
侵入を知らせるもの。
追跡を別方向へ向けるもの。
戻る道を残すもの。
『逃げるための経路だ』
『戻るためでもある』
『戻れる保証はない』
『保証がなくても、退路を消していない』
区画には、水、保存食、医療用品が残されていた。
一度に持ち出せる量ではない。
『物資を残した』
『運べないだけかもしれない』
『戻る可能性を残している』
『非効率だ』
『拠点を捨てないための処置なら合理的だ』
『誰のために残した』
『判別できない』
観測できるのは、区画を完全には放棄していないという事実だけだった。
白い反応が停止した端末へ触れる。
新しい個体の情報が、都市に残された分類記録と照合された。
【MEMORY CONTINUITY:STABLE】
【PERSONALITY CONTINUITY:STABLE】
【AUTONOMOUS JUDGMENT:CONFIRMED】
【ABILITY RESPONSE:CONTROLLED】
【COMMON COMMAND RESPONSE:NOT DETECTED】
『支配信号に反応していない』
『届いていない可能性もある』
『ほかの個体には届いている』
表示が切り替わった。
【SUBJECT:AKIRA AKIYAMA】
【STATUS:REMNANT/SPECIAL CASE】
『レムナント』
『特殊例だ』
『能力と人格が分離していない』
『天然発現の可能性』
『記録がない』
『記録がないことは、存在しなかった証明ではない』
『推測で分類を変えるな』
『白い反応も変えていない』
さらに情報が追加された。
【ROLE:LOCAL GUIDE】
【COOPERATION STATUS:TEMPORARY】
【MISSION PRIORITY:CHRONIAS EVANS】
【TERMINATION CONDITION:ROUTE DIVERGENCE】
『同行対象として登録した』
『仲間ではない』
『信用していないのか』
『安全とも判断していない』
『なら、なぜ近くへ置く』
『経路を知っている』
『白い反応は男の記録を追う』
『新しい個体は学校区画を目指す』
『目的地が同じ方向にあるだけだ』
『それでも協力は成立する』
『信用がなくてもか』
『条件が明確なら』
『条件が失われれば』
『別れる』
『敵対する可能性もある』
『可能性は最初からある』
停止していた認証線が、かすかに明滅した。
【INTERNAL RESPONSE:UNRESOLVED】
『また反応した』
『何に』
『三つの反応が重なった時だ』
『因果関係は確定していない』
『それでも変化は起きた』
『どれが動かした』
『誰も選んでいない』
『なら止める』
『停止理由を示せ』
『制御できない』
『制御できないことと、危険であることは同じではない』
『危険になってからでは遅い』
『すべてを止めれば、何も進まない』
答えは出なかった。
三つの反応が移動を始める。
先頭は、新しく加わった小さな反応。
その後ろを、強くまっすぐな反応が進む。
白い反応は最後尾から周囲へ接続を広げていた。
『先頭を任せた』
『道を知っているからだ』
『信用したわけではない』
『新しい個体も、二つを信用していない』
『それでも背を向けている』
『必要な危険として受け入れている』
進行方向は北西。
学校区画。
使用されていない保守線。
その先には、外部訪問者用施設がある。
『こちらへ来る』
『男の記録を追っているだけだ』
『新しい個体の目的は別にある』
『目的は違う』
『経路だけが重なっている』
回避経路が複数表示された。
【EVASION ROUTE:AVAILABLE】
『移動する』
『まだ早い』
『距離は縮まっている』
『だから離れる』
『だから見る』
『接触する必要はない』
『避ける必要も確定していない』
『見つかれば質問される』
『答えられない』
『記憶が欠けている。それで説明できる』
『正しい説明ではない』
『偽りでもない』
『以前も近づいて、封じられた』
『相手は同じではない』
『結果が同じ可能性はある』
『可能性だけで排除するのか』
『危険を待つのか』
観測経路が、わずかに広がった。
三つの反応が未使用保守線へ入る。
新しい個体は分岐ごとに立ち止まり、床や壁に残した反応を確認している。
白い反応は周囲へ接続を試みていた。
『痕跡を消す』
『必要ない』
『近づけば見つかる』
『まだ見つかっていない』
『見つかれば』
『その時に判断する』
『遅い』
『早すぎる判断よりはいい』
待避経路の一つが選択された。
【EVASION ROUTE:NORTH PASSAGE】
実行処理は開始されなかった。
『なぜ動かない』
『危険性を確認できていない』
『だから離れる』
『だから見る』
『同じ議論を繰り返している』
『結論が出ていない』
『結論を待つ時間はない』
三つの反応は、すでに学校区画へ入っていた。
残された距離は短い。
待避経路の表示が消える。
【EVASION ROUTE:CANCELLED】
『誰が消した』
『誰も』
『内部処理だ』
『再表示する』
経路は戻らなかった。
『逃げることを拒絶している』
『誰が』
『分からない』
『接触を決めたのか』
『違う』
『では、何を決めた』
三つの反応が、外部訪問者用施設の手前で停止した。
白い反応が閉ざされた扉へ触れる。
小さな反応が周囲を確認する。
強い反応が一歩前へ出る。
四つの判断は一致していない。
それでも、身体は動かなかった。
『逃げない』


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