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港湾都市クロウズネストは、敗北の炎に焼かれたまま静まり返っていた。 折れたクレーンが黒い影を突き立て、海風には焦げた鉄と潮の匂いが混じる。 崩れ落ちた倉庫の間からは、まだ煙が立ち上っていた。
その隙間を縫うように、低い羽音が絶え間なく響く。油に誘われる虫の群れが夜気を漂い、海の光と影を曖昧に溶かし込んでいた。
かつて50を超えた〈隊士〉は、いまや半分いかに減ってしまった。
地下に潜む者たちが多い中、この夜だけは広場に人々が集まっていた。
そこに歩み出る女がひとり。片眼を失った灰色の瞳、白金の髪を潮風に乱されながらも毅然と立つ。
クロウズネストの支配者、スヴェトラーナ・ソフィア・シェフチェンコ──カニヴァルス。
彼女は指先で欠けた鉄片を弄び、落ち着いた声で告げた。
「……私は敗北者だ」
沈黙が広場を覆った。異形の住民も、港湾労働者も、子を抱く母親も、その言葉を否定しなかった。
カニヴァルス自身も心の奥で呟く。
(力を収集し、生贄を糧にしてまで築いた牙は──折れた)
灰色の瞳に、かつての影が過ぎる。
──総帥の座を争った決闘。鋼鉄のホールに轟いた衝撃音。
圧倒的な力を誇るドミネーターの腕に絡め取られ、右目を潰された瞬間。世界は灰色に沈み、敗北の味が鮮烈に刻まれた。
あの敗北こそが、彼女の始まりだった。
そして今、再び敗北を語る。だが今回は、己ひとりのものではない。
彼女は続ける。
「だが、敗北者こそが、再び立ち上がるのだ」
その声には恐怖が滲んでいた。ドミネーターに敗れた記憶、隊士を供物にした罪。だが、すべてを背負った上で放たれる言葉には、冷酷さではなく矜持があった。
背後には隊士の灰色のマントが積まれていた。戦場に散った精鋭たち──実際には彼女の《捕食継承》を支える犠牲でもあった。だが住民にとっては勇士であり、家族だった。
「彼らは影眼だ。敗北の中で牙を残し、我らに道を示した者たちだ」
すすり泣く声があがり、やがて「我らも影眼の一部だ」と声が広がっていく。
港の水面には灯籠が浮かべられ、炎が波に揺れながら広がっていった。 その光を見つめながら、カニヴァルスは小さく吐息をついた。
そのとき、群衆の影に紛れた一人の青年が動いた。
黒髪に日焼けした肌、まだ少年の面影を残す鋭い目。
ジョジョ──クロウズネストに身を寄せる新参の隊士見習いであった。
彼の視線は広場の端に立つ、別の影を射抜いていた。
独特な立ち回り、訓練された気配。白章会の者だ。
ジョジョの背筋が冷たくなる。
(……監視役か。俺の正体を暴きに来た)
そして、その影が懐に手を差し入れるのを見た瞬間──
「……っ!」
ジョジョは地を蹴った。
刃を逸らしたのは守るためか、裏切るためか──自分でも分からなかった。
(俺は……白章会の人間だ。観測し、記録し、均衡を保つはずだった。それなのに、ここで選んだのは──守ること。)
秩序を絶対と教え込まれた日々が甦る。欠片を抱いた者は封じるべき「誤差」──そう教わった。
だが今、目の前にいるのは、恐怖に震えながらも必死に生きようとする子どもと母親だった。
黒い影──白章会の監視役が群衆の背を裂くように走り、袖口から細い刃を抜く。その手に握られていたのは、白い刻印の走る陶製の針。単なる暗器ではない。
白章会の封印術師たちが用いる儀式具──精神や欠片を拘束するための媒介であった。
ジョジョの胸を冷たく撫でる既視感。訓練のとき、何度も見せられた光景だった。
