救急棟6号を離れてからスプロケットは後ろを振り返っていなかった。
振り返らなくても追跡が続いていることは分かっていた。
端末の都市図では自分たちが通過した区画から順番に監視優先度が上がっている。
【EXTERNAL CONNECTION:NOT ESTABLISHED】
【RETURN REFERENCE:PROVISIONAL/PRESERVED】
【AVAILABLE ROUTES:DECREASING】
クロニアスの一次治療は終わった。
マッハラインが拾っていた肩掛け鞄も、今はクロニアスの肩へ戻っている。
帰還基準も一つ確保した。
しかし[ヘヴン]へ戻るために必要な外部接続は、まだ一度も成立していない。
目的は変わっていなかった。
帰る。
そのためには次の固定基準か、外部へ届く接続点を探さなければならない。
「東も駄目」
スプロケットは歩きながら経路を閉じた。
救急棟6号から離れた時には使えたはずの連絡通路が、すでに監視対象へ切り替わっている。
「早いね」
アイリーが隣から画面を見た。
「分かってたから」
「私たちがそこを使うって?」
「使うかもしれないって」
[ネクス・ハウンズ]は、もう後ろから追いかけてはいなかった。
先へ回り、使えそうな場所を減らしている。
救急棟6号で見たやり方と同じだった。
スプロケットは新しい経路を開いた。
三本。
一つは世界政府の再制圧区画へ近すぎる。
一つは変異市民の密集区域を横切る。
残った一つは一般居住区の外縁だった。
「こっち」
スプロケットが進路を示した。
マッハラインが前を見た。
「俺が先――」
身体が僅かに前へ傾く。
しかし次の瞬間には、自分で止めた。
「……いや」
スプロケットが彼を見る。
「行かない」
「うん」
「言われる前に止まった」
「見てた」
「成長しただろ」
「一回」
「一回でも成長は成長だよ」
マッハラインは笑った。
足だけは落ち着かず、歩幅が他の四人より少し細かい。
それでも先へ消えることはなかった。
「速いやつを待つんじゃなくて、速いやつが行きそうなところを待つんだったな」
「そう」
「覚えてる」
スプロケットは端末へ視線を戻した。
マッハラインが理解しているなら同じ説明をする必要はなかった。
居住区へ入る。
そこにはトーキョー・シティがまだ壊れ切っていない痕跡が多く残っていた。
雨に濡れた道路。
照明だけが点いた店舗。
無人のバス停。
停止した車列。
誰も渡らない横断歩道の信号だけが、決められた周期で色を変えている。
明が少しだけ周囲を見る時間が長くなった。
「知ってる場所?」
スプロケットが聞いた。
「この辺り全部じゃないですけど」
明は遠くの高架歩道を見た。
「似た区画はよくありました」
「似た?」
「ドームの中って、同じ規格の場所が多いから」
明は少し考える。
「でも使い方は場所ごとに違います」
その時、白い球体が道路の上を横切った。
直径30センチほどの小型機。
青いセンサーを灯したまま、交差点の上で一度止まる。
〈センチレット〉。
スプロケットは足を止めなかった。
目だけで軌道を追う。
一機だけではない。
さらに遠くにも同じ球体が浮いている。
都市が崩れた後も巡回を続けていた。
「まだ普通にいるんですね」
明が言った。
「前から?」
「いましたよ」
「何してた?」
「何って……普通に」
明は質問の意味を考えた。
「人が多い時は流れを見てましたし、事故があると止まれって言われるし、道が塞がると別の道を案内してました」
「喋る?」
「必要な時は」
スプロケットは最も近い〈センチレット〉へ接続を伸ばした。
【CENTILLET】
【LOCAL LINK:REQUESTED】
【IDENTITY:UNRESOLVED】
【ACCESS:LIMITED】
拒否されなかった。
救急棟6号の管理系統とは感触が違う。
〈センチレット〉は一つの施設を管理していない。
見ている。
周囲の状況を集め、決められた範囲で判断している。
その視界がスプロケットへ重なった。
道路の温度。
建物内の火災反応。
変異市民の位置。
世界政府識別信号。
通行不能区画。
避難可能経路。
近づいてくる武装反応。
【ARMED SUBJECTS:DETECTED】
【VECTOR:NORTH-EAST】
【LOCAL RESPONSE PRIORITY:RISING】

