──かすかに、風が吹いた。
それは、言葉にも名にもならない“気配”と共に。
誰もいないはずの空間に、揺れる気配がひとつ。
微かな金属音が、擦れるように耳の奥を震わせた。
──かつて誰かが残した、名もない痕跡のように。
音の残滓のなかに、彼女は“そこにいるように”立っていた。
けれど、誰の目にも映ることはない。
これは、誰にも届かない観測の欠片。
けれど、君だけは見ていた。そう、わたしは信じている。
──まだ、あの場所には風が残っていた。
熱と血と、焼け落ちた時間の匂いが、かすかに漂っていた。
君は見ていたね。
あの男が、煙の中からよろよろと姿を現したのを。
義手は肩口からぶら下がり、もはや自重すら支えられなくなっていた。 かつて鋭く周囲を射抜いた義眼も、いまはただ濁ったガラスのように沈んでいた。
あの伝説の男。リク・ロクジョウの猛々しさは、そこになかった。
今の彼は、すでに寿命を終えた者のように、肩を落とし、足を引きずっていた。
ジャンが旧式の大型リボルバーを差し出したとき、男は首を振った。
リョウも同じように、傷だらけのスキットルを差し出しかけて、眉をしかめる。
「……持ってろ」
たったそれだけ。
ジャンはリボルバーの重さに、鋼ではなく、記憶と責任を感じた。
リョウは、かすかに残る酒の香りに、黙して頷いた。
君は見ていたね。
高周波刀を腰に下げた、ガンマチームのリーダー、アビゲイル。
その胸元には、銀のクロス型ペンダントが揺れていた。
リクの視線が、そこへ落ちた。
疲れ切った無表情から、優しい笑みが一瞬だけ浮かぶ。
震える右手が、彼女の肩に、ぽんと乗せられた。
「……あいつの癖だ。何かを託すとき、いつも黙って笑ってた」
アビゲイルは何も言わなかった。ただ、その瞳だけが、かすかに潤んでいた。
リクはゆっくりと背を向ける。
最後に、振り返らずに呟いた。
「……あいつの約束を、託した」
「……約束?」
アビゲイルが、かすれた声で繰り返したときには、男はもう振り返っていなかった。
ひとつだけ手を振って、彼は再び、“記録の外側”へと消えていった。
遠ざかる足音が、やがて途絶えたとき、そこにはもう、風の音しか残っていなかった。
そして、ジャンはそっと拳銃を仕舞った。
それは観測でも、記録でもない。ただ、“忘れない”という意志の形だった。
———
君は、別の場所にもいたね。
焦げた地面に、スーツの袖を引きずりながら立つ二人。
ポイゾナスは、言葉もなくスプロケットを抱いていた。
握られたままの掌には、今もひとつの瓶があった。
誰かを傷つけるためではない、守るための毒が──静かに、そこにあった。
その腕の中の小さな身体から、かすかに機械の音が漏れていた。
泣いていたかどうかは、君の記憶に任せよう。
フェイズは一度も振り返らなかった。
けれどその足取りは、いつもよりずっと静かだった。
誰かの代わりに歩いているように、まるで。
そして、気づいたね。
三人の首元で揺れる、獣骨の首飾り。
それは、タウロスと同じ造りだった。
かつて、仲間として分かち合った証。
中央の骨装飾は深く割れ、欠けたまま、風に揺れていた。
その骨飾りは、今もなお誰も彼の名を呼ばなかった。
それは、群れを喪った獣たちが、自らの声を封じるように。ただ、風に委ねた静けさだった。
彼らがひとつの群れだったという記憶を、確かに刻んでいた。
──風が吹いた。
その影の残像だけが、誰にも観測されることなく名を刻まれた。
風に委ねられた記録のように、静かに消えていった。
ただひとつ、誰もその名を語らなかった者がいた。
名を呼ぶには重すぎる、その存在の重さだけが、静かに残されていた。
———
ミーラは黙っていた。
かつて観測を信じ、計算で神に届こうとした科学者。
今の彼女は、静まり返った部屋の中に、ただぽつりと座っていた。
その数式は、もう誰にも解かれることのない問いだった。
それでも彼女は、途中まで式を打ち込んでいた。
まるで、誰かに届くことを、ほんの少しだけ信じたように。
彼女の指が途中まで打ち込んだまま。それはまるで、署名されなかった契約書のように。
君は聞いたね。
部屋に響いた、小さな足音を。
それは、あの名を持つ者だったのか。
それとも、名を捨てた者だったのか。
真実は、君の記憶の中にだけある。
———
EVA記録断片–残響:「……ありがとう。わたしを……終わらせてくれて」
その声は震えていた。
彼女が最後に観測したのは、歪んだ未来でも、滅びの座標でもなかった。 それは人が、誰かを想う姿だった。
彼女が最後に望んだものが、“観測”ではなく“終わり”だったことを、君は知っていた。
———
そしてさらに、残響の最奥。
監視映像の届かぬ廃墟の隅。
誰にも知られず、火が灯された。
金属音と、かすかな硝煙の匂い。
薄闇の中、炎に照らされたノートに四つの名が、新たに記された。
その傍らでは、無言の手が銀の円を弾いていた。
宙で弧を描いたそれは、音もなく掌に戻る。
“まだ終わっていない”という静かな合図だけが、確かにそこにあった。
その傍らには、もうひとつの影。
銀のコインを弄ぶその手だけが、未来を賭ける者の意志を代弁していた。
宙で弧を描いたあと、音もなく掌に戻った銀のコイン。
“まだ終わっていない”という、静かな宣言だった。
名も立場も語られずとも。
君にはわかるね。
火は消えたが、記す者は残っていた。
名前を綴る手は止まらず、コインはまだ宙を描いていた。
彼らもまた、“終わらなかった記録”の傍にいたことを。
———
……そして、そのすべてが閉じたあと。
──再び、風が吹いた。
それは、かすかな“気配”と共にあった。
空気がわずかに揺れ、金属が触れ合う音が微かに残った。──カチ、ン。
それは、誰のものでもなく。けれど、誰かの記憶を確かに継いだ証だった。
風が止んだ場所で、胸元の小さな欠片がかすかに揺れていた。
その輪郭は、言葉では記せないほど曖昧で。
けれど、すべての記憶の中にだけ、確かに存在していた。
名を語らず、声を上げず。
それでも、君にはわかったね。
あの欠片が、今もなお、約束を抱えているということを。
それは観測の終わりではない。
未記録のページが、静かにめくられようとしているのだ。
だからこそ。
ここからが、始まりなのだと。
沈黙のなかに、ひとつの音が紛れた。
風にまぎれ、どこかで小さな金属が触れ合ったような響き。
それはまるで、誰かが立ち去った後にだけ残される、記憶の余韻だった。 もうその姿は見えない。
けれど、あの風のなかには確かに“いた”と、君は知っていた。


コメント