夜の都市、[トーキョー・シティ]第14街区。
そこは、もはや“街”と呼ぶには、あまりにひび割れていた。崩れた舗装路の断面からは、赤錆びた配管がむき出しとなり、倒壊寸前の高層棟が月面のクレーターのような影を落とす。
非常灯に強制切替された街路灯は、一定間隔で赤いフラッシュを放ち、瓦礫の角を血色に染めた。
火花を散らしながら墜落するドローンがガラスを砕き、その破片が路面を転がって、火のついた紙片をかき回す。
かつて賑やかだった街に一人の不釣り合いな大男が歩いていた。
褐色の肌とスキンヘッド、左側の顔と筋肉で盛り上がった左腕には独特のタトゥーが彫り込まれ、口には火をつけていない葉巻がくわえられていた。
ふと見上げた。
ホログラムの星々が、何事もなかったかのように静かに瞬いていた。
大男は舞い上がった葉巻を取って唾を吐きかけるように言い放つ。
「死人にゃ似合いの夜空だ……」
上空には、整いすぎた星空――そう見えるものが瞬く。だがそれは、ドーム天井に投影されたホログラム。光の粒すべてが、プログラムと演算で構築された偽物だ。
市民の大半は、その偽物の夜空を「希望」と呼ぶ。
しかし、世界政府直属特殊部隊《ワイルドカード》隊長、マナイア・ケアには、その星々はただの虚飾に映った。
何度もドーム外で任務に就き、曇天と煤煙しかない“本物の空”を見てきた男にとって、あまりにも整った天体は侮蔑の的でしかない。
黒い特殊戦闘服を包む厚い胸板。右肩に担がれた近未来型アサルトライフル。銃身下にはグレネードランチャーが一体化し、複合マガジンが赤い警告ランプを瞬かせていた。
くわえた葉巻からかすか漂う甘い独特の香りも、血と油の匂いにすぐ塗り潰される。
足下に横たわる人影は、もはや人ではない。どこかの関節が外れたような姿勢で徘徊し、濁った笑い声を漏らし、互いの肉に歯を立てる。
ゾンビ化──そう呼ぶしかない異常が、わずかな時間でドーム都市を蹂躙した。
そのとき、星々の間に、一瞬だけ奇妙なノイズが走った。投影装置の誤作動か、薄い蒼光にまじって何かの文字が浮かび上がる。
【REFLOG–Δ.H0 : SKY-MAP ∅】
それはすぐに消え、空はまた何事もなかったように“偽りの星”を瞬かせる。
「……偽物の空が、ようやく嘘を吐いたか」
マナイアは苛立ったようでどこか悲しそうな表情でそう呟き、葉巻をくわえ直した。
低い呟きが、赤い光の中で白い煙に溶けていく。虚飾に対する苛立ちと、五つのタグの重みが混ざり合い、苦い味だけが口内に残った。
通信は途絶え、防衛システムは敵味方を誤認し、制圧ドローンの掃射は味方をも吹き飛ばした。マナイアは、その地獄のただ中を独りで進む。
本来、[ワイルドカード]は六人編成だった。通信兵・工作兵・衛生兵・偵察兵・整備兵、そして隊長という少数精鋭。それが今、隊長のマナイア以外の五人は、すでにこの区画のどこかで眠りについている。
彼は葉巻を噛み直し、さらに踏み出す。血と油に濡れた路面が、靴底で軋んだ。
……だが、あの瞬間だけは忘れられなかった。
最後の通信が切れた直後、交差点の向こう。崩れた標識の陰に、“人のような輪郭”が立っていた。
暗がりに溶けながら、まるでこちらを観察していたかのように動かない。仲間を喰う感染者ではない。機械の動きでもない。ただひたすらに、沈黙のまま見つめる“何か”。マナイアの経験が告げていた。あれは、“戦い慣れた目”だった。
……それ以上は、闇が飲み込んだ。
マナイアは、胸ポケットに仕舞い込んだ5枚のドッグタグに指を添える。縁に乾ききらない血がこびり付いている。忘れないための錘。誇りを奪わせないための証。
