【補助観測ログ Δ.H1】
【記録端末:統律特命局・戦術支援ユニット《J-JJ_02》】
【OBSERVATION STREAM FAILED】
【LOGICAL ANCHOR LOST — 再同期不可】
【現在位置:不明領域Δ — 簡易観測ノード起動中…】
戦闘が終わっていた。
それでも空気は、なおも濁ったままだった。
地下構造の深部。天井はところどころ崩落し、瓦礫と鉄骨に囲まれた空間は、外界から遮断されていた。
焦げた鉄と湿った血の匂い。どこかで漏れている蒸気の音と、機械が断末魔のように吐くノイズ。
静けさではなく、音の“死”が満ちていた。
「……ログが通らない。ここ、根本的におかしいな」
ジャン=ジャック・ジャカールは、半壊した柱にもたれるようにして膝をつき、端末を睨みつけていた。
モニターに走る観測データは、ノイズ混じりのまま灰色の空間を示し、再構築は進まない。
「ボクの《エイドメモリア》にも記録がない。……これじゃあ、目隠しと爆音のヘッドセットを付けて歩くようモノです」
僅かに苛立ちをにじませながら、彼は端末の切り替えキーを叩く。
「……よし。〈レイヴン〉、中継ルートに変更。残してきた奴を経由すれば、マップ全体の輪郭くらいは取れるはず……」
微細な振動が、床からかすかに伝わる。 通信が繋がった証だった。
その背後、アビゲイル・エイミー・アームストロングは、壁際に立ったまま、黙して動かない。
彼女の視線はジャンの端末にも、崩れた天井にも向いていなかった。
(……エージェント・ゼロ……どこか古武道に通じる動きだったのか……?)
胸の奥に渦巻くのは、理解しきれない既視感。ただの能力者ではない。明らかに何かが違っていた。
それなのに、なぜか──どこか“懐かしい”という感情すら芽生えそうになっていた。
(……伝説と言われたエージェント・ゼロ……機械化された目と腕……)
アビゲイルの脳裏に焼きつけられた青白い光を発する義眼と義手。それにリク・ロクジョウの迷いない戦闘は彼女の中で静かな衝撃となっていた。 彼女は無意識に、胸元のペンダントへと指先を伸ばしていた。クロスの形をした金属が、冷たく指に触れる。
「ったくよぉ……非常食どこだ、非常食。全然カロリー足りてねぇ……」
リョウは瓦礫を派手に掻き分けながら、ぶつぶつと呟いていた。
片手には空になったパウチの袋。もう一方では崩れたロッカーの残骸を荒々しく押しのけている。
「やべぇ……戦闘で二千は持っていかれた……いや、それ以上か?」
その騒がしさに対して、誰も突っ込まなかった。
この沈黙の中では、むしろ彼の独り言が唯一の“生活音”のようにすら感じられた。
──そのリョウとアビゲイルの間。
陽名は、黙って座っていた。瓦礫を背に、足を小さく折りたたんで。ただ静かに、アビゲイルの横顔を見上げていた。ジャンの端末。リョウの動き。アビゲイルの視線の向こう。どれもが陽名の目に映り、観測されていた。 それが彼女にとって“知覚”なのか、“感情”なのかは分からない。ただ、そこにいて、見つめていた。
──そして。
アビゲイルの視界の端で、何かが動いた。
「……?」
いつの間にか、陽名が立ち上がっていた。無言のまま、通路の奥へと向かって歩き始めていた。彼女の背は、小さく、しかしどこか決意を宿していた。
アビゲイルは追わなかった。
その先にはあの大男が、休んでいるはずだった。
──だから、任せたのだ。
崩れかけた壁に囲まれた、小さな部屋。照明は切れ、湿り気を含んだ空気は肌に重い。
呼吸音すら遠のくその場所で、マナイア・ケアは静かに目を閉じていた。
筋肉質な身体に、無数の古傷と血のにじむ新しい傷。幾何学模様のタトゥーは、自身の血に濡れながらも、崩れることなく刻まれ続けていた。
かすかな足音が近づく。
白いシャツ。細い影。無言のまま、その正面に立つ。
「……よう」
片方の目だけを細く開け、マナイアはその顔を確認する。
そこにいたのは陽名だった。
「そういや、ずっと見てたな。俺の顔のこと、気になるか?」
陽名は答えない。ただ、その視線は彼のタトゥーに吸い寄せられたままだ。
「これはな……じいさんの代から受け継いでるもんだ。生まれた意味ってのを、皮膚に刻む習わしささ」
小さく笑う。照れくさそうで、けれどどこか誇らしげな微笑み。
「お前が何者かなんて、もうどうでもいい。……けどな。見えるぜ、お前の目に映ってんのが」
懐から金属の塊を取り出す。
