第一章 Scene.01 -「秘静潜行」

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▼オリジナル小説

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 ≪監視ドローン映像、送信開始。旧パース・シティ東部、座標──≫

 割れた半球ドームの骨組みが、濁った空を背に骨のような輪郭を突き上げていた。透明だったはずのパネルはとっくに砕け、鉄の肋骨だけが砂にまみれて軋む。熱を孕んだ風が瓦礫の匂いを転がし、油と焦げと血の乾いた匂いをひとまとめにして人の鼻腔へ押し込む。
 砂塵の渦のどこかに、かすかな羽音が混じった。黒い点がひとつ、ふたつ、空の粒子と見分けのつかない振幅で漂い、また消える。

 マットグレーの外装に陽を鈍く弾く水素エンジン車〈ピコちゃん〉が、廃墟地帯の影へ音もなく溶け入っていく。車体の隅には沈んだ銀色の紋章――[統律特命局]。運転席のサミュエル・シーラ・シャレヴは、青い瞳を前方へ据えたままアクセルをわずかに緩め、路地の影を数えるみたいに息を細くした。

『……見ての通りね。地図はもう飾りよ。瓦礫で塞がれた通路、新設のバリケード、寄せ集めの監視網。小型融合炉は北部。接近は細心の注意で』

 後席に投影されたミーラ・マリクのホログラムが、車内に冷たい色の声を落とす。

「了解、博士」

 ワサン・ウォンチャイが軽い調子で答え、指先で座面をとんとんと叩く。
「さ、〈ピコちゃん〉で行くわよ」

 その呼び名に、シャレヴもハナン・ハーフィズも何も言わない。ただ、ワサンが笑みを頬に貼りつけている間も、二人の視線は車外から離れなかった。

 抜けた先の通りに、粗末な木材と波板で組まれた柵が現れた。見張りが三名。銃は古い。だが引き金を引く決断は、新しい。シャレヴは迷わずブレーキを踏み、エンジンを落とす。

「ここからは徒歩だ。音を置いていく」

 三人は扉をそっと押し、熱と砂の匂いの中に立つ。露店の影で干された魚が脂を吹き、古い鍋が錆を光らせている。子どもは布のボールを追い、老人は機械片を磨く。誰も長く外部者を見ない。目はすぐ逸れ、肩はわずかに狭くなる。通りの端に、壊れた監視カメラの眼球が転がっていた。

 シャレヴは路肩にうずくまるドローンの残骸に目を止める。片翼は根元から折れ、外殻は溶接痕で醜く盛り上がっている。彼は膝をつき、右手の人差し指を立てた。
 体質系ネクス能力《モーフ》。皮膚が工具の輪郭を覚えるように硬度を変え、指先は薄刃に、次いで極小のこじ開け具に形を変える。外殻を割ると、内部の配線は見慣れぬ流儀で継がれ、回路基板には粗いが能率の良い短絡が追加されていた。

「博士、どう見る?」

『現地改造。粗いけれど、効果的よ。元の監視網を横取りしている。……誰かが、誰かを覗いているわ』

 シャレヴは基板を戻し、指を元の形へほどく。その手は、人の臓器を救うために形を変えたこともある。今は、壊すためにも、守るためにも形を変える。

 ハナンは避難民の列の向こうに、かつての家族の背中に似た影を見つけ、足を止めた。瞼を閉じる。思念系ネクス能力《ホロウ》。精神は細い糸になって男の体に滑り込み、彼の視界の高さで市場を歩く。
 値踏みする声、嘘と本音が同居した笑い、背後に張りついた視線――。誰も、誰をも見ていないふりをしている。目だけが、状況を握り潰さないように開いている。胸の奥に鈍い痛みが刺す。

(見なくていいものを、見に行ったのは私)

 ワサンは人気のない細道に消え、変成系ネクス能力《フューム》で霞のように気化する。
 板塀の割れ目をすり抜け、屋根裏の暗い梁を撫で、乾いた土間の隙間に落ちた金属の匂いを拾う。物資の隠し場所、古い銃器の格納箱、使いが回る合図。香水の気配を薄く背負って、彼は何事もなかったように立ち現れた。  だが襟の端は僅かに曲がり、粒子の縫い目がずれたまま戻っている。ワサンはそれを指で整え、香水の匂いを少し強めに纏わせて誤魔化した。

「裏道、一本確保。もう一本は罠つき。ワイヤーの錆が新しいわね」

「見張りの癖はどう?」

「右の男は左利き。合図は耳。撃つ前に、必ず触る」

 黒い点が三つ、陽の反射の中を漂った。羽音は砂の擦れる音と同じ高さで、聴く意志がなければ空気の誤差に紛れる。

「……ボクが確かめる」

 シャレヴは低く呟き、露店裏へと音を立てずに回り込む。  影に潜んでいた若い見張りの首筋に、彼はためらいなく手を当てた。細胞操作で形成した圧迫点が短く脈を断ち、男は息を呑む間もなく意識を落とす。

 次の瞬間、シャレヴの皮膚が波立った。体質系ネクス能力《モーフ》――その本領は模倣である。
 血管の走り方、喉の奥の音色、瞳の色調から古傷の線まで。ナノファイバースーツが細胞操作に同調し、衣服ごと外見を写し取る。倒れた男を影へと横たえる頃には、そこに立っているのは「見張りの若い男」だった。

(……長くは持たない。繊維の追従は完璧じゃない。三分も立てば、歪みが目に見えて出る)