「来る」
スプロケットが言った。
アイリーは振り返らなかった。
「どれくらい?」
「近い」
マッハラインが前を見る。
今度は走ろうとしない。
「じゃあ、今の道も長くは使えないな」
「うん」
スプロケットは〈センチレット〉が持っている区画情報を広げた。
自分たちの進路上に一つの防火隔壁がある。
現在は閉鎖。
その向こうには災害時避難通路が残っていた。
「ここ、開けられる?」
明が画面を見る。
「その先ですか?」
「うん」
「抜けた後なら分かります」
「どこに出る?」
「たぶん旧商業街です」
「たぶん?」
「避難通路って普段は使わないから」
明は周辺図を指でなぞった。
「でも、この形なら途中で地下歩道と繋がると思います」
システムの地図には、ただの避難経路としてしか表示されていない。
しかし明の説明には、その先にあった生活動線まで含まれていた。
「じゃあ使える」
スプロケットは隔壁へ直接アクセスした。
【FIRE PARTITION:CLOSED】
【DIRECT CONTROL:DENIED】
予想した通り拒否された。
救急棟6号のようにローカル制御を奪ったわけではない。
ここはスプロケットの管理下ではなかった。
なら、管理する必要もない。
〈センチレット〉の判断系統を見る。
武装反応が近づいている。
別方向には変異市民。
一部道路は崩落。
現在位置から安全区域までの最短経路。
条件は揃っていた。
スプロケットは〈センチレット〉へ命令しなかった。
判断材料だけを繋ぎ直す。
【LOCAL SAFETY ASSESSMENT:RECALCULATING】
〈センチレット〉の青い光が一度強くなった。
道路脇の誘導灯が点く。
【EVACUATION ROUTE:UPDATED】
【SOUTH CORRIDOR:SELECTED】
隔壁の向こうで機械音が響いた。
閉じていた扉が上がり始める。

アイリーがスプロケットを見る。
「開けた?」
「ぼくじゃない」
「じゃあ?」
スプロケットは頭上の〈センチレット〉を見た。
「こいつが開けた」
〈センチレット〉は返答しない。
本来の仕事をしただけだった。
「行く」
五人が動いた。
明が先に通路の形を確認する。
「この先、右だと思います」
「左は?」
「駐車区画」
「出られる?」
「出られるけど、地上に戻るまで遠いです」
「右」
スプロケットは〈センチレット〉との接続を維持した。
複数の局地情報が次々と流れてくる。
近づいていた武装反応の一つが進路を変えた。
こちらの移動に気づいた。
しかし、すぐには追ってこない。
別の出口へ回ろうとしている。
「もう読まれてる」
スプロケットが呟く。
「この道?」
明が聞く。
「ぼくらが都市を使ったこと」
その瞬間だった。
〈センチレット〉の情報の奥に別の層が見えた。
一機の視界ではない。
周囲にいる別の〈センチレット〉。
さらに離れた区画。
無数の局地情報が一つの判断系統へ集まっている。
【UPSTREAM MANAGEMENT:DETECTED】
【CENTRIO】
【ACCESS:NOT ESTABLISHED】
スプロケットは歩きながら視線を止めた。
〈センチレット〉は街の目だった。
その目を束ねているものがある。
もっと大きなもの。
街全体を見ているもの。
その先へ意識が滑りかける。
声が聞こえた。
『……違う』
救急棟6号で聞いたものと同じ声だった。
同時に白い室内が一瞬だけ重なる。
前には二人いた。
向かい合っていた男たち。
今回は一人だけが残った。
横顔。

