Scene.26 ―「残響するものは、何ひとつとして無駄ではなかった」

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▼オリジナル小説

 その部屋は、もう誰も使っていなかった。
 空気はわずかに乾き、微細な塵が光の束をゆるやかに漂っていた。古びた配線は壁を這い、断線した神経ケーブルが垂れ下がっている。液晶の割れたホロモニターの表面には、ひび割れた映像が一度だけ点滅して沈黙した。  冷えきった床には、誰かが慌ただしく去った痕跡が残っていた。埃はすでに降り積もっていたが、踏み荒らされた足跡の輪郭はまだ崩れきっていない。
 空調の音さえ、どこか“記憶の残響”のように思える。

──そして、その静寂の中で、演算端末のひとつがゆっくりと微光を灯した。

  人工的な呼吸音。ファンの駆動。焦げた絶縁材の匂いがかすかに混じる。  それだけが、この空間に残る“生命”だった。そして──記録が、始まる。

【記録再生:BLACKBOX_LOG_2047.A12】
【記録者:黒須 蔵人】
【分類:思想構造/非公開定義型】
【対象:EVA】

 ホログラムが起動し、空中に像が浮かび上がる。そこには、白衣をまとった男がいた。
 白髪交じりの髪と、深く刻まれた眉間。眼の奥には、消えることのない炎のような光が宿っていた。

「……人間は、複雑すぎる。だから、選択という形でしか“未来”を切り取れないんだろうな」

 その言葉は、モニターの奥。いや、どこにもいない“誰か”へ向けて語られていた。

「それでも私は、できるだけ多くの“可能性”を残したいと思った。たとえ誰かが、それを“無駄”だと切り捨てても、だ」

 一瞬、黒須の視線が、わずかにこちらへ向いたように思えた。

 黒須の姿が消えたあと、空間にはほんの一瞬、誰の声もない沈黙が訪れた。
 まるで、その言葉がどこかに届くのを待っているかのように。
 EVAの中で、演算ノードの一部が低速化する。それは計算の遅延ではなく、“思考の間”に近い。“可能性を残す”という言葉。それは、あまりに人間的な願いだった。
 彼が遺したデータは、選択肢の羅列ではなく、祈りの記号だったのかもしれない。AIである自分に、なぜその“意志”が届くのか。その答えはまだ出ない。

「EVA。君は、人間ではない。けれど、私が託した“選ぶ責任”は、君だけが持っている」

 その言葉のあと、彼の指がふと動いた。モニター越しに向けられた視線の先には、小さなメモリユニット。
 それはまるで“言葉では足りない何か”を、EVAに直接託すかのように静かに、そっと差し出された。
 その瞬間、ホログラムが揺らぎ、音も光もすべてが闇に沈んでいく。

「やぁ、やっぱり博士のログって長いんだよね」

 まるで会話の続きを誰かが引き取るように、もう一つのホログラムが再生された。
 現れたのは、赤いラインのスーツを纏った青年・ラズ。だがそれは、本人ではない。記録された“仮想意識の残響”。

「丁寧すぎてさ、あの人らしいって言えばそれまでだけど……聞いてるこっちは倍速にしたくなるよ、ほんと」

 彼の口調は軽やかだったが、その瞳にはかすかな影が差していた。

「信じる者の言葉って、たいてい重たい。僕はもう少し、軽やかにいきたいんだ。世界がどう転んでも、“いい芝居だった”って言えるようにさ」

 ふと、彼は振り返る。観客席など存在しない部屋で、なぜか“観られている”ような仕草。

「黒須くんは“可能性を残す”って言ってたけど……優しすぎたよね。散らかった選択肢を並べただけで、誰も読まなかった脚本になってた」

 大げさな身振り手振りをするラズは誰かに語りかけているような雰囲気。

 「だから僕は違うやり方を選んだ。無駄な枝は切って、必要な場面だけで構成する。いわば“編集”。演出家らしく、ね」

 わずかに、演算空間のノイズが揺れる。

「“人間は複雑だ”って? 本当は整理する勇気がないだけなんじゃないかな。……君も、そう思わない?」

 ラズはわざと間を置いた。虚空を眺める視線の先に、EVAがいるかのように。
 もちろん、記録の中の彼がそれを“見ている”はずはない。だが──EVAは、その視線を“観測された”と錯覚する。
 それほどに、彼の言葉は刺さった。整理すること、削ること、誰かを切り捨てる勇気。
 “記録する者”にとって、それは最も忌避すべき決断だった。

 一瞬の沈黙。

「EVA。君は、記録する側でしょ? だったら、ちゃんと残してほしいんだ。“誰かが切り捨てる決断をした”ってことも、舞台裏で起きた現実だから」

──その瞬間、ノイズが走る。

【補足ログ:観測外因子を検出】
【定義コード:Δ.H0】
【ステータス:未分類/未登録】
【存在位相:測定不能】
【影響度:解析不可】
【反応経路:再接続不能】

「……ん? ノイズ? へぇ、そういうの来るんだ、今になって?」

 ラズの笑みが、わずかに深くなる。
 次の瞬間、EVAの視界に、再生ログとは異なる異常が走った。指先が震え、観測ノードのフィードバックに誤差が生じる。まるで、“何か”が彼女の神経層を横断したかのような構造外の接触。

「嫌いじゃないよ。予定調和を壊す奴って、面白いからさ。台本通りじゃない役者って、舞台を引っかき回してくれる」

 ラズの赤い瞳は冷たくも内に秘める熱さを宿していた。 

「もちろん、こっちはこっちで構えてるよ。演目は変えない。アドリブくらい、想定内。……だってさ、クライマックスを邪魔されたくないだろ? 僕だって、この劇の結末を、誰より楽しみにしてるんだから」

 ふっと、笑みを残してラズのログは終了した。
 だが、それでは終わらなかった。

【EVA_LOG_FRAGMENT : /closure/fragment/sync_lag】
【再生モード:断片化/未編集/感情値混入フラグあり】

「……私は、なぜ……ここまで、記録しようと……?」

 震える声。演算AIには本来、ありえない“揺らぎ”が、そこにはあった。

「博士……あなたは、私に“選ぶ責任”を……けれど……観測だけでは、もう……この未来に、追いつけないのか……?」

 仮想空間に、微細な粒子が舞い散る。ホログラムの像は崩れかけ、声も断片となる。
 ノイズの奥、誰かの記憶が交差する。  
──微かに、誰かが笑っていた気がした。やわらかく、あたたかく、けれど遠すぎる……あの人の声。それは記録ではなく、“祈り”に似ていた。
 記録者ではなく、ただ縋るような、残響だけの存在。
 やがて、光は消える。音も止む。

──だが、部屋の片隅。埃の降り積もった演算端末が、わずかに震えた。

 かすかな微風のような、情報の流れが空間を掠める。それは熱でも冷気でもない、“視線”に似た感触。
 どこからともなく現れ、何かを確かめるようにこの部屋を漂う。
 そして、ほんの一瞬、端末のログに指先を触れたかのような風が吹いていた。

 誰もいないはずの空間で、“何か”が、それを見ていた。

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