 柵を越え、歩哨の歩調を真似て数歩進む。耳たぶに触れて視線を逸らす――癖も再現する。  だが袖口にわずかな“ほつれ”が生じた。繊維が追従しきれず、縫い目が一瞬だけ歪んで見える。
 別の見張りが眉をひそめ、半歩こちらに近づこうとした。喉の奥で声が形になりかけた瞬間、遠くで瓦礫が崩れる音が響き、注意はそちらへ逸れた。

 ――見られる前に退け。

 シャレヴはそう判断し、合図役の位置、屋根の縁に控える交代要員の数、路地奥に潜む監視の網を視界に焼き付ける。
 影に戻るシャレヴの背を、ワサンとハナンは黙って見ていた。二人にも、今の短い潜入で十分すぎる情報が伝わった。
 網は三角形の視野で重なり合い、一人が消えても即座に補充される態勢だった。

「……正面突破は無理っぽいな」

 歩哨の仕草をなぞって場を離れ、再び影に戻る。模倣の皮膚が静かに解け、袖口のほつれとともに元の姿へと戻る。
 シャレヴは息を押し殺し、額に滲んだ汗を袖で拭った。細胞を削る感覚は、医療の現場で誰かの命を繋いでいた頃と同じ――だが今は、自分を守るために費やしている。

「交代も早いし、合図役もいる。あの三角視野じゃ、昼間は勝負にならないだろうな」

 シャレヴの報告に、ワサンは肩を竦めて笑った。

「やっぱりね。昼は匂いが悪い」

 ハナンは薄く笑う。
(人は、安心する音と、いつも通りの光景を欲しがる)

「……夜まで待つ」

 シャレヴはそれ以上の言葉を足さず、ただ短く結論を告げた。

 彼らは雑踏に紛れて歩き、やがて〈ピコちゃん〉の影に戻った。シャレヴは座席に沈み、指でドローン基板の感触を思い返す。

「正面突破はやめる。陽が落ちるのを待とう。夜は巡回の間隔が伸びる」

「いつも通り、ね。アタシたちのやり方でやる。いい?」

 ワサンの問いに、シャレヴは顎で応じる。ハナンはこめかみを押さえて目を閉じた。精神を飛ばした反動で、視界の奥が鈍く脈打つ。

(眠っても、夢のほうが騒がしい)

 体を覆っていた透明の硬質化が解ける瞬間、腕の輪郭が一瞬だけ揺らぎ、元の形に戻る。ハナンは唇を噛み、揺らぎを押さえ込むようにこめかみを押さえた。

『どれくらい待つつもり?』

 腕を組んだままのミーラが、わずかに苛立ちを滲ませる。

「夜まで。雲が厚いから、暗くなるのは早い」

『……いいわ。必要になったら呼んで』

 ホログラムは応答をまたずに切れた。

「感じ悪い女ね」
 ワサンのぼやきに、シャレヴは人差し指を立てた。

「いろいろ、溜まってるんだろ。彼女は。発散する場がない人は、論文の脚注に本音を書く」

「科学者あるある、ってやつ? いいじゃない、脚注デート」

「お前、脚注の読み方、知ってるの?」

「香水の成分表と同じでしょ。小さい字のほうが、真実」

 ハナンが薄目を開ける。「……耳栓、ある?」

 二人は同時に口をつぐんだ。車内に静けさが降りる。外では、黒い点が一度だけ窓を横切った。羽音は風の誤差だったのかもしれないし、誤差であってほしかったのかもしれない。

 時間が、砂よりも遅く流れた。遠方で鈍い爆発音が一度、遅れてもう一度。空に新しい黒煙が線を足し、午後の色を少しだけ重くする。別の場所で、別の物語が同時に展開されている――そんな気配だけが、地面の振動に短く刻まれた。

「サム」
 ハナンの声は低い。眠りから浮上する直前の柔らかい高さ。

「もし夜に、避難民の間を通るなら。……私が先に歩く。彼らの目線の高さが、いちばん安全」

「任せる。ボクは前方の罠、ワサンは裏ね」

「裏は好きよ。香りが溜まるし」

「香り?」

「誰かがここで恐怖を吐いたら、その匂いは梁に昇る。空気は嘘をつかないのよ」

 ふっと、笑いが車内を掠めた。ハナンはその笑い声の薄さに、少しだけ安心する。壊れた世界の中で、冗談はまだ生きている。生きているものがあるなら、眠ることも、まだ罪ではない。

「もう少し寝る。時間になったら起こして」

「了解。時間になったら優しく起こすよ」

 シャレヴの意味深な言葉にハナンは一瞬だけ睨むも止めて寝る体勢を取る。
 ハナンは背もたれに沈み、呼吸をゆっくり砂のように落としていく。シャレヴは窓の外を見た。割れたドームの骨が、夕方の色を拾い始める。鉄骨の隙間に、黒い点がまたひとつ引っかかり、すぐに風に剥がれてどこかへ消えた。


「……夜だ」

 誰にともなく呟いて、シャレヴは目を閉じた。夜になる前の暗さは、いつも一瞬、深呼吸をする。彼の中で何かが、任務に切り替わる音を立てる。昔、手術室に入る前に聴いた音に似ている。扉のシールが吸い付く、あの乾いた音だ。

 砂嵐の縁で、世界はログのページを一枚繰る。羽音は行間に入り込み、夜を待つ目がいくつか、こちらを見ている。

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