擦り切れたドッグタグ。そこにはいくつかの名前が刻まれていた。
「こいつらは……俺の仲間だった。名もねえ奴もいた。でもな、俺は全員、覚えてる。忘れたことは一度もねえ」
一つの名前を、親指でなぞる。
「この名前……ジョニー。無鉄砲でよ、すぐ突っ込んじまうやつだった」
「もう残っちゃいねぇけどな……こうやって、少しでも誰かが背負えば、意味があんだよ」
マナイアはドッグタグを陽名の首にそっとかける。
「……ほらよ……」
金属に残る体温は、まだ冷たくなっていなかった。

「へっ……なかなか似合っているじゃねえか……」
陽名は顔を伏せたまま、タグの表面に指先を当てる。
その仕草は静かで、言葉にできない何かを伝えていた。
──風が吹く。髪が揺れ、タグがかすかに鳴った。
「……うっ……」
安心したのかマナイアは忘れいた痛みを思い出す。
包帯を巻いているが、明らかに出血は止まっていない。マナイアは腹部を押さえるが、彼も幾度の戦場でどのような状況か理解している。
「……どうも、こっちの機嫌はダメみてぇだな」
そう言って、腹部から手をどかして付着した血を見ながら薄く笑う。
それでもマナイアの顔には絶望はなく、むしろ希望のような表情を持っていた。
「……お前、変わったな」
そのまま目を閉じる。ほんのひととき、沈黙が降りる。
「そろそろ……交代の時間だ」
再び目を開け、陽名を見つめた。問いかけるような、まっすぐな視線。 そのとき、足音が近づく。 振り返る陽名。黒い影が三つ、こちらへと近づいてくる。
「……ジャン」
リョウがぽつりと呟く。それ以上の言葉は出なかった。
ジャンはすぐに端末を開き、マナイアの状態を確認する。
「生体反応、ほぼゼロです。もう……」
「……ああ……いいんだ」
マナイアは、それでも笑っていた。
そして次の瞬間、戦場の兵士のように顔を引き締める。
「リョウ。お前の拳には“守る力”がある。暴れるだけじゃねぇ。お前はもう、分かってんだろ?」
リョウは黙って、拳を強く握った。
「ジャン。お前の頭は、俺には難しすぎるが……正直に“分からねぇ”って言える奴は、信用できるもんだ」
ジャンは小さく頷いた。
そして、最後に、アビゲイルへ。
「小僧……お前には重すぎる期待が乗っかってんだろうが、そんなもんに縛られるな」
マナイアの言葉にアビゲイルは彼から視線を外さない。
「任務に従うな、自分に従え。……いいか、小僧」
アビゲイルの視界が、わずかに屈折する。
青白い粒子が空間に浮かび、風が逆流するような感覚。
(……これは)
アビゲイルは確かに“何か”を見た。
光の粒が幾何学のように舞い、名もなき声が耳の奥に届く。
『……未来は、見せられるものじゃない。選ぶのよ……』
それは懐かしく、優しい声だった。
マナイアは陽名に視線を置き、そしてもう一度アビゲイルを見る。
「ヒナを頼んだ……お前らなら……やり遂げられるはずだ」
「教官……」
アビゲイルは震える声で、懸命に感情を押し殺す。
「小僧……戦場では何を優先するべきか、教えたよな?」
「は、はい……」
「なら……ためらわず、実行しろ。いいな」
マナイアの鋭い眼差しに、アビゲイルは深く頷いた。
「ジャン、リョウ。保護した市民を脱出させる」
「……了解」
リョウは敬礼を交わし、静かに振り向く。
「この周囲に10の脱出パターン。推奨経路は南東、0.2分圏内に潜行ルートあり」
ジャンもまた敬礼し、端末を操作してマップを展開する。
リョウの背は、いつになく大きく。
アビゲイルの足取りは、ためらいなく。
陽名はそれを見て、見よう見まねで敬礼をした。
その姿に、マナイアはゆっくりと頷いた。
陽名は敬礼の手を下ろしたあと、そっとタグに触れた。かすかに揺れる金属の輪郭が、彼女の胸元でひときわ静かに響いていた。それはまるで、引き継がれた“名”の重さを確かめるようだった。
──誰もが去ったあと、マナイアはふっと息を吐く。
懐から葉巻を取り出し、口にくわえる。
火は点けない。ただ、そこにあるだけ。
そして、目を閉じる。
──火のない葉巻が、床に転がった。
風が吹く。タグの擦れる金属音が、微かに響いた。
振り返ったアビゲイルの目に、陽名の首もとで揺れるタグが映った。
──風が吹く。カラン、と乾いた金属音。
それは、確かに引き継がれた証だった。


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