Scene.02 -「この街に、涙の匂いがした」

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▼オリジナル小説

 夜のトーキョー・シティ、第14街区。

 作戦開始から3日目。

 舗装路は各所で裂け、断面から赤錆びた配管が露出していた。

 高層棟の外壁には無数の亀裂が走り、割れた窓の奥で非常灯が明滅している。

 街路灯も通常照明を失い、赤い非常灯だけを一定間隔で点滅させていた。

 上空を旋回していた防衛ドローンの一機が火花を散らしながら落下し、ビルの窓を突き破る。

 砕けたガラスが路面へ降り注いだ。

 その下を一人の大男が歩いていた。

 約190cmの巨体。

 褐色の肌。

 スキンヘッド。

 左顔面から左腕へ続くマオリ由来のタトゥー。

 口には火をつけていない安物の葉巻をくわえている。

 男――マナイア・ケアは足を止めた。

 周囲を一度確認してから空を見上げる。

 ドーム天井に投影された星々が何事もなかったように瞬いていた。

 整いすぎた星空。

 雲もない。

 星の位置も光量も、すべて計算されている。

「死人にゃ、似合いの夜空だな……」

 マナイアは葉巻を噛み直した。

 世界政府直属の特殊部隊[ワイルドカード]隊長。

 何度もドーム外へ出て、煤煙と雲に覆われた本物の空を見てきた。

 だからこそ、この作られた星空を好きにはなれなかった。

 偽物だからではない。

 あまりにも何も起きていないように見えるからだ。

 足元では変異した市民が壁へ頭を打ちつけていた。

 別の一人は崩れた車両の陰で意味のない笑い声を漏らしている。

 さらに奥では倒れた市民へ別の市民が噛みついていた。

 人間だったものが人間だったものを傷つけている。

 マナイアは視線を逸らさなかった。

 突然、空の一部が揺らいだ。

 星の並びへ細いノイズが走る。

 一瞬。

 それだけだった。

⸻

【REFLOG–Δ.H0 : SKY-MAP ∅】

⸻

 次の瞬間には星空は元へ戻っていた。

「……偽物の空が、ようやく嘘を吐いたか」

 マナイアは葉巻を噛んだまま呟いた。

 胸元へ手を伸ばす。

 指先へ五枚の金属板が触れた。

 デルロイ・ブラッドショー。

 ファイシル・シャリフ。

 キャメロン・アン・ステュディ。

 アレクセイ・ハベンスキー。

 ジョイ・チャン。

 六人で動いていたワイルドカードはもう存在しない。

 今ここに立っているのはマナイア一人だけだった。

 五枚のドッグタグを親指でなぞる。

 冷たい。

 それでも捨てる気にはならなかった。

 誰にも残らなくても、自分だけは覚えている。

 それで十分だと考えるにはまだ早かった。

 通信は死んでいる。

 敵味方識別は信用できない。

 防衛ドローンもセンチレットも、どの認証へ従っているのか分からない。

 街そのものが壊れているわけではない。

 壊れているのはその判断だった。

 マナイアは割れた携行端末を起動した。

 ひび割れた画面へ何度目か分からない警告が表示される。

【MIRA MALIK / BIOMETRIC SIGNAL : LOST】

【CORE DATA / PHYSICAL DAMAGE】

【RECOVERY : IMPOSSIBLE】

 マナイアはしばらく画面を見つめた。

「……救出も、回収も終わりか」

 返事はない。

 本来の任務は二つだった。

 要人ミーラ・マリクの救出。

 コア・データの回収。

 その両方が失われたと端末は告げている。

 五人も失った。

 命令を確認する相手もいない。

 ならば次に何をするか決めるのは自分だった。

 マナイアは端末の地図を拡大した。

 中央研究柱。

 その下層には中核ドームの融合炉制御と送電系統が集中している。

 都市内部の異常を外へ出すわけにはいかない。

 必要なら制御系を潰す。

 中核区画そのものを焼いてでも、ここで止める。

 合理的な判断だった。

 少なくとも今のマナイアにはそう思えた。

「あと3ブロック……か」

 肩へかけたアサルトライフルを持ち直す。

 残弾は200発を切っている。

 拳銃の予備マガジンは二本。

 手榴弾は三つ。

 腰には祖父ラウィリから受け継いだナイフ。

 中央研究柱まで単独で抜けるには十分とは言えない。

 それでも行く。

 帰れる保証はない。

 だが自分から帰る可能性を捨てるつもりもなかった。

 できることをやる。

 生き残れたなら帰る。

 それだけだった。

 マナイアは葉巻を噛み直した。

「……さぁて。無茶の時間だ」

 一歩を踏み出す。

 その瞬間だった。

 周囲の音が急に遠ざかった。

 警報。

 呻き声。

 どこかで金属が崩れる音。

 すべてが薄い膜の向こうへ押しやられたように聞こえる。

 マナイアの右手がアサルトライフルへ動く。

 視線を周囲へ走らせた。

 崩れたバス停の屋根下。

 そこに小さな影があった。

 少女だった。

 13、14歳ほどに見える。

 小柄な体。

 白を基調とした簡素な服。

 瓦礫の中へ座り込み、膝の上に一枚の紙を置いていた。

 マナイアは眉を寄せた。

 この場所に少女がいる。

 それだけなら生存者の可能性はある。

 問題はその状態だった。

 白い服に血が付いていない。

 髪にも埃がほとんどない。

 3日間この区画で生き延びていた人間には見えなかった。

 少女は膝の上の紙を見つめている。

 手紙のようだった。

 文字の一部は赤黒い染みに覆われ、読めなくなっている。

 マナイアは銃口を下げなかった。

 少女の周囲へ視線を巡らせる。