「やめろ!」
声と同時に、ジョジョの拳が空を殴った。
空気ではない。世界の表面だ。拳頭の先で透明な膜にヒビが走り、蜘蛛の巣のような裂け目が瞬時に広がる。《空間衝撃》──局所に生じた歪みが爆ぜ、針の軌道を横に弾き飛ばした。
陶針はコンテナ壁に突き刺さり、乾いた音をひとつだけ残して砕け散る。
その瞬間、ジョジョの鼻から鮮血が垂れた。視界の端が白く弾け、膝が笑う。
(まずい……! まだ、もたない)
彼の身体は後ろへよろめき、二歩、三歩と下がったところで膝をついた。痙攣する指を握りしめ、奥歯で呻きを嚙み殺す。
広場にざわめきが走る。
「暗殺だ!」
「裏切り者だ!」
怒号が波のように押し寄せ、数人が監視役へ飛びかかった。監視役は体を沈め、踵で石畳を蹴り、低い姿勢のまま横へ滑る。静かな呼吸、沈む肩、無駄のない歩法──白章会の型。群衆の手が掠め、すり抜けられるたびに苛立ちが火花になって散った。
爆ぜた陶針の欠片が血の滴に触れ、夜風の路面を転がる。そこへ、小さな黒い影が吸い寄せられるように集まった。甘い鉄の臭気と油に、低い羽音が重なる。
壇上から、落ち着いた声が降る。
「下がりなさい」
カニヴァルスが片手を上げた。
広場の空気が、ほんの一瞬だけ凪ぐ。
彼女は監視役に灰色の瞳を向ける。かつて、自分が度々用いたやり方が脳裏を過った。──《精神衝撃》で膝を折らせ、動きを奪い、言葉より早く恐怖で従わせる。
こめかみを刺すような痛みが走り、視界が一瞬揺れた。
だが、右のこめかみに意識を集中させた瞬間、乾いた空洞に指先を落としたような、虚ろな感触だけが残った。
(……届かない)
もうひとつ。前腕に鉱質の硬化を走らせ、刃を受け止める算段を描く──《鉱物変化》。
前腕に走らせたはずの硬化は、代わりに重い痺れとなって残った。
皮膚の下で、かつては即座にざわめいた密度の上昇が、今夜はどれほど念じても動かなかった。
(過負荷のツケか。二つ、失ったまま)
彼女は、わずかに目を細めると、言葉を選んだ。
「ここで血は流さない。敗北者の場を、さらに汚すのは許さない」
監視役が身を引き、間合いを測る。
カニヴァルスは一歩、壇を降りた。
周囲の隊士たちが自然と割れ、彼女と監視役のあいだに一本の通路ができる。潮の風の中、虫の羽音がまたひとつ、ふたつと重なった。まるで誰かが、この夜のすべてを見届けているかのように。
「秘密結社[白章会]のスパイだ」
ジョジョが、鼻血を拭いながら立ち上がる。

「その歩き方、息の取り方、目の配り方。俺は知ってる。……監視に来たんだろ。ここを、俺たちを」
監視役の視線がジョジョに跳ねた。
その一瞬の揺らぎを、カニヴァルスは逃さない。
「監視は好きにしなさい。ただし、刃を向けるなら、名前を名乗ってからにすることね」
灰色の瞳が、夜の底を照り返す。
「私はスヴェトラーナ・ソフィア・シェフチェンコ。クロウズネストの頭目、カニヴァルス。敗北者の長よ」
監視役の喉が鳴る。
群衆の圧が高まり、怒りと恐怖が入り交じる熱は、いつ暴発してもおかしくなかった。
そこでジョジョが、ひと呼吸だけ大きく吸い、声を張った。
「今のは暗殺未遂だ! 見たろ、陶針! これが白章会のやり口だ!」
状況を掴めないクロウズネストの住民たちは、ただジョジョの力強い言葉を耳にする。
「俺が止めた! 俺たちは、守れる!」
視線が一斉にジョジョへ向かう。
彼は胸の奥で冷や汗をかきながら、その視線を真正面から受け止めた。
(俺は……白章会の人間だ。ここまでやって、まだ戻れるのか?)