口元は見えない。
それでも声が聞こえるたび、その輪郭だけが同じ位置へ重なる。
『……まだ……』
スプロケットは左手首へ触れた。
ブレスレットの感触がある。
自分から触った。
白い室内が薄くなる。
「いる?」
アイリーの声がした。
「いる」
スプロケットはすぐに答えた。
アイリーは1秒だけスプロケットを見る。
「ならいい」
それだけだった。
スプロケットも説明しなかった。
前は、どの声がどの男のものなのか分からなかった。
今は一つの声が、一人の輪郭へ重なり始めている。
あの声の主なのかもしれない。
まだ分からない。
名前も分からない。
救急棟6号で聞いた「ヴァレン」という名前が、この男を指しているとも限らなかった。
今は追わない。
スプロケットは〈セントリオ〉へ伸びかけた接続を自分から止めた。
【CENTRIO ACCESS:NOT REQUESTED】
「スプロケット」
今度はクロニアスだった。
「何?」
「一つだけいいか」
彼は歩けている。
ただし速度はまだ遅く、アイリーが必要ならすぐ支えられる距離を保っている。
「また見えた」
「何が?」
「時間の残響だ」
スプロケットは彼を見る。
クロニアスは後方の交差区画へ視線を向けていた。
「救急棟と同じ?」
「似ている」
「同じ場所に重なってる?」
「違う」
クロニアスは少し考える。
「場所が違う」
スプロケットの視線が止まる。
「じゃあ、救急棟がおかしかったんじゃない?」
「その可能性は下がった」
「何が動いてる?」
「分からない」
クロニアスは短く答えた。
「ただ、今回も同じ人物らしき残響に複数の行動がある」

「順番は?」
「合わない」
それ以上は聞かなかった。
今ここで答えは出ない。
「覚えてて」
「記録している」
クロニアスはそれだけ言った。
前方でマッハラインが手を上げる。
「出口見えた」
走ってはいない。
スプロケットたちから離れすぎてもいない。
「誰もいない?」
「見える範囲は」
「そのまま待って」
「了解」
南側通路の出口を抜ける。
最後にスプロケットが隔壁を越えた。
直後、〈センチレット〉側の判断が変化した。
【EVACUATION PASSAGE:COMPLETE】
【SECURITY PRIORITY:UPDATED】
隔壁が閉まり始める。
同時に外部から〈センチレット〉への認証照会が入った。
世界政府側。
スプロケットはその要求へ触れなかった。
「来た」
アイリーが言う。
「うん」
「追ってくる?」
「違う」
スプロケットは接続履歴を見た。
「調べてる」
「何を?」
「ぼくが何したか」
スプロケットは〈センチレット〉との接続を切った。
【CENTILLET LINK:DISCONNECTED】
都市の視界が消える。
普通の道路へ戻った。
しかし、もう以前と同じ街には見えなかった。
頭上を飛ぶ一つ一つの〈センチレット〉。
道路。
隔壁。
避難表示。
監視設備。
それぞれが独立しているように見えて、その奥では繋がっている。
救急棟6号では一つの施設を使った。
ここでは違う。
自分たちが入っていない場所まで、都市は見ていた。
「ねえ」
マッハラインが閉じた隔壁を見る。
「今回は俺、何もしなかったな」
「した」
「何を?」
「走らなかった」
マッハラインが少し笑った。
「前もやった」
「今回は自分で止まった」
「そこまで見てた?」
「見てた」
スプロケットは答えず、都市図を開いた。
今通過した南側避難通路が赤へ変わる。
【SOUTH EVACUATION CORRIDOR】
【STATUS:UNDER REVIEW】
【REUSE PROBABILITY:LOW】
同じ方法はもう使いにくい。
ハウンズはこちらが〈センチレット〉へ触れたことを知った。
次は、その前提で動く。
逃げられた。
ただし逃げた分だけ使える場所は減った。
スプロケットは都市図を縮小した。
赤い区画が増えている。
その中に小さな青い反応がいくつも残っている。
〈センチレット〉。
さらにその奥には、まだ触れていない〈セントリオ〉がある。

スプロケットはそこを一度だけ見た。
開かなかった。
今は帰る方が先だった。
【EXTERNAL CONNECTION:NOT ESTABLISHED】
【RETURN REFERENCE:PROVISIONAL/PRESERVED】
【NEXT FIXED POINT:SEARCHING】
端末を閉じる。
歩き出す前にスプロケットはもう一度だけ左手首へ触れた。
ブレスレットはそこにある。
自分もここにいる。
それを確かめてから四人の後を追った。
帰るために使える道は減っていた。
代わりにトーキョー・シティそのものが少しだけ見えるようになっていた。


コメント