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ギアホールド北部へ抜ける最短路は、真っ直ぐな線ではなかった。正面突破は銃火と検問に呑まれる。だからベータは影の濃い路地を縫い、足音よりも呼吸を小さくする。 天蓋の下、警戒塔の赤い警告灯が曇天を断ち、遠くでは黒煙が細く立ち上る。焦げた臭い、油の気配、風に混じる低い羽音。砂塵の粒子に紛れて、黒い小点が漂っては消える。(……虫が多い)と誰も言わない代わりに、三人は視線だけで共有した。
シャレヴはナノファイバースーツの襟を指で弾き、歩幅と視線の角度を町のリズムに合わせる。体質系ネクス《モーフ》はすでに起動中。髪色も輪郭も別人に変え、服もそれらしく模した。だが細部は誤魔化しきれない。能力を使うほど布地の皺や縫い目の再現は崩れ、袖口の糸はわずかにほつれる。
(三度目の変換で、縫いの再現率が落ちた。次で限界かもね)
再現した服を整えながらシャレヴが一歩前に出る。
「行ってくる。目立ったら戻るよ」
囁きを残し、彼は雑踏に溶けた。
壁の陰に残ったハナン・ハーフィズは、呼吸の数を数えながら通りを観測する。精神を飛ばすたび、肉体はわずかに硬質化し、防御反応で輪郭が薄くなる。完璧ではない。長く離れれば戻る時に眩暈が来るし、視界の端に白いノイズが走る。
(それでも、やるしかない)
ワサンは風向きを読むように手をかざし、喉の奥に溜まった金属の味を確かめた。外の世界の空気は気まぐれで、だが彼には地図だ。粒子になれば、流れが路地の形を教えてくれる。
シャレヴは市場の縁で足を止めた。住民のひとり――古びた麻袋を抱えた男――が、雑踏に混じるには歩幅が揃いすぎ、視線の運びは壁沿いをなぞっている。
(うーん、なんだか同業者みたいな歩き方ね)
男が角を曲がる。人気のない裏路地。錆びた鉄扉。シャレヴは腰の端末をスーツ越しに軽く叩き、制御盤に触れさせた。微かな振動と光。
「マリク博士、解析を」
『受信。暗号はギアホールド標準じゃない……クロウズネストの形式。夫婦運び屋。通路を二本併用してる』
「了解。同類がいるってことね」
シャレヴは通信を切らず、ハナンに短く指示した。
「潜れる対象を探して。入口の手順を盗む」
ハナンは通りすがりの作業員と視線を合わせる。思念系《ホロウ》。意識の輪郭を滑らせ、相手の中へ。皮膚の内側から世界を見る瞬間、汗の塩と錆の臭いが鼻腔に広がった。
過去の断片がパラパラ漫画のようにめくられる――貨物用シャッター、刻まれた手順、合図に使う咳払い、見張りの癖、通す相手の顔。
ぬらりと戻る。軽い眩暈。ハナンは壁にもたれて息を整えた。
「入口の符牒、把握。クロウズネストの夫婦、定刻に動く。アッシュポイントとは別筋」
シャレヴが顎を上げる。
「二本の線が交わらない……なら、絡ませてやればいい」
ワサンは壁の陰で歩みを止め、息を細く吐いた。変成系《フューム》。体が白い霧へほどけ、微粒子の群れとして風に乗る。
人の歩幅では届かない前方に、彼は空気の河を伝って回り込む。曲がり角を滑ると、空気が急に重たく甘ったるくなった。腐臭。油と血が泥になった場所。視覚は無数の粒に分かれ、嗅覚は膜全体で受ける。
(やっぱり見なければ良かったわ)
地面に転がる死体。歯形。肉を裂く湿った音。犬に似た何かが群れ、骨と金属を噛み砕く。目は血走り、鼻面は油で濡れていた。密度を誤れば渦の中心に吸い込まれる――直感が警鐘を鳴らす。
一頭がふいに顔を上げ、鼻を震わせた。霧の粒子を嗅ぎ取ったのだ。ワサンの感覚が凍る。次の瞬間、獣の牙が空気を噛みちぎり、霧の端が一瞬だけ“掴まれた”。
本来なら触れれば散るはずの粒子が、噛み留められた感覚。
(……普通の犬じゃない!)