脳裏に、彼らの合図、儀礼、誓いの断片がちらつく。
それでも、目の端に映るのは、肩を寄せ合う子どもたちと、灯籠を握りしめる母親の手だ。
(守るって決めた。たとえ、どこかを裏切ることになっても)
監視役はゆっくりと後ずさり、群衆の密度を利用して輪郭を溶かした。 追う者が駆け出そうとする。
群衆の緊張がわずかに緩んだそのとき、霧のような影が壇上の片隅に揺れた。
青白い紋様を走らせた異形の外套姿──オラトリオ。
胸の三叉の印が赤く灯り、幻のように揺れていた。
「……オラトリオ。また現れたか」
カニヴァルスの灰色の瞳が鋭く細められる。
「敗北の炎の中でも、刃はまだ鈍っていない。だが──錆の下に光は残っているのか」
低く響く声に、広場の空気が凍りついた。
ジョジョの心臓が跳ねた。白章会の監視役だけではない。
(……オラトリオ? [スペリオルズ]の幹部。なぜ、ここに……)
白章会の秘儀に通じ、スペリオルズに身を置く異形。
オラトリオ──その存在は、白章会にとっても“観測不能因子”と呼ばれる危険そのものだった。
彼女の眼差しが、一瞬だけジョジョを射抜く。
(……俺を試しているのか? どちらに立つのかを)
「嵐は近い」
オラトリオはそれだけを残し、群衆の眼前で霧のように溶けた。
残響のような羽音だけが夜気に漂い、港の炎を震わせた。
カニヴァルスが首を振るだけで、動きが止まった。
「いい。今日は、去らせなさい。こちらも、見せたいものがある」
彼女が手をかざすと、港の方から幾艘もの小舟が押し出された。
灯籠がひとつ、またひとつと水面に乗る。
風に揺れる炎は、消えかけては新しい灯で支えられ、やがて夜の海を無数の光で満たした。
血の匂いに集まっていた小さな黒い影が、今度は炎に引かれるように軌道を変え、光の上で渦を描く。羽音は遠い潮騒に紛れ、いつしか祈りの囁きに変わっていった。
カニヴァルスは、灯の海を背に群衆へ向き直った。
「私は敗北者だ。だが、敗北は終わりではない」
右目を触りながらカニヴァルスは群衆へ放つ。
「……かつて、私は総帥の座を争って、右の目を失った。あのとき、私は独りで敗けた。だが今は違う。私は独りではない。あなたたちがいる。影牙がいる」
彼女は壇の脇に積まれた灰色のマントの山に目をやり、最前列で立ち尽くす少年の肩を見つける。
ジョジョだ。今も少し震えている。だが視線は逸らさない。
彼女はマントを取った。
近づき、躊躇なくジョジョの肩に掛ける。
布地が重みを伝え、湿った潮風の中で裾が翻る。
「まだ早い。だが、可能性はある」
「……はい」
ジョジョは短く答え、噛みしめるように唇を結んだ。
彼女は続ける。
「力を集めるのは、簡単だ。私はそれをやってきた。《捕食継承》で、牙を増やすことばかり考えた。……その結果がこれだ」
言いながら、右のこめかみに一瞬だけ触れる。
「今夜、私は二つの力を失った。心を折る手と、身を守る殻。だが、私は後悔をしていない!」
ざわめきが揺れる。
「私は力を取り戻す事より、あなたたちを選ぶ。敗北を背負った私たち自身を。牙は集めるものではない。研ぎ直すものだ」
広場の縁にいた老人が、灯籠の火を見て頷いた。
「……影眼は、折れても残る」母親が子にささやく。
「あなたの父さんも、影眼」 声が次々と重なり、潮風のなかでひとつのうねりになる。
ジョジョは肩に新しい重さを感じながら、遠くに消えた監視役の背を思い浮かべた。
(いずれ、俺の前にも立つだろう。……そのとき、俺はどっちを選ぶ?)
彼はマントの裾を握った。指先が、まだ微かに震えている。それでも、拳は開かない。
港の灯がさらに広がる。
消えかけた炎が、なお残り火となって海面を漂い、敗北者たちの歩みを照らし続けていた。
海鳥の鳴き声が短く切れ、波間に漂う炎の列が、夜の水面に細長い道を描いた。
その道は、まるでこの都市の奥底に続いているように見えた。
敗北者たちが、もう一度歩き出すための道だ。
カニヴァルスは最後に、群衆を見渡した。
灰色の瞳は恐怖を抱えたまま、それでも明かりを映す。
「今日から、敗北者は立ち上がる。暗闇の中で──灯を繋いで」
その言葉に、広場の全員が、ほんの一瞬だけ息を合わせた。
静かな呼吸の波が、潮騒と混ざり合う。
虫の羽音が、はるか上空でかすかに追いかけてくる。
灯は流れ、記録される。
影は残り、見守られる。

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