「……あと3ブロック先か……なかなかハードだな」
割れたマップ端末を見るマナイアは自嘲気味に笑う。 トーキョー・シティの中央核融合炉は、遠隔管制が停止しているにもかかわらず、かすかに熱を放ち続けていた。
無人となった都市の最奥で、まだ“何か”が生きている。自爆装置を起動させれば、都市そのものを灰にできるかもしれない──ここにいるゾンビは外に出すべきじゃない。
そう考えたのは、たった今が初めてではなかった。
「もう任務は果たせねぇ。救出対象とデータ回収は……あそこにいたかもな」
彼は口の中で呟いた。誰にも届かない言葉。
弾薬は残りわずか。アサルトライフルは200発。拳銃は2マガジン。手榴弾は3つ。
──そして最後の手段、祖父から受け継いだ一族のナイフ。
生き残れないのは分かっていた。だが──せめて、名も残さず死んでいった仲間の、証だけでも。
それに、まだ動いている中央炉がある限り、都市が暴走を始める可能性は残る。 せめて“心臓”だけは、この手で止めてやる──それが、残された任務だと信じた。
「だったら、俺が証になってやる」
その一歩を踏み出そうとしたときだった。
「……さぁて、無茶の時間だ」
そう呟いて一歩を踏み出したそのとき──その瞬間、音が消えた。
呻き声も、警報も、破砕音も。都市全体が一拍で遠ざかり、真空のような静寂が降りる。マナイアの指が、トリガーへ滑る。視界の奥、崩れたバス停の屋根下に小さな影。
瓦礫に膝を抱えて座る、少女だった。華奢な小さな体、ポニーテール、白いシャツ。
少女はじっと何かを見ていた。それは誰かの手紙なのか、文字が血によって読めなくなっている。この時代で紙の手紙という物珍しさよりも、マナイアは違和感を覚える。
血と肉にまみれたこの街の只中に、まるで時間から切り取られたように、そこだけが静かだった。服も髪も汚れておらず、血も、埃も、付着していない。
……ただ、どうしても腑に落ちない。
あの子の足元には、埃も、ガラス片も、影さえ落ちていなかった。瓦礫の街で、そこだけが“現実から切り取られている”ように見えた。まるでこの世界が、彼女の存在を否定しきれずに、少しだけ“ひずんだ”かのように。
マナイアは息をのんだ。この街に“生存者”がいるはずがない。少なくとも人間であれば。
「おじさん……どうして、そんな顔してるの?」
少女が言った。
声は静かで、澄んでいた。けれど、どこか“外側”から響いてくるような響きがあった。
それは、鼓膜よりも先に脳に届くような、不思議な感覚だった。意識が飛んでいたような感覚のマナイアはすぐに我に返る。
澄んだ瞳と無邪気さを感じさせる雰囲気を持つ少女。その背景にある死と苦痛とのアンバランスさにマナイアは異質さを感じる。
「……ここにいて、何してる」
まだ銃を構えるマナイアの戦場の勘が上手く働かない。ただ、長年体が覚えている違和感と、目の前の現実とのギャップに戸惑っていた。
少女はゆっくりと立ち上がってマナイアを真っ直ぐ見る。
「……ここで、何があったか分かってるのか?」
彼は自分でも気づかぬうちに、問いかけていた。それは怒りではなく、確認だった。
少女は小さく首を傾ける。
「気づいたら、ここにいたの……たぶん、ずっと昔から」
感情の波がない。それでも、マナイアは彼女を“人間”だと思った。
──この街に取り残された、生き残り。
直前まで確かだった死への覚悟が、一瞬にして霧散していた。
この少女が何者なのかはわからない。だが、彼女の存在が自分を止めた。それだけは確かだった。ふと、マナイアは失った仲間たちの声が脳裏に響いた気がした。

「……そういや……あいつら、こんな子を守るために、戦ってたんだよな」