咄嗟に密度を変え、霧を分散させる。牙は虚空を裂き、血走った目だけが彼を追った。
「博士、映像送る。判定を」
『……ヒット。アッシュポイントの偽装犬獣。ワイルドシングの嗅ぎ役よ』
ワサンは微粒子の密度をさらに薄め、腐臭の層を乗り換える。風が彼を運ぶ。羽音がどこからか増え、黒い点がわずかな渦を描いて散った。
その頃、シャレヴは扉の前で何気ない欠伸をして、壁にもたれた。作業員の群れが一瞬だけ視線を逸らす隙。指先が端末を走り、偽の許可信号を忍ばせる。
『クロウズネストの夫婦、今夜の搬入は二十三時。補助通路は北三番。合図は咳二つ』とミーラ。
「上等。アッシュポイントには別の囁きを」
シャレヴは市場の端で小さな噂の種を落とす。《モーフ》で次々と姿を変えていく。服が雑になっていくが、あくまで噂を広げるためなら十分。
酒樽、井戸端、賭場の卓。言葉は軽く、だが方向は揃える。「カラスは裏切る」「犬獣が道を嗅ぎつけた」「誰かが誰かを売った」――そう聞こえるように、語尾を濁し、口の端を上げる。
ハナンは短い時間だけ《ホロウ》を再起動し、視線だけで別の器を辿った。体は薄く硬質化している。透明化した皮膚に灯りが滲み、指先が冷える。限界は近い。
「咳の合図を変える。咳、一つに」
『了解。クロウズネスト側の手順も上書きした。今夜は互いに“違う合図”を待つことになる』
素早く反応したミーラの仕掛けた罠。
その頃、クロウズネストの夫婦は貨物通路の入口で待っていた。
「……遅いな」
「合図は本当に“二つ”だったか?」
互いの視線に猜疑が走る。腰の短剣に自然と手がかかる。そこへ別の作業員が通りがかり、「裏切りだ」と吐き捨てて去る。
たちまち二人は互いの顔色を疑い、指が刃の柄を強く握った。
シャレヴは薄く笑う。
「連携は鈍る。疑心は増える。だから俺たちが通れる」
夕刻。天井灯が数本、ぱちぱちと瞬きを繰り返し、広場では小競り合いが増え始めた。押し合い、罵声、肩がぶつかっただけで手が出る。まだ銃は抜かれない。だが空気は乾いた火薬のようにきしみ、虫の羽音がその上で薄い膜を張る。

倒れた椅子が砕け、酒樽が転がり、赤黒い液体が石畳に広がる。拳が飛び、頬に血がにじむ。銃が半ば抜かれ、仲間に押さえ込まれる。
空気は火薬を撒いた倉庫のように、誰かが火を点けるのを待つだけだった。その上で、虫の羽音がひどく耳障りに響いた。
「ふう……」
ワサンは再構成を始め、霧から人の輪郭に戻る。布地が遅れて追いかけ、袖が少し伸び、ベルトの穴が一つずれた。
「ズレちゃったみたいね」
すぐにスーツを確認していたワサンはやっぱりという顔になる。
「気にしない。動ける」
シャレヴが全体を見渡し、低く告げる。
「計画通り、北へ。お開きになる前に」
北部の貨物ヤードは、黒煙の出どころに近かった。焦げた樹脂の匂いが強く、焼けた鉄の熱が靴底を温める。遠い地鳴り――誰かがどこかで大砲を鳴らす。
北空には閃光が走り、雲を裂いた。南方では重低音が断続的に響き、大地を震わせる。それはアルファとスペリオルズが動き始めた兆候――だが、ここでは誰も気付かない。
ただベータだけが、同じ時を並走しているのを直感していた。
シャレヴは鉄柵の影で身を伏せ、見張りの視線が交わる盲点を見つける。
「三十数えて、右。ハナンは二十で精神をシフト――目標は監視詰所の手順奪取。ワサンは風下から微粒子でセンサーの“鼻”を詰まらせろ」
「二十、了解」
「了解よ」
数える呼吸の合間、別の呼吸が混じった。
――咳が一つ。約束では二つ。小さなずれが、小さな火花を生む。
倉庫の影で待っていた誰かが怪訝そうに眉をひそめ、隣の誰かが舌打ちする。伝言が伝言を食い、意味は歪む。
やがて、怒声。
やがて、拳。
やがて、抜かれた刃。
爆発音がひとつ、遠くで重たく響いた。赤い警戒灯が回り、黒い点が一斉に舞い上がる。
その渦中を、ベータは影のまま通り抜けた。
ハナンは詰所の窓に目を合わせ、短く《ホロウ》を差し込む。手順は単純で、だが人は複雑だ。不安を抱えた視界は罠と罠でいっぱいで、それでも指は慣れた通りに鍵を回す。ハナンはそっと手順だけ盗み、視線を切り、引き返す。喉に熱い砂が落ちていくような疲労。
ワサンはセンサー塔の根本に粒子を染み込ませ、受光部の前に薄い靄の膜を張った。光は散乱し、限界値は上がる。塔は“ほぼ無風”を報告する――実際には、風は騒いでいるのに。
シャレヴは柵の影から影へ、影の密度を読みながら移った。視線は常に計算され、歩幅は騒ぎのリズムに同期する。袖口の糸はさらにほつれ、偽装の服は任務のたびに真実へ戻ろうとしている。
(もう一回が限界だ)
怒鳴り声が爆ぜ、殴打の音が続き、銃声が一発だけ空気を裂いた。
ベータの三つの影は、北部の入口に到達する。鉄シャッターの脇、消えかけた墨で合図の記号が二つ刻まれていた。シャレヴは指先でそのうちの一つをなぞり、唇の裏に小さく笑みを噛んだ。
「合図は“一つ”に変えたはずだろ」
背後で、誰かが「二つだ」と怒鳴り、別の誰かが「一つだ」と返し、第三の誰かが刃物を抜いた。小さな論争は、火薬庫のそばで火を弄ぶようなものだ。
扉がわずかに開く。中は薄暗く、熱が籠もり、遠い震動が床を震わせた。 ベータは滑り込む。外で、怒鳴り声が火に油を注ぐ。黒い点が、光の筋で散る。
やがて、騒ぎの輪から一歩離れた人影があった。
住民の粗末な装い、頬に刻まれた入れ墨、誰も覚えていない顔。その瞳だけが、氷のように澄み、炎のように妖しく揺れている。
「小さな裂け目は、やがて均衡を割る。世界は、最初から割れているのにね」
その声を聞いた者はいない。だが未来は確実に、裂け目から滲み出す。やがて炎のような渦となり、全てを飲み込むだろう。
女は囁きを地面に置くように零し、視線を騒ぎの中心から外縁へ撫でた。 彼女の名を、ここで呼ぶ者はいない。だが明日、砂塵と砲火の中で、その名は予言のように繰り返されるだろう。
鉄扉が音もなく閉まり、内側の闇が三人を呑む。
外の羽音はまだ続いている。記録者がいるなら、今の一瞬をどう書き残すだろう。
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