 死角。

 瓦礫。

 上方。

 路地。

 罠らしいものは見えない。

 だが、それが逆に気味が悪かった。

 少女が顔を上げる。

 静かな目だった。

「おじさん……どうして、そんな顔してるの?」

 小さく柔らかな声だった。

 マナイアは一瞬返事を忘れた。

 少女は自分を恐れていない。

 構えた銃も見ている。

 血に濡れた戦闘服も見えている。

 それでも表情はほとんど変わらなかった。

「……ここで何してる」

 少女は少し考えるように首を傾けた。

「わからない」

「ここで何があったかは?」

 少女は再び首を傾ける。

「……気づいたら、ここにいたの」

 それ以上の言葉は出てこない。

 嘘をついているようには見えなかった。

 だが普通でもない。

 マナイアの経験では分類できなかった。

 それでも。

 目の前にいるのは武器を持っていない少女だった。

 マナイアは銃口を少しだけ下げる。

「おじさんは助けに来たんだ」

 少女が瞬きをする。

「でも、おじさん、疲れてるみたい」

「……まあな」

 マナイアは葉巻を口の端へずらした。

「3日働きっぱなしだ」

「ちゃんと休まないと、死んだみたいな顔になっちゃうよ」

 マナイアは少女を見た。

 それから小さく鼻で笑う。

「……へっ。そりゃ困るな」

 胸元で五枚のタグが触れ合った。

 小さな金属音。

 デルロイの声が一瞬だけ頭の奥へ蘇る。

『お前が生きりゃ、ワイルドカードは死なねぇ』

 最後に渡された五枚目のタグ。

『ジョーカーを引いた罰だ。背負え』

 マナイアは目を閉じなかった。

 忘れない。

 それだけはもう決めていた。

 少女がマナイアを見上げている。

「名前は?」

 少女の唇が少し動く。

 すぐには声が出なかった。

 自分の中から言葉を探しているように見えた。

「……ひな」

「ヒナ?」

 少女はマナイアを見る。

 その目が先ほどより少しだけこちらへ焦点を合わせたように見えた。

「……うん」

「そうか」

 マナイアは一度だけ頷いた。

「ヒナ、か」

 その名を口にした瞬間、頭上の星空へ細いノイズが走った。

 一瞬だけだった。

 マナイアが見上げた時にはすでに消えている。

 少女――陽名は自分の名前を確かめるように小さく呟いた。

「……ひな」

 マナイアはそれ以上追及しなかった。

 理由を聞いても今は答えが出そうにない。

 必要なのは別の判断だった。

 マナイアはライフルを背へ回した。

 そして陽名へ手を差し出す。

「行くぞ」

 陽名が差し出された手を見る。

「理由は要らねえ」

 マナイアは言った。

「お前をここに置いていける理由が、どこにもねえ」

 その直後。

 瓦礫の向こうから低い呻き声が響いた。

 マナイアの表情から笑みが消える。

 崩れた車両の陰から一人の変異市民が這い出してきた。

 頭部から血を流し、片腕が不自然な方向へ折れている。

 濁った目がマナイアを捉えた。

 マナイアは即座に陽名の前へ出る。

 左腕で少女を背へ庇い、右手でライフルを構えた。

 照準。

 頭部。

 距離は十数メートル。

 撃てる。

 陽名がマナイアの背後から一歩だけ出た。

「ダメ」

「下がれ」

 マナイアが短く命じる。

 だが陽名は動かなかった。

 変異市民の濁った目が少女のいる位置へ向く。

 そのはずだった。

 視線が止まらない。

 陽名の姿を通り越し、左右へ揺れる。

 そこに何かいるはずなのに焦点だけが定まらない。

 変異市民が一歩進んだ。

 陽名は何もしない。

 手も上げない。

 声も出さない。

 それでも変異市民は陽名を見失ったように立ち止まった。

 やがて首を別方向へ向ける。

 そのまま何事もなかったかのように瓦礫の陰へ戻っていった。

 マナイアは銃を下ろさなかった。

「……なんだ、今のは」

 答える者はいない。

 陽名自身も去っていった変異市民を不思議そうに見ている。

「お前、何かしたか?」

 陽名は首を横へ振った。

「してない」

 マナイアは数秒だけ黙った。

 嘘を見抜けたわけではない。

 理解できたわけでもない。

 ただ少女自身にも今の現象が分かっていないように見えた。

 マナイアは先に周囲を確認する。

 別の敵影はない。

 そこでようやく銃口を下げた。

「……まあいい」

 陽名を見る。

「大丈夫だ。俺がいる」

 口にしてからマナイア自身がその言葉を聞いた。

 五人を帰せなかった男がまた誰かへ同じことを言っている。

 それでも訂正はしなかった。

 もう一度陽名へ手を差し出す。

 少女は少しだけ迷い、その手を取った。

 小さな掌。

 温かい。

 指先から確かな体温が伝わる。

 マナイアはその手を握った。

 理解できないものではない。

 少なくとも今、この手は生きている。

 それだけで十分だった。

 マナイアは一度中央研究柱の方角を見る。

 都市を封じ込める。

 中核を焼く。

 そのためにここまで歩いてきた。

 だが今はその道の途中に一人の少女がいる。

 マナイアは地図端末を閉じた。

「行くぞ、ヒナ」

「うん」

 中央研究柱へ向いていた足を別の方向へ向ける。

 まずこの少女を生きて帰す。

 その先のことは、それから決めればいい。

 赤い非常灯が二人の背後で明滅する。

 頭上では偽物の星空が変わらず瞬いていた。

 胸元には五枚のドッグタグ。

 手の中には陽名の温もり。

 マナイアはそのどちらも離さず、崩れた街を歩き出した。

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