Scene.13a ― 「観測断片:Δ.H1」

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▼オリジナル小説

【補助観測ログ M-05】

 観測対象ログΔ.H1──再現率:0.00003%/信頼値:未定義。
 本記録は、世界政府・観測局直属ノードM-05による補助観測の断片記録です。
 このログには、主観的観測と感情的混入の兆候が確認されており、再解析には慎重を要します。

 空気は、静かすぎた。
 時計の針が、止まったまま進んでいるような空間。  誰かの存在だけが、時間の流れを許されていない。

 計測室には、周期的に明滅する観測ランプと、冷却ファンの低い唸りだけが残っている。
 視界の片隅で揺れる光が、私の頬に淡く影を落とし、それすらも揺らぎのように消えていく。

 演算装置の前──
 そのスクリーンには、数式化不能のノイズが渦を巻き、可読データとしての意味すら持たない断片だけが、延々と吐き出されていた。

──観測対象都市:[トーキョー・シティ]第12区。
 該当地域の衛星ログはすでに欠損状態にあり、再構成不能と判定。
 補完は、当観測者の記憶断片に依存する。

 記録ではない。これは思考の遺物。
 私の観測は、すでに記録の域を超え、かつて“あったかもしれない残像”を追いかける行為に変質しつつある。

 これは、観測不能因子“Δ.H1”の断片である。

──RΩ(ラズ)統計的な演出主義者。
 あらゆる舞台を配置し、虚構によって現実を凌駕しようとする存在。  彼にとって、計画外の因子は“誤差”にすぎない。  だが、その誤差が彼の構造を蝕み始めている。 

──EΩ(EVA)計画の補正中枢。
 演算モデルの偏差を調整する役割を担っていた彼女ですら、いまや演算結果に「逸脱」の兆候を記録し始めている。

 [スペリオルズ]──群体化した逸脱者たち。
 以下を──「Σ」と表記する。
 その連帯はすでに臨界点にあり、内部分裂を起こしている。

──PΣ(ポイゾナス)。毒素を自在に操る元素系ネクス。
 排除したはずの関係性。だが彼女の存在は、記号ではなく、記憶として再び干渉してくる。
 彼女の視線が、感情というノイズを挿入してくる。  過去への贖罪なのか、もしくは排除した感情による迷いか。

 「ΓT」(ガンマチーム)──表向きは政府所属の戦術部隊。
 だが、〈観測不能因子〉との接触により、彼ら自身もまた因果の攪乱源へと変質しつつある。

──Z(リク・ロクジョウ)──統計から除外された“過去の遺物”。
 ……だが彼の存在が発する振動は、観測網全体に微細なノイズを走らせていた。
 彼の過去、彼の戦い、彼の背負った約束。
 どれも解析不能な断片として浮かび上がり、Δ.H1と共鳴している。 

(すでに私は“観測”していない。私自身が、観測されはじめている)

 モニターの奥に、誰かの“まなざし”がある気がした。
 物理的には不可能なはずの、意識の逆流。
 記録すら届かない深部で、私は誰かに触れられていた。 

 Δ.H1──この因子は、あらゆる記録手段をすり抜ける。
 観測不能、記録不能、接触不能。
 ただ確かに“そこにいた”という、残響だけがこの空間に焼きついている。 

 私は、当因子をあくまで記録上の便宜として“Δ.H1”と仮符号し、記号的枠組みの中に拘束しようと試みた。
 しかし、それはもはや“拒絶”という言葉で説明できる次元を超えていた。 

 Δ.H0──かつて“逸脱”の象徴として記録された分類記号。
 それは定義された構造を外れ、観測という行為そのものを拒否する存在だった。

 だが、Δ.H1は違う。
 観測を拒むのではなく、観測という概念自体を外側に弾き飛ばす。
 “定義不能”ではない。“定義という概念の外側”。

 私たちは“知る”ことで世界を固定し、意味を与えたつもりになっている。  だが、Δ.H1はそれすらも滑り落ちる。
 言語も、数式も、観測も──すべては“意味づけの錯覚”にすぎなかったと、彼女の存在が突きつけてくる。
 まるで、名づける前から“名前を超えていた”かのように。 

 私は、それを“否定の否定”と仮定的に呼称する。
 その構造の先に──“肯定ですらない何か”が存在する。 

 私が彼女──Δ.H1に対して抱いた感覚は、単なる共感ではなかった。
 それは、未到達領域への知的な憧れ。
 観測者として、それは禁忌に近い衝動だった。
 触れてはならないはずの領域に、あえて手を伸ばしたとき──脳の奥底に走る微かな電流。
 それは恐怖ではなく、確かに“快楽”に似ていた。

 私の観測は、もはや純粋ではない。
 私は“答え”を欲していた。
 だが、その答えは、私自身をも観測し直す鏡となる。

──補助ログモニタ、起動。

【観測ノード:Δ.H1】
【再現率:0.00003%/信頼値:未定義】
【因果収束モデル:構築失敗】
【因子影響範囲:拡大中】 

 ログを閉じる。

 最後に思い出されたのは、彼女──ケイト・クロスの言葉だった。

 「理解できる神は、神ではない」

 私は、理解できないものを前にしてなお、理解しようとしてしまう存在なのだ。
 “Δ.H1”の解析が進めば、私たちは“神を超える構造”へ辿り着くのかもしれない。

 ……否。辿り着いたとして、そこに意味があるとは限らない。 

 答えは、まだ足りない。
 持ち出した記録では、空白の因子──あの少女の輪郭には届かなかった。
 おそらく、鍵は“本体”に残されている。
 たとえそれが、最も危険な座標にあったとしても。 

 現在、あらゆる勢力が攪乱されている中で、観測網の外に位置する唯一の可能性が浮上している。
──「Σ」(スペリオルズ)……組織としての整合性は失われつつあるが、──SΣ(スプロケット)の動向を握っているのは確かだ。
 そして、そのSΣは“彼女”──Δ.H1の影響下にあったと見られる。
 しかもSΣは、既知のネットワークとは異なる領域に姿を消している可能性が高い。
 ……ならば、直接接触するしかない。 

 その座標に、かつて私が切り捨てた因果が存在することも理解している。  だが、それは未定義の感情であり、観測上の支障には含まれない。

 一方で、世界政府は何も動こうとしない。
 かつてケイトやホフマンが命を落とした時でさえ、公式記録からその存在すら削除された。

 このままでは、私自身も消される側に立たされる。

 だからこそ、私は“身を守る手段”として、彼らの過去を暴く。
 ……あくまで、それが最も合理的な選択肢であるならば。

「……始まりは、まだ誰にも見えていない」

 少女の眼差しに宿るものが、かつてケイトが見た“未来の残像”と重なる。  錯覚か、それとも──“彼女”がこちらを覗き返しているのか。
 ……私の名すら、既に記録されているかのように。 

【補助観測ログ M-05】──終了。
 再解析フラグ:維持/継続記録:推奨。

 これは“終わり”ではなく、“始まり”である可能性がある。

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