出撃直前、後輩の衛生兵が言っていた。
『もし俺らがやられたら、あなたが全部回収してくださいよ』
苦笑まじりに返した言葉が、喉に引っかかる。唐突に、マナイアの中で何かがほどけた。ドッグタグが、わずかに音を立てて揺れた。それは、もう戻らない五人の“声”だった。肩を叩いて背中を押してくるような、そんな微かな気配だった。
「おじさんは助けに来たんだ」
少女は瞬きをする。
「でも、おじさん、疲れているみたい」
思わぬ少女の言葉にマナイアの緊張がなぜかほぐれた。
「そうだな。確かに三日前から働いているからなぁ」
「ちゃんと休まないと、死んだみたいな顔になっちゃうよ」
「それもそうだな。あはっはっ」
少女の言葉はマナイアの忘れていた己を呼び覚ます。
「名前は?」
「……ひな。陽名」
「陽名、か」
マナイアは息を吐き、もう一度天を仰ぐ。
先ほどは苛立ちしか感じなかった偽りの星空が、なぜか今は少しだけ柔らかく見えた。
少女がいる。ただそれだけで、星は偽物でも、その光が“本物”を照らす夜もある。そんな気がした。この子の周囲だけ、血の匂いがない。まるで世界が、彼女を中心に半歩だけ息を整えている。
“異質”なのに、なぜか安らぎを伴う違和感。言葉にできない、得体の知れない空白。マナイアは沈思を断ち切り、静かに手を差し出した。
ライフルを背に回し、掌を上へ向ける。
「行くぞ。理由は要らねえ。お前をここに置いていける理由が、どこにもねえ」
だが、マナイアがその手を差し出した次の瞬間だった。瓦礫の向こうで、ひときわ大きな呻き声が響いた。崩れた車の陰から、一体のゾンビが這い出してくる。
頭部は裂け、腕の関節は逆向きに折れ曲がり、誰の顔かもわからない。その視線はマナイアに向けられていると思った。彼は瞬時に少女を背に庇い、トリガーに指をかける。
……だが次の瞬間、陽名が一歩、前に出た。
「ダメ」
その声は小さく、けれど確かに響いた。陽名の瞳が、ゾンビの濁った目と交錯する。
──時間が止まったような沈黙。
やがて、ゾンビは呻きを止めた。そのまま、ふらりと踵を返し、再び瓦礫の陰へと消えていった。攻撃も、威嚇も、逃走すらしない。まるで彼女の存在そのものに“興味をなくした”かのようだった。
「……なんだ、今のは……」
銃を下ろしたマナイアの眉間に、皺が刻まれる。敵意でも畏怖でもない、奇妙な既視感と違和感。彼の戦場勘が、初めて“理解不能”という名の警報を鳴らしていた。
「大丈夫か? 俺がついている限り安全だ」
……そう口にしながら、わずかに指先が震えた。
この小さな存在が、何を引き寄せるのか、それとも引き離すのか。その不安をかき消すように、彼は手を伸ばした。
陽名はほんの一瞬だけ瞼を伏せ、次いで迷いなく手を取った。
小さな掌は温かく、生きている鼓動が確かに伝わってくる。その温もりが、黒い戦闘服の下で冷えきった心臓に、わずかな火を灯した。
二人が歩き出すと、赤い非常灯の閃光が背後で脈打ち、ホログラムの星が無音で輝く。偽りの夜空の下を、マナイアは進む。
五つのタグの重み。仲間の魂。を胸に、まだ終わらない任務へと向かって。
彼はまだ知らない。この少女が、“構造”そのものを拒絶する鍵であることを。だが、その手の温もりだけは、確かに知っていた。
あの夜、死にかけた都市で、命が“はじまった”と、胸のどこかが覚えていた。
──それが、あの夜。
“終わった街”で始まった、唯一の物語。
それが、この世界で唯一、選ばれなかった未来のための、小さな始まりだった。


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