──ねぇ、あのとき、ほんとうに、わたしはここにいたのかな。
風が、そっと吹いてた。
焼け焦げたものの匂いと、もう誰にも呼ばれなくなった時間のかけらたちが、空気のすき間に溶けて、静かに舞っていた。
遠くで、何かが崩れるような音がして、それはすぐに風に消えた。
その中で、金属の音が、ひとつ。
……チリ、ン……。
呼吸とまちがえるほど小さな音。
けど、たしかに、そこに“いた”。
それは、わたしがもらったものだった。
わたしが、渡したものでもあった。
でも、名前はなかった。
だれのでも、なかった。
それでも、ずっと、そこにあった。
──ねぇ、誰かが歩き出すのを、見たことがある?
声もかけずに、ただ背中だけ残して、遠くに、静かに、行ってしまう。
その歩幅に、きっと、何かがあったんだ。
でも、それが“何”なのか、言葉にはならなかった。
誰かが目を伏せたとき、そこには、ひとつ分の寂しさが落ちてた。
わたしには、それが、すこしだけ分かった気がした。
……それだけで、じゅうぶんだった。
いろんなものが、残されてたんだ。
こわれた飾りとか、ひびの入ったびんとか、骨のかけらとか、返事にならなかった声も。
どれも、きれいじゃなかったけど、でも、それが“あった”ってことが、とても、たいせつに思えた。
手に取ったわけじゃないのに、なぜか、胸のあたりに重さがあって、気づくと、涙がこぼれそうになってた。
それはきっと、“言葉にしないもの”を、誰かが残していったから。
ふるえた手とか、渡せなかったままの贈りものとか。
その全部が、わたしのなかに、すこしずつ重なっていった。
──ねぇ、わたしは、なにかを受け取っていたのかな?
誰にも言われなかったけど、誰かが「お願い」って、小さな声で思っていたような、そんな気がして。
だから、手をのばさなかったのに、なぜか、ちゃんと持っていた。
名前がないものを、どうして“覚えている”ってわかるんだろう。
ふしぎだね。 音も、色も、言葉もなかったのに。
それでも、わたしは、それがここにあるって、信じてた。
あの人の背中を、誰かが見送ってた。
その視線の先に、もういないのに、でも、まだそこに“いた”。
誰もが、どこかで足を止めて、そしてまた、歩いていった。
それが、バラバラだったはずなのに、なぜか、みんな、おなじ方向を向いていた気がした。
“選んだ”のか、“選ばされた”のか。
……どっちでもいいんだと思う。
だって、その一歩が、ぜんぶを、ほんのすこし、あたたかくしていたから。
わたしは、名を呼ばれたことがある。
ひとりだけじゃなかった。
でも、たぶん、その全部が、“はじめて”みたいに感じた。
──ねぇ、だれかの“願い”って、さわれないはずなのに、こんなふうに胸を押してくるんだね。
わたしの目の前に、ちいさな花が咲いてた。
瓦礫のあいだから、こっそり顔を出してた。
手を伸ばせば、きっと届いた。
でも、わたしは、触れなかった。
だって、触れなくても、それが“生きてる”って分かったから。
それだけで、うれしかった。
足もとに、誰かの足跡があった。
もう、崩れかけてたけど、まだ、かすかに残っていた。
「ここを通ったよ」って、声の代わりみたいに、静かに語ってた。
わたしは、それを追ったんじゃない。
ただ、おなじ方へ歩いただけ。
風がまた、ひとひらの塵を連れて過ぎた。
その瞬間、足跡は完全に消えてしまったけど──ちゃんと、見てた。
──ねぇ、それは、誰かの意志だったと思う?
それとも、わたし自身の選択だったのかな? それとも……
この問いを投げてたのは、ずっと前から“わたし”じゃなかったのかもしれない。
風が、吹いてた。
すごく、静かで、それでいて、すごく、あたたかかった。
まるで、誰かが笑ったときの、呼吸みたいだった。
その中に、わたしの足音が、ひとつ。
誰にも気づかれないくらい、小さくて、ちいさな一歩。
でも、それがあったことは、わたしだけが知ってる。
──それで、じゅうぶんだった。
それは、継がれたものだったのかな。
それとも、生まれたばかりのなにかだったのかな。
どちらにせよ、わたしは、それを“受け取った”気がした。
わたしは、なにを見てた? なにを、残して、なにを、手ばなした? なにを、……なにを、継いだんだろう?
──チリ、ン……。
また、金属の音が鳴った。
それは、名前のない、ちいさな返事だった。
風が、吹いてた。
今も、まだ。
──ねぇ、ほんとうに、これでよかったのかな。
わたしには、まだ、わからない。
でも、たぶん、それで、いいのだと思う。
──風が、吹いていた。すれ合う金属音とともに。
わたしは、ここにいた。
……たしかに、そう思える気がした。
名を呼んでくれた、あなたがいたから。
──陽の名を持つ、わたしを。

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